第3023日目 〈小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」 〉4/9 [小説 人生は斯くの如し]

 帰宅してみるとメイドはポーチのいちばん奥、風をしのげる場所にうずくまっていました。わたくしがそばまで来ると、きっ、とこちらを睨むように見、色の薄くなった唇を横一文字に引き結んで、無言で抗議の色を表情に浮かべています。鍵の場所を教えたのにどうしてなかに入っていなかったの、と玄関を開けながら訊いても、彼女は答えようとしません。
 大急ぎで鍵を開けて、取るものも取り敢えず彼女にシャワーを浴びてくるよう促すと、わたくしはもともと作る予定でいたボルシチとビーフストロガノフの仕度に取り掛かりました。手間や時間が掛かりそう、と及び腰になる方もおられるようですが、作り馴れると案外短い時間で、然程の手間を掛けずに出来上がってしまうものです(世界のどこでも家庭料理ってそんなものだと思います)。もっとも、彼女がだいたいどれぐらいの時間でシャワーからあがりそうか、あらかじめ訊いていたから時間配分ができたことは否定できません。
 持参したTシャツとショートパンツに着換えた彼女が、お先にいただきましたぁ、といいながらスリッパを履いた脚をペタペタさせてこちらへやって来ます。食卓の上に乗った料理を見て歓声をあげてくれたことが、頗る嬉しかった。誰かのために、誰かを思って食事を作る喜びなど、もう何年も経験していませんでしたから……。バスタオルで髪をわしゃわしゃ拭いてひょい、とこちらを見やった彼女はすっぴんでした。当然初めて見るすっぴんですが、あまり普段と変わらないな、とぼんやり思ったことを覚えています。
 いただきます。どうぞ、お口に合えばいいけれど。
 「ロシアにいるときに覚えたの? 自炊しているのはもちろん知ってたけど、こんなに美味しいものが作れるなんて思わなかったよ。もっと簡単に済ませてると思ってた」
 「え、どんな風に?」
 「んー、まぁ、いいじゃん」
 「なんだ、それ」
 「でもね、なんか本場の味、って感じ。行ったことないから想像でしかいえないけれど、ロシアの家庭で日常的に作られているボルシチとかってこんな風にシンプルだけど、素朴な温かみがあるんだろうなぁ、って思うよ。ほんと、美味しいとしか言い様がない」
 お代わりでもしかねない勢いで口に運ばれてゆく料理を眺めていたら、ああ、もうすこし多めに作ればよかったかな、と思わざるを得ませんでした。別に餌付けするつもりはありませんが、こんな風に美味しく食べてくれるなら、幾らでも食べてほしいと思うのが作り手の本音ではないでしょうか。
 メイドとのこのやり取りが、わたくしの心に触れてこれまで抑えていた気持ちがむくり、と鎌首もたげさせたのは、いまにして思うとまったくふしぎなことではありませんでした。むしろ、自然な成り行きであったかな、と思うことであります。
 「ねえ、転職先が見附からなかったら、うちの喫茶店で働きなよ。給料はいまより安くなっちゃうけど、どうかな?」
 「ロシア料理専門のシェフとして? それだけで? 人件費に見合わないと思うんだけどな」
 「いや、結構本気でいってるんだけれどね。ウッド氏がいつもお店にいてくれたら嬉しいな?」
 え……。いまの台詞、どんなつもりでいったんだ? 気のせいではないと思います、心臓の鼓動が耳の内側ではっきりと聞こえたのは。
 口が開いては閉じ、を繰り返しているのがわかります。手が不自然な動きを始めたのもわかります。が、メイドはこちらの様子など気に掛ける様子もない風で、──
 「ウッド氏が来てくれたら、うちのメニューにロシア料理とカナダ料理のレパートリーが増える。それに加えて私が翻訳の仕事に集中できる時間が増える。Win-Winじゃん?」
 いや、Win-Winの使い方、間違ってるぞ、といいたかったのですが、その気も失せました。
 「じゃあ、そうなった暁には是非宜しくお願いします。雇用主様」
 ウィ・ムシュゥ、と頷いて、再びビーフストロガノフを食べ始めたその表情には、得も言われぬ幸福感が貼りついていました。どれだけ満足しているかは、彼女の表情がすべてを物語っています。この表情を至福とか法悦とか表現せずして、なんというのでしょうか。
 ふだんは見ぬ服装、ふだんは見ぬ化粧を落とした顔、普段は見ぬ下ろした黒髪、普段は見ぬ誰かとご飯を食べているときの満面の笑み。これらすべてを総合して、可愛いな、と改めて思わざるを得ませんでした。この子と結婚した人は、きっとどれだけ生活が窮乏していたり世間から理不尽な目に遭ったりしても、毎日を笑って過ごせるんだろうな。そう思うと途端に、まだ現れぬ(見ぬ?)彼女の結婚相手が羨ましくなり、同時に嫉妬と殺意を(わずかながら)覚えたのは致し方のないことだと思います。
 あのまま婚約者が生きていたら。家庭を持てていたら。でも、それはもうゆめ叶わない出来事です。どれだけ希求しても、どれだけお金を積んでも、死んだ人間を甦らせることはできないのです。技術云々ではなく、偏にそれは禁忌です。どれだけ才能と技術があっても、わたくしはフランケンシュタイン博士にはなれないのです。
 いつもここに亡き婚約者がいることをつい夢想しますが、いまぐらいそれが空しい行為であることを、目の前のメイドが証明しています。あまりに落差があり過ぎる。わたくしの心は淋しすぎる。どんどん内側にこもって闇のなかへ落ちこんでゆくわたくしを、メイドの台詞が引き戻してくれました。感謝。
 「いやぁ、食べた、食べた。ごちそうさま、ウッド氏。とっても美味しかった。ありがとう。また食べさせてね?」
 「いつでも」と答えた気持ちに偽りはありません。メイドと、あの喫茶店で、2人で同じご飯を食べる。きっとわたくしが望む日常とはこういうことなのだろうな、と今日程実感した日はありません。そうして、彼女をいつしか想うようになっていることも、この2時間弱の間に気附かされました。とはいえ、自分の恋心に自覚はあってもそれは、胸のうちに仕舞っておくべき感情であることもわかっているのです。
 けれどもメイドはといえば、こちらの気持ちを知ってか知らずか、昼間喫茶店で見せたと同じ小悪魔じみた笑みで、ウッド氏がうちに来たらどんなメニューを加えようかな、と算段しています。ロシアの家庭料理は大概のものは作れる、カナダのそれも子供の頃に祖母がよく作ってくれたモンティクリスト(モンテ・クリスト伯でもなければモンティ・パイソンでもない)やメープルマッシュルーム、スモークサーモン、ジビエ料理、シェパーズパイ、アップルクランブル、そんな辺りであればいまでも作れる、と伝えました。但し、材料の関係で日本風にアレンジしなくてはならない場合もあるでしょうが。
 「まぁ、それは仕方ないね」と彼女。
 「向こうと同じものを使おうと思ったら、仕入れも在庫管理も大変になるからね」
 彼女は腰をあげ、洗い物は任せて、といって空っぽになった2人分の食器を片附け始めました。ありがとう、じゃあお願いね、といいかけて、口をつぐんでしまいました。食器を運んでゆく彼女の横顔に、一瞬間とはいえ、似合わぬ影が射しているのを認めたからです。その影の理由については、あとでわかりました。たぶん、もうこの晩には決めていたのでしょう。でもそのときのわたくしには理由についてあれこれ考えを巡らすよりも、誰かと一緒にプライヴェートな食事をした、という数年ぶりに経験した喜びの方が、ずっと優っていたのです。まったく、非道い男です。
 蛇口から水の流れる音に負けじと、メイドが鼻歌を歌っています。それはザ・ロネッツの「Be My Baby」でした。Oh,since the day i saw you, I have been waiting for you, You know I will adore you ’til eternity. (ああ、あなたを見たあの日から、ずっとあなたを待っていたのよ。わかるでしょ、わたしはあなたをいつまでも好きだってこと) ──ああ、メイドよ、そんな歌をうたってわたくしを惑わせないで。あなたの声がわたくしにはサイレンの魔女の歌声に聞こえてならないよ。
 そんな風に悶々としているうち、いつしか鼻歌はやんでいました。水音も然り。洗い終えた食器を拭いてくれているのでしょう。「ねえ、ウッド氏?」
 「なんだい?」努めて声は平静を保ったつもりです。
 「さっきシャワー浴びさせてもらったんだけどさ、やっぱりお風呂に入りたい。いいかな?」
 段々理性が崩壊してゆくのを感じます。でも、まだ理性は死んだわけではありません。「お、おう。じゃあお湯、張ってくるね」
 「うん、お願い。ごめんね、わがままいって」
 ──風呂場に行くと換気がされていませんでした。まだ湯気がこもり、彼女の甘ったるい残り香が鼻孔をつきました。お前はいったいなにを考えているんだ、なにを望んでいるんだ、お前が求めるものはなに一つ手に入らないとわかっているだろう。そんな風に自分に言い聞かせて、湯沸かし器のスイッチを入れました。
 戻るとメイドはリビングの座卓に原書を広げて(彼女がライフワークにしている、20世紀中葉から後半に掛けて活躍したアメリカの作家、オーガスト・ダーレスが数多書いた郷土小説の1冊だそうです。タイトルは『Return to Walden West』だったと記憶します)、終わりの方のページに目を落としていました。でも、読んでいるのでない、というのはすぐにわかりました。そう、ただ目を落としていただけなのです。
 なんだか落ちこんでいるような、悩みを抱えているような、そんな雰囲気です。食事中の彼女とは打って変わった様子が、妙に心に引っかかりました。
 わたくしは座卓の反対側に腰をおろして、そっと訊ねました。「なにがあったの?」
 しばし無言、やがて彼女が小さく顔をあげました。垂れた前髪から透けて見える瞳が濡れているように見えました。気のせいかな、と思いましたが、後日になってそれが気のせいでないとわかったときは、もう手遅れだったのです。□

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