第3024日目 〈小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」 〉5/9 [小説 人生は斯くの如し]

 座卓の上に握り合わせた両手を投げ、上体を屈めて彼女の顔を覗きこみながらわたくしは、重ねて、どうした? と訊ねました。「話せることだったら、聞かせてほしい」
 刹那、われらの目が至近距離で合いました。やはり、彼女の目はうっすらと濡れています。それが未遂で終わった欠伸とかそんな類のものでないことは間違いありません。こみあげてくる涙をどうにか抑えている、という風にしか、わたくしの眼には映りませんでした。
 「ウッド氏はさ、……」
 続く言葉は発せられませんでした。
 メイドはゆっくりと頭を振り、なんでもないよ、と小さな声でいいました。それはまるでわたくしにではなく、自分にいい聞かせているように聞こえます。ボックスティッシュを座卓の上に置くと彼女は無言で二枚、三枚と抜いて目を拭い、頬を拭き、鼻をかみました。
 そうして短い吐息をついた後、まわりを見回していた彼女の顔が、わたくしの肩越しに視線を向けて止まりました。その視線を追って、彼女の目がなにを捉えたのか察したとき、今度はわたくしが俯く番になったことを悟りました。
 メイドの視線の先にあるのはほぼ間違いなく、一個の写真立てです。壁際のサイドボードに置かれたそれに収まる写真とは、──
 「どなた? あの方が、その……?」
 そうだよ、と頷いて答えます。そちらに背を向けたまま、座卓に視線を落として、「あの女性が僕の婚約者だった人だよ」といいました。
 メイドも、わたくしにかつてそのような女性がいたことは知っています。が、大人の女性としての最低限の礼儀とデリカシーは持っていますから、写真見せてぇ、とか、どんな人だったのぉ、とか無神経な質問はしてきませんでした。当たり前のことではありますが、わたくしがメイドに好意を持っている理由の一つは、こうした他人への配慮がきちんとできる点にあったのです。
 見せていただいてもいい? と極めて自然な声で訊いてきます。わたくしも自然と、どうぞ、と答えることができました。
 彼女は立ちあがるとサイドボードまで歩いてゆき、写真立てのなかの婚約者を見つめています。わたくしはなにげなくそれを見ていたのですが、そのあとメイドが取った行動には正直、心を打たれるものがありましたね。写真立てに向かって目を瞑り、静かに合掌して、一分近くの間、祈りをささげていたのです。
 あざとさとかとはまるで無縁の、真に死者を悼む行為でありました。この光景を目の当たりにして、ああ、この人は人のつながりというものを本当に大事にして、生者死者の区別なく縁に結ばれた人たちを大切に想える心の持ち主なんだな、と感銘を受けたのは事実であります。おそらくこの一件なくして、<いま>これを書いているわたくしがいる未来の実現はけっしてあり得なかったことでしょう……。
 やがて静かに息を吐き、祈りを止めたメイドはこちらを向くと、深々と頭をさげて挨拶してきました。わたくしも姿勢を正して正座すると両腿に手を付き、頭をさげて返礼としました。「ありがとうございます」と言い添えて。
 メイドは元いた座卓のまえに戻ると、ちょっと仕事していい? とこちらを見ることなしにいいました。わたくしは勿論、と答えると立ちあがり、お湯がどれだけ張れたかを見に、風呂場へ足を向けました。すると間もなく規定容量までお湯が張れたことを知らせる女声のメッセージが流れました。
 リビングへ戻る途中で、彼女の寝床を用意していないことに気が付いたので、二階の客間のベッドを急いで整え、エアコンを付けて部屋を暖めると、廊下の本棚からジュンパ・ラヒリとウッドハウスの短編集を持ってきて、サイドテーブルに置いておきました。古き良き英国のマナーに従ったつもりです。そうしてこの行為とセレクトした作家に、わたくしは自分の気持ちをこめたつもりでおります。
 大の字になって寝転ぶメイドと階段の上で目が合いました。肩の下まで伸ばした黒髪が床へ扇形に広がり、顔がやけに紅潮しているのが、何メートルか離れている場所からでもわかります。なにげなく座卓の上に目をやるとそこにあったのは、鋭意取組中の原書の他に……一本の赤ワイン、そうしてグラス。──え?
 どうしたものか、と頭を振りながら寝転がる彼女のかたわらにしゃがむと、ふいに彼女が体を起こしてヘラヘラ笑いながら、ウッド氏ぃ、と首に手をまわしてしがみついてきました。嬉しい行動ですが、唐突にやられると却って不審です。それに問答無用で押し付けてくるものですから、いつまでこちらも自制を保てるか、まったく自信がありません。とりあえず、両肩に置いた手に力を入れて痛くしない程度に彼女を引き離し、ちゃんと坐らせました。
 「どこから持ってきたの……いや、答えなくていい。テンプレの質問しただけだから。答えを求めていない質問だから。でも、この短時間でどんだけ飲んだの──あーあ、こんなに。ボトルの半分もよく飲んだね。僕がここを離れてまだ十分ぐらいのものでしょ。まったくもう」
 ボトルとグラスとメイドを順番に見ながらそんな風にいうわたくしを、メイドは頭を左右に揺らせて見ているばかりです。かなり眠そうな顔をしています。もうこれまでだな。そうわたくしは思いました。Let’ call it a day.
 もう寝なさい、ベッドは用意してあるから。
 そういうとメイドは、あー、わたしのこと襲おうとしてるぅ、ウッド氏のエッチィ、と背中を仰け反らせて、こちらを指さして笑い転げています。
 こいつ、案外酒癖悪いな、しかもたったこれだけの量で……と、なにげなくキッチンの方へ視線を投げると、自分の認識が甘かった、否、甘すぎたことに気附かされました。そこには確かに、先程までは存在していなかった赤ワインの空瓶が一本、転がっていたのです。つまり、彼女はこの十数分でボトル一本半を開けていたわけで。
 ベッド? メイドは色素の薄い肌を染めながら上目遣いで、そう訊いてきました。「ベッドに行くの?」
 「ああ、そうだよ、この季節にいくら屋内だからってここで寝かせるわけにも行かないでしょう。風邪引かせたくないんだよ」
 「優しいー。じゃあ、連れてってー」そういいながらまたもや、今度は全身の体重を掛けて、メイドがしがみついてきました。「ねぇ、一緒に寝るの?」
 酔っ払いの言葉です。真に受ける必要はありません。そうでもしないと、本当にわたくしの理性は完全崩壊するでしょう。
 「連れてゆくだけ。ほら、おんぶ」
 「やだ」とメイド。「お姫様抱っこがいい、ウッド氏は鍛えているからできるはずだ。命令。ウッド氏、わたしをお姫様抱っこしてあの階段を登り、わたしのために用意してくれたベッドに連れてゆけ」
 わざとらしく大きな溜め息をついて、はいはい仰せのままに、とメイドをお姫様抱っこして二階へ上がり、ベッドに寝かせました。
 「僕の部屋は廊下の反対側だからね、なんかあったら呼んで。あと、トイレは下にしかないから。いい?」
 「うん、わかった」と答えるメイドの声が、さっきと違ってやけにはっきりしたものに聞こえます。が、短い返事ですから、その程度は呂律が回っていなくても普通にできるでしょう。
 メイドはサイドテーブルに置かれたラヒリの短編集をパラパラ目繰っていましたがそれはすぐに閉じて、ウッドハウスに手を伸ばしました。「ウッドハウス、面白いよねぇ。イギリスに留学してたとき、古本屋で買った『The Code of Woosters』がとっても面白くってさ。イギリス人の笑いには若干付いてゆけないところがあったけれど、そういうの抜きにしてでもお話としてとっても面白いんだよね。古本屋漁って、ずいぶん買い集めて読んだよ。いまでも家にあるけれどね。でも、ジーヴス物やエムズワース卿だけじゃなくて、ユークリッジまで日本語で読めるようになるとは思わなかったよ」
 ──熱い話を聞きました。ウッドハウスが日本語で多量に読めるようになる以前から好きで、原書を読み漁っていた、と公言する人と、わたくしは出会ったことがありません。それにしても、赤ワインをボトル一本半開けた直後の人の口から出たとは信じられぬ話の明瞭ぶりではありませんか。この子が素面の状態で改めて、ウッドハウス談義をしたいものです。
 じゃあお休み。そういって踵を返そうとしたとき、メイドがわたくしの腕を摑んで、自分の方へ振り向かせました。
 ねえ、聞いて。そうメイドはいいました。ベッドのかたわらに両膝ついて耳を傾けるわたくしを、とろんとした目でまっすぐ見つめながら、彼女の語りて曰く、──
 「私はさぁ、かなえたい夢があってずっと働いてきたのね。その夢も翻訳家の肩書きをもらってからはどこかに忘れてきちゃったようでぇ。ひっく。で、んーと、あれ、なんだっけ? 私、なに話そうとしていたのかなぁ、わかる? わかるわけ、ないか。ウッド氏だもんなぁ」
 ウッド氏だもんなぁ、とはどういう意味だ。そう、ふだんなら返しているところですが、今夜は彼女の話すべてに耳を傾けていたい気分です。ツッコミはやめておきました。
 だけどね、とメイドがいいました。「いまの私があなたに伝えたいことは一つだけなの。聞いてくれる?」
 ああ、とわたくしは頷きました。どんなことでも聞いてやる。腹を括りました。
 「ううん、やっぱりいいや。この関係が壊れちゃいそうだから」と、背中を向けてしまいました。「──忘れてね、今夜の私のこと」
 その台詞に一瞬、怯みました。「どういう……」というのがやっとでした。
 ずるいよ、ウッド氏。こんなに──、
 そこで言葉を切ると、彼女は寝息を立て始めました。嘘寝であるのがわかります。でも、これがいまの彼女の意思表示です。電気を消してドアを閉めて出ていってね。わたくしは彼女の望みに従いました。
 風呂には結局浸かりませんでしたが、いつ目を覚ましてはいる気になるかわかりません。ちょっと電気代が勿体ないですが、そのまま自動湯沸かし機能は点けておくことにします。わたくしはシャワーで済ませました。
 晩酌でもしようかな、と思いましたが、もはやそんな気分になっていないことに気附くと、それは見送って早々に部屋に引っこむことにしました。廊下の反対側のドアをしばし見やり、そこで眠るメイドを思いましたが、誰かと一つ屋根の下に一緒にいるだけで幸福を実感できることを思い出せてくれた彼女には、もう感謝の念しかありません。だからこそ、さっきの彼女の言葉ではありませんが、この関係を崩すような行動も発言も慎まなくてはならないのです。
 宮台のスティーヴン・キング『アウトサイダー』をベッドのなかで開きましたが、いつものように物語に入りこむことができません。生活を大きく揺るがすような体験を二つ、今日一日で体験したことが原因なのでしょうか。リストラの知らせと、メイドの来訪/泊まり。<プラスマイナス・ゼロ>──否、プラスがマイナスを上回った日でした。至福、という表現は大仰ですが、間違ってはいないでしょう。一つ屋根の下に誰かが一緒にいる幸せ。それを噛みしめながら、満ち足りた気分でわたくしは休みました。
 だのに、夜が明けて朝を迎えてわたくしの眼に映ったこの光景を、いったいどのように説明すればいいのでしょうか──。
 カーテンの隙間から太陽の日射しが部屋に細い光の帯を作っています。ベッドから降りてカーテンを開けると、寝ている間に降り積もった雪に朝の陽光が照り返していました。そのせいでかカーテンを全開にした室内は、ふだんよりだいぶ明るく感じられます。
 明日のことを思い煩うな、と、いわれます。が、一日はまだ始まったばかりです。いまは土曜日の午前7時前です。「明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタ6:34)。有名な福音書の一節を敷衍すれば要するに、いま眼前に広がるこの情景について一日たっぷり思い悩みなさいな、ということなのか?
 そうです、まったく記憶にないのです。意味がわかりません。
 なぜメイドがわたくしの寝床にいるのでしょう。なぜ彼女はすやすやと小さな寝息を立てて、薄手のキャミソールとショーツだけという斯くも無防備な姿を曝して、幸せそうな横顔を見せてぐっすり寝ているのでしょう。
 嗚呼、わたくしには、まったく記憶がないのです。□

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