第3025日目 〈小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」 〉6/9 [小説 人生は斯くの如し]

 昼過ぎ。メイドを見送って玄関扉を閉めた瞬間、淋しさに襲われました。重いものが両肩にのし掛かってきたような気分です。どうにかリビングまで戻るとそのままソファに倒れこみ、深い溜め息をついてしまいました。また今日から独りぼっちか。昨夜から先程までの、一日にも満たない時間でしかないとはいえ、彼女と一緒に過ごした楽しい時間は普段の独り住まいの侘しさ淋しさを払拭してあまりあるものでした。それは時間が経ってみると、時に残酷な思い出となり、苦しみの原因となります。わたくしのまわりの誰も知らないでしょうが、当事者であるわたくしはそれをよく知っています。
 ソファからふと座卓へ視線を向けると、マグカップが二脚、肩を寄せ合うように置いてありました。洗濯と掃除を手際よく済ませた彼女が帰る前の一刻、コーヒーを淹れてくれたのです。そのときの居心地の良さは、やはり何事も代えられぬものがありました。
 コーヒーを飲みながら交わすとりとめのない日常会話や特定の話題についての論議は勿論ですが、ふだんの生活で当たり前のようにこなしている諸事、たとえば掃除や炊事などですが、一緒に暮らす相手がいたら、同じ所作であっても斯くも潤いのあるものになるのか、と改めて実感させられたことであります。
 今朝だって隣で寝ているメイドを見ていて、まぁ驚きはしましたが実はそれ以上に、心がとても安らいだのです。このまま彼女がいてくれたら、と考えたりもしましたが、どうやら一歩を踏み出す勇気を欠く男というのは、こんな場面に於いても積極的な行動には移れないもののようです。据え膳食わぬは男の恥──これはきっと、わたくしに向けられた言葉でありましょうね。結局、メイドがどうしてわたくしのベッドに夜中、潜りこんできたのか、その理由は聞いてもはぐらかされてしまいました。
 コテージのなかを見廻すと、室内のあちこちにまだメイドの気配がはっきりと、濃密に刻印されていました。キッチンで朝食を準備し、コーヒーを淹れる彼女の後ろ姿が、脳裏から離れそうにはありませんでした。耳を澄ませば、どこかから不意に、彼女の声が聞こえてくるような、そんな錯覚さえしたのです。
 マグカップを洗い終えてリビングに戻ってくると、サイド・ボードの上の、例の婚約者の写真に自然と目が向きました。……そろそろ、前に進んでもいいのかな? そう口のなかで呟いてみましたが、踏ん切りが付くには至りませんでした。
 夕食の仕度に取り掛かるまでの間、ネットの求人サイトで見附けた企業に応募したり、キングの小説を読んで過ごしました。そのとき、唐突に思い出したのです。メイドに自分のリストラを伝えていなかったことを。なんたる失態。が、その日が来るのはまだ先です。次に会ったときにいえばいいか、と軽く考えて、小説に戻りました。
 カツレツと自家製ポテサラの夕食をはさんで読み終わりましたが、『アウトサイダー』はたしかに面白い小説でした。ご多分に漏れずわたくしもほぼ一気読みに近い状態で読了したクチです。ミステリー小説の殻を被ったオカルト小説、というのがいちばん妥当かと思いますが、そうした意味ではウィリアム・ヒョーツバーグの『堕ちた天使[エンゼルハート]』(アラン・パーカー監督、ミッキー・ローク主演で映画化もされました。わたくしはこれをカナダの映画館で観た覚えがあります。地元の小さな映画館でよく上映されたな、とこどもながらに思うたことをいまでも覚えています)をどうしても想起してしまったことを申し添えておきます。むろん、どちらが良いとかそんな話しではございません。
 (幸いなことにこの日見附けて応募した九社のうち、二社から内定をいただきました。最終的に車で三十分程行った海辺の街にある、病院向けに家電をリースしている企業へ転職を決めました。給料は少し安くなりますが、家賃を払うわけでもなし、払わねばならぬローンがあるわけでもなし、かつがつ生活ができて、貯金もできるだけの額であれば異存はありません)
 読了して興奮した脳ミソを鎮めるべく、昨夜彼女が飲み残したワインをちびちび飲んでいたら、メイドの肢体が脳裏に浮かんでしまいました。むろん、実際に見たわけでなく想像の肢体でしかありませんが、そこに昨夜から今日にかけての姿が重なり、なかなかベッドへ入る気分とはなれなくなりました。思っていた以上の存在感を、どうやら残しているようです。
 ──欠伸が連発して、出ました。時計の針は10時を回ったばかり。が、どうしようもなく眠気が襲い来たって抵抗するも空しい状態です。ぼんやりする頭で部屋へ戻った途端、携帯電話が鳴りました。慌てて取ると、誰あろう、かのメイドからのメールでありました。
 文面はシンプルに、「あした、店に寄ってね」とのみ。本来ならちょっと浮き足立つ場面でしょうけれど、却ってその素っ気なさに不安を覚えたのも、事実であります。要件がなんとなく思いつくから、尚更でした。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。