第3026日目 〈小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」 〉7/9 [小説 人生は斯くの如し]

 店の前を行ったり来たりしているうちにメイドに見つかり、店内へ連行されたわたくしはカウンター席に坐らせられ、しばらく放置されました。といいますのも、店内には先客が一組あり、そちらの接客が優先されたからです。
 順番を追ってお話しましょう。
 午前中の外回りを速攻で終わらせると、会社に戻らず足を喫茶店へ向けました。昨夜のメールの件もありますし、それ以上に彼女に会いたかったからでもありました。
 マイアミ・デイド署CSIチームの主任ホレイショ・ケインは犯罪捜査に取り掛かるに際して、いまの自分を動かしているのは科学だ、と所信表明しておりましたが、その伝で行くならばさしずめいまのわたくしをして仕事をさっさと片附け帰社することなしに喫茶店へ足を向けるその原動力になったのは他ならぬメイドの存在である、メイドに会いたいその一心からである、ということができるでしょう。まぁ、それはさておき。
 喫茶店のオーニングが視界に入るまでは、心浮き立ち足取り軽かったにもかかわらず、それを目にした途端、足取りは一気に重くなり、彼女に会える喜びよりも一方的な気まずさが優ってきたのです。両の足首に鉛の錘でもくくりつけられたように、歩調は重くなりました。喫茶店まで十メートルもないのに、一キロ以上も離れた場所まで歩いているような気分です……一歩足を前に踏み出す毎に、不安と躊躇いが成長してゆくのがわかりました。
 窓下の花壇の植栽が、店内からも外からも視線を遮り、あまり見通しは効かないはず。しかし、さすがに何分もその場に突っ立って動こうとしないシルエットがあるとお店の人はそれを怪しみ、確認しようと手筈を打つもののようであります。人の動く気配がして、ドアが開きました。同時にチャイム・ベルが、からん、と軽やかな音を鳴らす。メイドが顔だけ覗かせて、お、来たね、といいながら、手招きしてきました。
 なおも突っ立ったままでいるわたくしを、爪先から頭のてっぺんまで観察するような眼差しで見たあとでメイドがいいました。「お客さんいるからあまり長いこと、扉開けていたくなんだよね。入ってくれると嬉しいな?」
 斯くしてわたくしは無抵抗で連行される犯人の如くメイドの言いなりになって、店内の客となったのです。「とりあえずいつもの席に坐っててよ、あとで話したいことあるから。あ、お水はセルフでね」というメイドの声に操られるようにして、カバンを隣の椅子に置いてコートを脱いだあとカウンターのスツールに腰をおろしました。
 ギシッ、ときしむ音が聞こえましたが、なに、気にすることはありません。通い始めて五年、このスツールに坐るようになって四年強、ずっとわたくしの体重を、そうしてそれ以外のお客さんの体重も支えてきたのだから、きしむ音がしたって不思議ではないでしょう。ふと、キングの小説『スタンド・バイ・ミー』のエピローグで、エース・メリルがダイナーにある特定の椅子に座り続けている、という描写があったのをふいに思い出しました。いえ、それだけのことです。
 メイドがいったように、店内には先客がありました。男女のカップル、といえばそれまでですが、あまりにちぐはぐな二人でした。
 女性の方は二〇代前半でしょうか、対して男性は既に頭髪に白いものが目立っています。でも髪の量は豊かで、しかもその総髪を後ろに流しているものですから一見、江戸時代の素浪人、いえ、もっといえば由井正雪のように映るのでした。体格のしっかりした人でした。とても良い顔をしています。古武士、という表現が相応しく思えます。召し物が紬の着物に羽織というのが、またよく似合っている。一方で女性はといえば、線が細くて色が白く、黒髪を肩まで伸ばして化粧の薄い人、という以外は特に記憶に残るような人ではありませんでした。まぁ、地味ではあるけれど可憐な女性、というのがわたくしの印象です。でも、声のほんわりしたところや一つ一つの言葉遣い、笑い方には、育ちの良さを感じられます。
 かれらはちょうど席を立って、ごちそうさまでした、とメイドに声を掛けてレジへ向かうところでした。改めて見ると、二人の身長差も相当なものでありました。おそらく男性の方は一九〇センチ近くはあるでしょう、女性の方はといえば一五〇センチあるかないか、というところ……ちょうどメイドと女性の身長はほぼ同じなようでした。
 メイドは、ありがとうございました、といいながらカウンターの内側にまわり、会計を済ませて、かれらを送り出しました。またどうぞ。つられてわたくしも同じ言葉を口にしました。男性はちょっとこちらへ頭を巡らせ、微笑を浮かべて肩越しに小さく頷き、女性の方はちょっとびっくりした表情でこちらを見つめました。メイドはといえば、……扉を閉めたときに横目で、呆れがちに睨んできました。
 ──わたくしとメイド以外、誰もいなくなりました。それを認識した途端、視界が灰色に染まるような感覚に襲われました。これから始まるであろうメイドの尋問を思うと、天井のスピーカーから流れているバロック音楽は、やけに皮肉たっぷりのBGMに感じられます。まさしく<いびつ>としか言い様のない組み合わせでした。
 「では、ウッド氏──」
 彼女は隣りに腰をおろすと、カウンターへ背中をあずけ、こちらを横目で見てきます。自ずと上体を反らす形になりましたから、否応なくお胸の豊かなラインが強調されて、目のやり場に困ります。昨日ベッドで見た下着同然の姿にはなんの助平心も沸かなかったのに、いまは視線を外すことさえ必死にならざるを得ない。いや、まったく男というのは不思議な生物です。
 「来てもらった理由、わかるよね?」
 ああ、とわたくしは頷きました。説明の前に落ち着こうと思いました。コップに並々と注がれた水をがぶり、とあおって口を湿らせると、スツールを四分の一回転させてカウンターに片肘つく格好で彼女を見ました。視線は前述の理由から、額から髪の生え際あたりに固定させました。そうして弁明を始めようとしたのですが、──
 「おっと、その前に」とメイド。「注文もらって、いいかな」
 気勢を削がれました。出鼻を挫かれる、というのは、こんな場合をいうのでしょうね。おたおたしながら、オムライスと<晴れの日ブレンド>を注文しました。なぜだかそのとき、メイドの表情が険しくなったようでした。それはさておき。
 「あなたの口から聞きたかったな」と、カウンターの向こうに回った彼女がぽつり、といいました。「ウッド氏の会社の内情なんて知ってるんだから、隠す必要なんてなかったのに」
 「隠したわけじゃない。いうのを忘れていたんだ」
 「同じことよ。その話があったとき、私たち一緒に夜を過ごしていたんだから、そのときにだっていえばよかったじゃん」
 「あのときは本当に忘れていたんだよ。それにね、──楽しかったから、水を差しそうで言い出せないよ、かりに忘れていなかったとしても」
 鼻を啜る音がかすかに、でも確かに聞こえました。
 「非道いよ。──まぁ、わたしもあなたに言っていない大事なことがあるけれどね」
 え、と思いました。それはいったいなにか。椅子から腰を浮かして、訊こうとしました。でも、すぐに坐り直した。コーヒーを淹れている彼女が「あっ」と小さく声をあげたからです。再び鼻を啜る音。
 ねえウッド氏、と呼びかける彼女の声がわずかに震えているのに、そのとき気が付くべきだったかもしれません。「失敗しちゃった。すぐに淹れ直すね」
 ──ややあってカウンターの上に置かれたコーヒーは、少ししょっぱい味がしました。<晴れの日ブレンド>ってこんな味したっけ、とは思いませんでした。そんな風に思うのはきっと、さっきのメイドが鼻を啜る音を聞いていたからです。それゆえに味覚は印象操作されたのでしょう、きっと。
 隣りに坐り直した彼女は先程と同じようにカウンターに背中をあずけていましたが、こちらを見たりはしませんでした。俯いたまま指先でエプロンをいじくっています。それは際限なく続く作業のようでした。
 どれだけの時間がそのとき流れたのか、よくわかりません。無限にも等しい時間が、われらの間にはあったような気さえします。その間、なにも言葉を交わすことはありませんでした。そんな二人を野次るように、やたら明るい曲調のバロック音楽が天井のスピーカーから降ってくる。
 一つの楽章が終わり、次へ映るまでのわずかな無音の時間のことでした。
 ふいに彼女がわたくしの肩へもたれてきて、しばらくそうしていたかと思うと、さめざめと涙を流し始めた──斯くしてかの無限に等しく感じられた無言の時間は終わりを告げました。その代わりわれらの間に訪れたのは、理由定かならぬメイドのむせび泣く声。それは一時ながら音楽を退けたのです。□

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