第3027日目 〈小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」 〉8/9 [小説 人生は斯くの如し]

 「こんなときに限って客が重なる……」
 メイドは一頻り涙を流したあと盛大に鼻をかみ、赤くなった目蓋をティッシュで押さえながら奥のトイレへこもりました。ドアはけっして薄いわけではありませんから気のせいなのでしょうけれど、向こう側から彼女の嗚咽がまだ聞こえてくるような気がしてなりません。
 戻るのを待ちながら、空になったマグカップを覗いていました。底に残るコーヒーのシミの形をじっと見ているうち、そういえばコーヒー占いってのがあったな、カップの底のシミの形で……なにを占うんだっけ? 全体運であったか、恋愛であったか仕事であったか、或いは金運だったか、思い出せません。これをわたくしに教えてくれたのは、いま席を外しているこの喫茶店のオーナー即ちメイドなので、戻っていたら聞いてみることにしよう──が、それは結局果たされないまま、われらは別れの時を迎えます。
 それにしてもお腹が減りました。コーヒーこそ出してもらえましたが、肝心のオムライスはまだです。仕度しているのかさえ不明です。が、コーヒーを入れてすぐにこちらに来たところから察するに、まぁまだ取り掛かっていないのでしょうね。
 するうち、チャイム・ベルが鳴って近くの大学に通うここの常連三人組が入ってきました。彼らのひとりとは知り合いということもあり、いまも、あウッド氏こんにちは、と声を掛けて来、カウンターのなかを見やると怪訝な顔つきで、あれ奈々子さんは? と訊いてきました。
 無理もありません、いて当たり前の人物がそこにいなかったら、訝しく思うのは自然なことでありましょう。しかし、どう答えていいのか、わかりません。返事に迷っていると、おお今日も来たねぇ小銭の集団、とメイドの声が背後から聞こえてきました。
 小銭の集団は非道いや、と件の大学生が口をとがらせました。他の二人は苦笑しているだけです。メイドは大学生の台詞に耳傾けることなく、三人ともランチのカレーでいいかい? と訊いています。
 今日のランチ/カレー;牛すじ肉ときのこのカレーのセット(サラダとコンソメスープ付き 九八〇円也)
 勿論、というかれらの返事をわたくしも聞いて、あ、と口のなかで呟きました。カウンターのなかのメイドに、そっと視線を向けます。小首を傾げて彼女はこちらを見てきましたが、彼女はわたくしの行動に思いあたることはなかったようです。──さっきオムライスを頼んだときにメイドの目に浮かんだ冷たい色はきっと、ランチ・メニュー以外のもの頼みやがって、こっちはご承知のように一人でやってるんだからウッド氏、ちょっとはオーダーの内容についても気を遣ってよね、という無言の抗議/要望だったのでしょう。が、もう遅いですね。次から配慮することにしましょう。でも、メイドよ、わかってくれ、いまのわたくしはカレーよりもオムライスが食べたいのだ。
 「あのさ、僕のオムライスは……どうなってるかな? あ、勿論ランチのカレーが先でいいよ」
 「ちょっと話したいことがあるの、二人っきりで」大学生たちに気附かれないように顔をわたくしに近づけたメイドが、囁くようにいいました。「だから、もうちょっと待ってもらっていいかな。代わりに、はい」
 そういってメイドがカウンターの上に差し出したのは、二杯目の<晴れの日ブレンド>と千切りにした大根の上に鰹節と刻み海苔を乗せたサラダでした。ランチ・メニューとして用意してあるからとて三人分となると、流石に時間も若干要すことになります。お前のオーダーはそのあとに取り掛かるから、それまでこれを食べて空腹を紛らわせててよ、という意味でしょう。これを優しい言い方に意訳すれば、これぐらいならお腹に入るでしょ、となります。
 何年か経って件の大学生とお酒を飲んでいたら、あのときウッド氏と奈々子さん、なに話してたんですか、なんだか凄く親密な関係に映りましたよ、と訊かれました。覚えてないよ、そんなことあったかな、と返すのが精一杯でしたが、その直後、相手に気が付かれないよう連れ合いの横顔をチラ見しましたが、その人はいまの会話を聞いていたか聞いていなかったか、まるで悟らせずにひたすら白ワインを口に運んでおりました。
 ──メイドがカウンターの向こう側でカレーを作りながら、鼻歌を歌っています。聞き覚えのある歌でしたが、バロック音楽に紛れてすぐにはわからなかった。
 が、特徴あるフレーズを摑まえてみれば、それがなんの歌であるか思い出すことができました。わたくしの好きなオペラの第三幕で歌われる、有名なアリアだったのです。〈誰も眠ってはならぬ〉”Nessun dorma”、プッチーニ最後のオペラ《トゥーランドット》で王子カラフが朗々と歌いあげる愛の告白の歌でした。Ed il mio bacio sciogliera. Il silenzio che ti fa mio! (わたしの口づけは沈黙を打ち破り、あなたはわたしのものとなるのです)
 バロック音楽を背景にプッチーニとは、なんと面妖な組み合わせでしょうか。それでもわたくしは、これを聴きながら、少し安堵していたのです。最前までしとどに泣きじゃくっていたメイドが、鼻歌をハミングできるまでに気持ちが回復したように映ったからです。後年になって問わず語りに話すと、まったくあなたは女をわかっていないよねぇ、と蔑みの目で、憐れむような眼差しで、見下されたものですが。
 やがて大学生たちは会計を済ませて出てゆきましたが、それと入れ違うようにして喫茶店の隣に店舗を構える不動産会社の社長と向かいの古本屋の主が連れ立って入ってきました(なんでも二人は幼馴染みだそうです)。席に着くやランチのカレーとパスタを注文したかれらは、メイドがお冷やを置くのを待って、テーブルに書類を広げてなにやらひそひそ話を始めました。
 「こんなときに限って客が重なる……」
 わたくしの後ろを通り過ぎ様に放った彼女の愚痴が、耳朶の奥に谺してしばらくの間消えませんでした。なぜかはわかりません。ただ、普段の彼女が口にしそうもない類のそれであったこと、そうしてその台詞に苛立ちと諦めの感情が含まれていることを感じ取ったからです。
 出来上がったカレーとパスタを運んでようやく、わたくしのオムライスの番になりました。「これから作るから、待っててね」
 うん、とサラダの皿を殆ど空っぽにしたわたくしは答えて、手持ち無沙汰にコーヒーを飲みながらカバンから読みかけの文庫本を取り出して、読みさしのページを開いて読み始めました。が、心ここにあらずで、視線がページの表面を撫でているだけなのがわかります。まるで頭に入ってきません。というよりも、そこに書かれている単語の意味さえわかりかねる思いだったのです。
 彼女はどんな意図があって、わたくしの注文を後手に後手に回して、ようやくいま取り掛かったのか。しかも、ドアの脇にかかる札を裏返して「準備中」にしてきたのを、わたくしは視界の片隅で認めています。二人きりで話したい内容とはなんなのか。期待したいけれど、それはとらぬ狸のなんとやらです。もっと他のことである、と考えた方が無難です。話したいことがあるといわれて舞いあがるような年齢ではありません。期待するな、愚かになるな。そう自分にいい聞かせて、わたくしは本を読むフリを続けました。幸いなことにメイドも、なにを読んでいるの、とか訊いてくることはありませんでした……。
 <女性は男性の偉大な教育者である>(アナトール・フランス)といいますが、様々な意味でその言葉は事実である、と、そうわたくしは信じて疑いません。
 客二人の会計を済ませて送り出してカウンターに戻ったメイドが、ねえ、と呼びかけてきました。「ケチャップでなにか書いてほしい?」
 やけに静かな口調だったのが気になりました。なにか伝えたいことがあるんだな。そう思うとリクエストを出すのは慎んだ方がよさそうです。それに、もうお店も閉めたわけだし、われらの他に誰かがいるわけでもない。ならば、──
 「任せるよ。もうなにを書くか、決めてるんでしょ?」
 えへへ、と笑いながら器用になにかをオムライスの上に書くメイドの横顔──実際は前髪が垂れて表情までは殆ど窺えなかったのですが──を見ながら、自分の前に皿が置かれるのを待ちました。店内にはあいかわらずバロック音楽が流れていましたが、オーケストラから室内楽に切り替わったためか、さっきよりもずっとゆっくりと、静かに時間が流れているように感じられました。
 ふとドアの方を見やると、自転車に乗ったパトロール中の警官が、窓から店内を覗いていました。かれもこの喫茶店の常連です。ようやくお昼ご飯にありつける、と思って来てみたら準備中の札がかかっているとあっては訝しく思うのも当然でしょう。実際、かれはドアノブに手を伸ばしかけたようです。そのときにわたくしと目が合ったのです。そのままドアを開けてメイドに事情を聞くかと思いきや、目が合った瞬間に合点のいった様子でその場を離れていってしまいました。余程メイドにいおうかと思いましたが、なんだかそれも憚られていうことができませんでした。
 ようやく運ばれてきたオムライスにケチャップで書かれたメッセージが否応なく目に飛びこんできます。否、メッセージというよりは日附という方が正確です。人間、悪い事態についてはよく勘が働くようであります。とっさに最悪というてよい出来事が脳裏に、電光石火の如く浮かびました。
 スツールを半回転させて、カウンターから出ていまは傍らで寄り添うように立つメイドへ疑問をぶつけました。「これって、まさか……。違うようね?」
 ややあって、ごめんねウッド氏、と囁くような、吐き出すような調子で、薄く開かれた唇の間から声が洩れました。これまでに見たことのない、思い詰めたような表情をしています。まだ少し赤い眼が、再び濡れてきていました。
 「その日にね、お店を閉めることにしたの」と、事情をかいつまんで話してくれました。「これまで来てくれて、ありがとうね。ウッド氏」
 ──それからは無言の時間がわれらの上に垂れこみました。スプーンで食べる分だけ切り込みを入れたオムライスを機械的に口へ運ぶ最中もメイドは、わたくしの後ろに控えるように立ったままでした。彼女から伝わってくるものはなにもありませんでした。
 日附は一週間後を示していました。その間に何度来られるかわかりません。何度来られるかわからないけれど、無理をしてでも来たいと思いました。ひとたび席を立ったら、もう二度と彼女に逢えないような気がしてならなかったのです。ならばそれまでの日々を、彼女と一つでも多く会話を交わし、その姿を見、記憶に残しておきたい。そう思うのは可笑しな話ではないでしょう。
 食べ終わるとナプキンで口許を拭い、ごちそうさまでした、といって、改めてメイドの方に向き直りました。そうして、訊きました。
 「昨日今日で決まった話じゃないんだから、一昨日家に泊まったときに聞かせてほしかった」
 「それこそ」とメイド。「いいたかったけど、いえなかった。楽しい空気に水を差したくなかったからね」
 悪いと思ってるよ、と呟いて彼女の台詞は終わりました。
 なにかいおうと口を開きかけたときです。
 メイドが、正面からわたくしをかき抱きました。とてもあたたかかったのを、あれから何年も経ったいまでも覚えています。まだわずかに残ってこのまま陰府へ持ってゆくであろうと思っていた亡き婚約者への想いは、そのときのメイドのあたたかさに取って代わられ、すーっ、と消えてゆくのを感じました。この人を手放したくない、と思いました。ずっと一緒にいてほしい、と思いました。年齢差がどれだけあろうとそんなものはただの数字だ、といってやりたかった。この人と最後の瞬間まで一緒に暮らしていたい、と思いました。でも、もうお別れの日はそこまで来ているのです……。
 ──それから一週間後、喫茶店は予定通り閉店しました。商店街の人々や商店街の入り口にある交番勤務の警官、それ以外の喫茶店の常連たちが最終営業日の閉店後に集まって、お別れ会が催されました。深更に至るまでそれは続いた、と仄聞しております。
 わたくしも呼ばれていたのですが、取引先の上役に引きずり回されて行くこと叶いませんでした。残念ではありましたが、行かなくてよかったかもしれません。行けば淋しさは増すばかりで、互いに気まずい思いを抱いたまま、話すことも目を合わせることもしない時間を過ごすことになったでしょうから。それに、……自分の気持ちはもう彼女に伝わってしまっているのです。が、メイドの方はといえば──もう止めましょう。円環は閉じられたのです。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。