第3028日目 〈小説「人生は斯くの如し(ヘンリー・キングの詩より)」 〉9/9 [小説 人生は斯くの如し]

 ──世事雑事に紛れて立ち止まる暇もないまま、一年半があわただしく過ぎてゆきました。会社は取引先に吸収合併されて、多くの社員がリストラされました。周りの人たちを見ていると、既に新しい会社への転職が決まっていて、退職から日数を置くことなくそこでの勤務初日を迎えられたわたくしは、幸運だったようでした。
 あの喫茶店があった場所は閉店から約八ヶ月後、蕎麦屋になっていました。外観からして既に喫茶店の面影はなく、もはや往時の構えを思い出すのにも時間が掛かるようになりました。オープン日時を記した貼り紙が貼られた扉を矯めつ眇めつ眺めているうち、なんだかとても長い、長い時間が経ってしまったように思えて、深い溜め息を知らず吐いてしまいました。
 とはいえ、気を紛らせる嬉しい知らせもあったのです。その蕎麦屋の主人はなんと、かつて管理部にいて一緒にリストラ対象になっていた石田さんだったのです。驚きました。前の会社にいてその知らせを聞いた人たちも皆、一様に驚きの声をあげた、と聞きます。一緒に息子さんが働いていると聞いたとき、なんだか心がほっこりしましたね。
 残念なことに蕎麦屋には開店記念の際に訪れたきりで、以後はいまの会社が忙しいのと、早く上がれてもこちらへ帰ってくる頃には暖簾が仕舞われているので、まったく客になることができていません。けれど石田さんとは、時に息子さんも一緒に近くの居酒屋で楽しい時間を過ごすことが、そうですね、平均週一のペースでありますね。
 それでもわたくしの心はぽっかりと穴が開いたままでした。からっぽの心を抱えたまま、世間様と無難に付き合うための仮面を被り、毎日毎日をやり過ごしているのです。独りしコテージのポーチでバドワイザー(King of Beers.)やスタウトを腹の奥へ流しこんでいると、あの子のことを否応なく思い出します。小柄な体躯と涼しげな目元、ほどけば肩の下まで伸びた黒髪、色素の薄い肌、あのかわいらしい物言いとほんわりとした喋りがかいま見たベッドの上の姿態と一緒に、封印しようと努める記憶の蓋をこじ開けて甦ってきます。なお、それは戦場での経験よりも更に辛い思い出でした。生き地獄と称すより他ない苦しみでした。もはや慢性PTSDです。
 それでも生きてゆかなくてはなりません。生きてゆくにはいまの会社でさざ波立てることなく勤めなくてはいけません。判で押したような生活にむりやり自分を嵌めこみ、感情を殺して仕事に勤しむことにしました。やってみるとこれが案外と楽で、大抵の厭なこともやり過ごすこともできます──もっとも<厭なこと>というような出来事ともほぼ無縁ではありましたが──。
 そんなこんなでどうにか、新しい職場にも馴染んできた或る日の夜でした。
 雑木林を切り拓いて作ったでこぼこ道に車で乗り入れるとすぐに、あれ、と声をあげてしまいました。コテージの一階の電気、そうして玄関の電灯が点いているのです。可笑しいな、と思いました。二階なら過去に消し忘れたまま寝てしまい、そのまま気附かず出勤したことは何度もあります。が、一階でそのようなことは一度もありませんでした。
 泥棒か? 近隣の家からはただでさえ距離がある上、その間には雑木林がある。隣の家の灯りなど、木立の陰から余程目を凝らさないと見ることはできません。しかし、留守宅の主人がいつ帰ってくるかわからない以上、どんな泥棒だって電気を点ける愚など犯したりしないでしょう。では? 車を停めるまでの時間で結局いちばん正解に近いと思われる結論が出ました。即ち、消し忘れです。
 また電気代が上がるなぁ。そうぼやかざるを得ませんでした。先月など電気代がふだんの一・五倍にまで跳ねあがった程です。電力自由化の時代でもありますし、新電力の検討も真剣に考えなければいけません。特に携帯電話の機種変のときは相手の口車に乗らぬよう注意しましょう。
 静かにドアを閉め、落ち葉を踏みしめながらポーチへの階段へのアプローチを歩いてゆきました。ドアノブの鍵穴に異常は見られません。なかに誰かのいる気配が、ドア越しにも伝わってきます。さもしい期待をしてしまいました。ここの鍵の在処を知っている人など、自分以外に一人しかいないではないか……。ついでにいえば、鍵は開いていたのです。
 頭を振って脳裏に一瞬浮かんだ期待を振り捨てて、ノブへ手を掛け、こちら側へ引こうとしたときです──同時になかからもドアが開かれて、わたくしの額と鼻の頭はドアの角に思い切りぶつかる仕儀となりました。
 「ごめん、大丈夫?」けっして忘れられない声が、顎の下あたりの場所から聞こえてきました。「まさか同時とは……私たち、気が合うね、ウッド氏?」
 これを気が合うといえるような人物を、わたくしはこれまで生きて知り得た人たちのなかでたった一人しか知りません。その人物が、いま目の前にいる。目が合った途端、その場にへなへなと坐りこんでしまったのは、或る意味で当然のことであったかもしれません。
 ──彼女が、そこにいました。一年前と変わらぬ容で、あの懐かしいメイド服も着ていました。「おかえり」と片手をあげて、にっこりと出迎えてくれました。「遅くまでお疲れ様。でもさ、鍵の場所、変えた方がいいと思うよ?」
 ただいま。そう小さな、震える声でいうと、わたくしは彼女を、正面から抱きしめました。抵抗にも躊躇いにも遭いませんでした。考えてみればこうして彼女を、自分から抱きしめるのは初めてであるように思います。まぁ、そんな状況になったこともないので当たり前ですが……。
 斯くして円環は再び開く。「おかえり……」
 「ここにいて、いいよね?」
 もちろん、とわたくしは頷きました。よかった、と呟いた彼女がわたくしの背中へ腕を回し、体をより強くすり寄せてきました。
 「人生は斯くの如し、だよ。ウッド氏?」◆

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