第3067日目 〈渡部昇一への意見申したて。〉 [日々の思い・独り言]

 渡部昇一『日本の歴史 第1巻 古代篇』を読んでいたら、第3章で氏が<古事記偽書説>に触れているのを読んで、思うことをここに申し立てたくなった。
 わたくしは今日に至るも『古事記』が和銅5(712)年ではなく、『日本書紀』が奏上された養老4(720)年以後、しかも割と早い時期に成立した書物である、と考えている。そうした意味では<偽書>ではない。文化学院の卒業論文でこの題目を扱う際は徹底的に記紀を精読、同時代或いはそれ以前の日本及びシナの漢文を調査し、先行文献・論文を渉猟して読みこみ、卒論指導を担当くださった阿部先生や中国文学を3年間指導くださった星野明彦先生の指導や助言を受けながら、色々考えた末の論文執筆であったため、後になって偽書説に触れた文献等を新たに見附けて読んでみても、改めて自説を修正する必要を感じたことはなかった。
 渡部昇一はこの項目を書くにあたり(口述するにあたり)、また過去この件に触れた文章を書くにあたって、偽書説を扱った論文や文献に目を通すことは殆どなかったのではないか、と想像する。というのも、偽書説を語る際は避けて通ることはできないはずの近世期の伴信友『比古婆衣』や沼田順義『級長戸風』、昭和40年代にはじめて発表された大和岩雄の画期的な偽書説研究(『増補改訂版 古事記成立考』[大和書房 1997/01]他)等々について完全に沈黙しているからだ。この人のことだからそうした文献に目を通していたら、「これこれこういう説があるが、私は否定している」旨の文章にお目にかかっているのだが……名前ぐらい挙げてくれていれば、「あ、読んだ上でこのように考えているのだな」と首肯できるのだけれどね。
 わたくしは四六駢儷体で書かれた序文は、正史なのに序文を欠く『日本書紀』からなんらかの理由により加筆のうえ流用されたと考えている。「読めない本を写す人はいない」(P98)という氏の言に対しては、「読まない本を写す人はいない」と返そう。平安時代に於いて古事記は『日本書紀』講義のサブ・テキスト扱いだったし、鎌倉時代以後は進講の機会なくなり段々と存在を忘れられて知る人ぞ知るてふ秘本となり、原本はご多分に漏れずどこかの段階で消滅した。現存する最古の、そうして唯一の上中下巻を備える写本は真福寺本である。これは応安4(1371)年から翌5年、真福寺2世信瑜(しんゆ)の命により同寺の僧賢瑜(けんゆ)が書写した。
 「本文こそ正式な漢文ではないが、太安万侶が書いたとされる序文は堂々たる駢儷体の漢文である」(P98)とまで書いているのに、またあれだけ漢文がきちんと読めた人だったにもかかわらず、どうして本文と序文で採用されている漢文の差異について考えてくれなかったのだろう。私見を述べれば、本文については正史にあらざる書物のため多少なりとも砕けた文章のスタイル──『万葉集』や『風土記』で用いられていた和臭漢文のスタイルが採られたものであろう(わたくしは今日活字で読める『古事記』は元明天皇の個人的な要望によって編纂された;編纂の目的は『日本書紀』ダイジェストの作成を第一義とし、プラス天皇家・宮家に伝わって『日本書紀』に収められなかった挿話を収めた私文書、謂わば<物語・日本史>であった、と考えている)。
 過去のノートやらなにやらを放りこんだダンボール箱のなかから久しぶりに件の論文をサルヴェージ、必要なところは修正や改訂の筆を施してなるべく早いタイミングで(要するに、今年度中には、という意味だ)、何回かに分けて本ブログでのお披露目を目指すとしましょう。
 渡部昇一『日本の歴史 第1巻 古代篇』(ワック 2011/02)の感想を書くつもりが大きく外れてしまった。これもまた楽しからずや、である。同書の感想文はまた改めて。◆

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