第3170日目 〈漱石を読んでみようか。……なんて柄にもないことを考えたりして。〉 [日々の思い・独り言]

 どうでもよい話だが、10代からはじまった現在の読書歴のなかで近代文学が占める割合はけっして高くなかった、と告白したい。最初に、自発的に読んでいまに至っているのは鏡花だが、その鏡花も幻想文学から花柳小説にウェイトを移して、いまなおそこから離れることができずにいる。
 他には田山花袋がいるけれど、こちらは勝手な同郷意識が働いて読んでいるのが正直なところで、自分から求めて探し当て、愛読するに至った人ではない。花袋といえば「蒲団」、そのラストシーンゆえに様々悪態つかれて悲鳴をあげさせもする一品だが、わたくしは好きだな。
 女への未練がましさを臆面もなく、馬鹿正直に描いた花袋の度胸と正直ぶりに感心するのだ。そうして不思議なことにこの場面、まったくベタベタしていないのである。女々しいのに、濡れそぼっているのに、どうしたわけか乾いているのだ。そのあたりにわたくしは、花袋の自己を律する気持ちの強さを見る。一線を越えてもすぐに否定する、バランス感覚の絶妙なところを見る。ありのままに描いて陰鬱さも吐き気も感じさせないというのは或る意味、天才的所業というてもよいだろう。
 同じように情痴を描いて花袋と逆路線を突っ走ったのは、近松秋江である。秋江については先日届いた全集を時間のあるときに繰って読んでいるけれど、「別れたる妻への手紙」や「黒髪」はもっと人口に膾炙してもよい──というか教科書に採用されたって良いぐらいの──名作である、てふ気持ちは揺るがない。否、むしろ却ってその気持ちは強くなった、というて構わぬ。
 と、ここでようやく話を冒頭に戻すと、というか冒頭に喋りかけた話題になるのだが、長じるにつれて近代文学史に名を残すメジャーな人たちの作物全般に興味を抱き、読んでみようか、と手を伸ばす機会が増えてきている(増えてきているのは「手を伸ばす」行為それ自体であって、すぐに読んでいるわけではない点にご注意願いたい)。その筆頭が鷗外と漱石、である。
 鷗外の作品はあまり読んだことがない。高校の教科書に載っていた「舞姫」と、「山椒大夫」に「高瀬舟」、「かのやうに」、「妄想」と「百物語」、『ヰタ・セクスアリス』ぐらい。ちかごろ、鷗外読んでみようかな、と思うのは、太宰治「女の決闘」を再読したためである。が、鷗外読書はまったく進んでいない。上に挙げた作品群だけでもうじゅうぶん、という気持ちが強く、加えてそれらをいま読もうとするとやたらしんどさを感じるばかりだからだ。まぁ、眠気と戦いつつの読書が最近専らなせいもあるけれど……でも、目蓋が塞がるまでの時間は鷗外がいちばん短いな。
 較べて漱石はそれよりも長い。詳細に比較すれば大した差はないだろうが、体感的に漱石の方がページをめくる回数は多いようだ。どうして? 一言で片附ければ、面白いからである。教科書掲載作家という固定された見方を変えれば夏目漱石、相当にはっちゃけている人である。あの時代には珍しい江戸っ子文学を、時代の流行りとかそんなのとは無縁の世界で書きたいものを書き続けた殆ど唯一無二の人である。
 が、それもフルタイムの作家になるまでの話だ。勤めていれば毎月確実に給与が入ってくる身分を捨てて、漱石はフルタイムの作家に転じた。このあたりから深刻な小説が増え、エゴイズムとそれに伴う苦悩を描いて辛気くさい作品が連発されるようになる。カラッとしたユーモアや、鋭くもやわらかく発信される文明批評等々が魅力の1つであった漱石作品は、このあとすっかり影を潜めた。
 わたくしはこの時代の漱石の小説は、基本的にあまり好きではない。教科書で読み、国語教師に全文を読むを強要された『こゝろ』は、嫌いの極み。どうしてあんな退屈な小説が持て囃されるのか、さっぱりわからぬ。加藤剛の舞台を観ても、その気持ちに変化は生じなかった(榎本ナリコが現代版にアレンジしたマンガは良かったなぁ)。後期の作品としては『海辺のカフカ』に導かれて読んだ『坑夫』と『行人』の新潮文庫が手許に残るだけである。この時代の漱石はむしろ、随筆や漢詩、小品の方が抜群に面白いし、読んでいて心に馴染む。「夢十夜」は勿論だが、「永日小品」、「思ひ出す事など」は特にお気に入りだ。
 ──さて、顧みるまでもなく本ブログで漱石について書くのは、初めてのことである。いまさらどうして? いや、自分でもさっぱりわかりません。なんとなく書いてみたくなった、というだけのこと。お粗末さま。◆

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