第3237日目 〈マカバイ記 一・第3章:〈ユダ・マカバイ〉、〈ユダ、セロンを撃つ〉他with天に召されても幸せでいられる人。(つぶやき・なう)〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第3章です。

 一マカ3:1-12〈ユダ・マカバイ〉
 歿したマタティアに代わって三男ユダが、対シリア運動の先頭に立った。兄弟は互いに助け合い、支え合い、共に戦った。
 記録される歌に拠ればユダは、「巨人のように、胸当てを着け、 / 武具に身を固めて、戦場に臨み、 / 剣をもって、陣営を守った」(一マカ3:3)という。かれは獅子に喩えて歌われた。
 律法に従わない者はユダの名前を聞くだけですくみ上がり、混乱した。逆に律法に従う者、父祖の信仰と生活を棄てなかった者らの目にユダは、救いの道を開く人物と映ったのである。
 その頃、シリアのアポロニオス(サマリア地方司令官)の部隊とユダ・マカバイの軍が戦い、シリア軍は敗北した。このときユダは敗将アポロニオスの剣を奪った。この剣は終生ユダの手にあり、各地の戦いで揮われた由。

 一マカ3:13–26〈ユダ、セロンを撃つ〉
 セロンはシリア軍の司令官である。ユダが戦いの準備を進めているのを知るとセロンは軍隊を一路、敵が陣を敷く場所へ出陣させた。不敬虔なユダヤ人たちが南下するシリア軍に加わった。
 ──ベト・ホロンの上り坂にさしかかったシリアの大軍を、ユダとわずかな数の斥候が見ていた。斥候はシリアの大軍を見て士気を削がれてユダに、出直そう、と訴えた。なんとなればわれらは朝からなにも食べていないではありませんか、そんな状態でいったいどうやってシリア軍に挑めというのですか、と。
 ユダは斥候の訴えを退けて、平然といった。「少人数の手で多勢を打ちのめすこともありうるのだ。(中略)戦いの勝利は兵士の数の多さによるのではなく、ただ天の力によるのみだ」(一マカ3:18-19)と。続けて曰く、──
 「我々は命と律法を守るために戦うのだ。天が我々の目の前で敵を粉砕してくださる、彼ら如きにひるむことはない。」(一マカ3:21)
──と。
 斯くしてユダと少数の斥候はセロンの軍隊へ斬りこんでいった。不意を突かれたシリア軍は態勢を整える間もなく敗走した。生き残りは這々の体でペリシテの地へと逃げこんでいった。
 セレコウス紀147年即ち前165年のことである。

 一マカ3:27-37〈ペルシアおよびユダヤへの王の遠征計画〉
 アポロニオスとセロンの敗走を知ったアンティオコス・エピファネス4世は、これまでにない規模の軍隊を対ユダヤ戦に備えて招集した。兵にはあらかじめ年棒を前渡しして、常時あらゆる事態に即応できる体制を維持させた。
 が、それが却って国家財政を疲弊させたのである。「(アンティオコス4世は)以前からその褒賞を気前よく与え、歴代の王以上に出していた」(一マカ3:30)からだ。
 そこで王は、資力確保の名目で隣国ペルシアへの遠征(事実上の侵略戦争である)を計画、自ら指揮を執ることにした。
 為政者不在、政治空白の混乱を避けるためもあり王は、国事全般と国軍の半分を腹心のリシアスに委ね、当面抱えている各種懸念事項もリシアスに共有した。特にユダヤ人とエルサレムの処遇については幾度も幾度も念を押したのである。即ち、ユダヤ人は根絶やしに、エルサレムは壊滅させよ、と。以てかの地を往き来するあらゆる民への見せしめとせよ、と。
 こうしてアンティオコス・エピファネスはペルシア遠征に出発した。セレコウス紀147年即ち前165年のことである。「彼はユーフラテス川を渡り、高地の国々へと歩みを進めた。」(一マカ3:37)

 一マカ3:38-45〈ニカノルとゴルギアスの出陣〉
 リシアスはさっそくユダヤ人──マタティアの子ユダを代表とする律法に従う勢力──攻撃に取りかかった。ニカノル、ゴルギアス、ドリメネスの子プトレマイオス、3人の将軍を指揮官に任命し、40,000の兵と7,000の騎兵を与えてユダ攻撃に向かわせたのである。
 シリア軍はエルサレム西北西約15キロのアマウス近郊に到着、町の北側に陣を敷いた。
 自分たちの領内にシリア軍が陣を敷いたことを知ると、ユダたちは、「同胞を絶望の淵から奮い立たせ、民と聖所のために戦おう」(一マカ3:43)と誓い合い、祈りをささげ、慈悲と憐れみを求める集会を開いた。

 一マカ3:46-60〈ミツパの戦い〉
 祈りのため、ユダとかれに従うユダヤ人たちがミツパへ行った。かれらは断食し、粗布をまとい、頭から灰をかぶって衣を裂いた。律法の巻物を開いた。祭司服と初物、十分の一税を用意して、誓願の日数の満ちたナジル人を立たせた。天に向かって大声を上げた。
 そのときの言葉に曰く、──
 「御覧ください、異邦人たちがわたしたちを滅ぼそうと押し寄せて来ます。……あなたのお助けなしにどうして彼らに立ち向かえましょうか。」(一マカ3:52-53)
 それからユダは、千人隊長、百人隊長、五十人隊長、十人隊長、をそれぞれ任命した。一部の者については律法に従って帰宅するよう勧告した。然る後、ユダとその軍勢はアマウスの南側に陣を敷いた。
 明朝の戦いに先んじて民を鼓舞するユダの言葉、──
 「備えを怠るな。わが民族と聖所に加えられる災いを目にするくらいなら、戦場で死ぬ方がましではないか。万事は天の御旨のままになるであろう。」(一マカ3:58-60)

 通読すればわかるように、「一マカ」にはただの一言も「神」という言葉が出て来ません。「列王記」や「歴代誌」の如く時に神が為政者や諸国に働きかけて動いてゆく、という場面が「一マカ」にはないのです。そうした意味では超自然的な神が介在しない物語といえましょう。神の恩寵によってユダヤはシリアの圧政を退けたのではない。あくまで、人の力でありました。たしかに「天」に祈る場面こそあれ、シリアもユダヤも、エジプトもローマも、人間の智略が歴史物語を動かしてゆく。地に足が着いた軍記物、それが「一マカ」なのであります。
 勿論、かれらの背後に「神」はいつだって存在しております。神は<ここ>にいる。<ここ>とはどこか? 1人ひとりの信仰のなかであります。抽象的な物言いになりますが、ユダたちはイスラエルの、先祖の神から離れて生きているわけでは勿論、ありません。律法遵守が前面に出ているため忘れがちですが、先祖の神ありきの律法なのです。それはユダたちはじゅうぶんに理解していたでしょう。ただ本書での扱いに於いては「律法=神」という構図に差し替わっているだけなのです。
 「一マカ」に於いて神とは信仰の対象であって、その超自然的な力の働きかけを願う──期待するものではない。そうした意味ではこの「一マカ」は土埃と血の臭いが充満し、人々の権謀術数が錯綜する、極めて人間臭い歴史物語でもあります。それがゆえもあり、「一マカ」は単に旧約と新約をつなぐ書物としてだけでなく不思議と人の心を惹きつけて止まない魅力的な1冊ともなっているわけなのです。
 そうして本書を読んでいると度々、日本史との類似点を見出すことがございます。
 「寡兵よく大軍を破る」の中近東版ともいえるユダ・マカバイの台詞、「少人数の手で多勢を打ちのめすこともありうるのだ」は桶狭間の戦いを連想させずにはおかないし、近現代史から探せば、1941年12月に勃発した日本軍の南方作戦に於けるマレー作戦、などが思いあたります。
「以前からその褒賞を気前よく与え、歴代の王以上に出していた」アンティオコス王の姿に後醍醐天皇の恩賞大盤振る舞い但し不公平あり、を想起してしまうのです。元寇後の北条幕府が恩賞を出そうにも配分するだけの財源を確保できず、為に参戦した武将たちから総スカンを喰らった事例も挙げられようけれど、正直なところ、北条幕府には国家運営者の苦悩が滲み出て大いに共感、気持ちを寄り添わせることができるけれど、アンティオコス王と後醍醐天皇の例に関しては後先顧みずの愚かさを垣間見るようで、まるで同情に値いたしません。
 むろん、こんなことは偶然なのである。古今東西、探せば山程類例を探し出すことができる、というだけのこと。案外と人間はどこの地域に暮らしていようとも、同じような歴史の営みを知らず繰り返している生き物なのかもしれません。これを俗に、「歴史は繰り返す」という……流石にこじつけに過ぎましょうか?



 家族、出会いの縁、道徳、仕事、お金、この5つを大切にして愛おしむ人は、きっと天に召されたあとも幸福で満ち足りた生活を送ることができると思います。◆

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