第3240日目 〈マカバイ記 一・第6章:〈アンティオコス・エピファネスの死〉、〈アンティオコス・エウパトルの攻撃〉他withイエスは<人生の永遠の同伴者>。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第6章です。

 一マカ6:1-17〈アンティオコス・エピファネスの死〉
 ペルシア遠征に失敗してバビロンへ戻る途中のアンティオコス4世は、リシアスに託したユダヤ攻略が失敗したという報告を受け取った。
 「この言葉を聞いて、王は愕然として激しく震えだし、寝台に倒れ、心痛のあまり病気になってしまった。」(一マカ6:8)──死期が迫ったことを悟ると王は枕辺に、遠征に同道する友人をすべて集めてこういった。即ち、──
 「エルサレムで犯した数々の悪行が思い出される。わたしは不当にも、その町の金銀の調度品全部をかすめ、ユダの住民を一掃するため兵を送った。わたしには分かった。こうした不幸がわたしにふりかかったのは、このためなのだ。見よ、わたしは大きな苦痛を負って、異郷にあって死ぬばかりである。」(一マカ6:12−12)
 その後、友人フィリポスだけを呼び寄せて王国の全権を委ねた。王子アンティオコスの養育と教育も頼んだ。
 ──セレコウス紀149年即ち前164年、セレコウス朝シリアの王アンティオコス4世エピファネスはバビロンで客死した。
 アンティオコス王崩御の一報はすぐにアンティオキアへもたらされた。フィリポスに託された遺言を、リシアスは無視した。リシアスは、先王がペルシアへ出発する間際に王子アンティオコスの養育と教育を任されていたことを大義名分とし、この王子をアンティオコス5世、即ちアンティオコス・エウパトルとして即位させたのだった。

 一マカ6:18–32〈アンティオコス・エウパトルの攻撃〉
 その次の年、エルサレムにて。
 むかしエルサレムに侵攻したシリア軍が、「罪深い異邦人と律法に背く者どもを」(一マカ1:34)都のなかの要塞に守備兵として配置したことがある。その守備兵たちがいま、敬虔なユダヤ人たちを聖所周辺に隔離して、嫌がらせをしていた。
 ユダ・マカバイは要塞の守備兵たちを包囲するため、民に呼び掛けて、投石機や攻城機を作って準備を始めた。エルサレムの要塞は、居住区や神殿とは高い壁で隔絶されていたのである。
 これが、要塞を秘かに脱出した守備兵の一人によって、アンティオキアへ報告された。
 王は怒った。ただちに軍隊を編成し、地中海の島々から集まった傭兵たちも交えて、エルサレムに向けて南進させた。シリア軍は歩兵100,000万、騎兵20,000,戦闘用の象32頭から編成されていたという。「一マカ」に記録されない戦力もあった、と推測される。また、この数字を一概に信用することもできない。
 とまれ、──
 シリア軍はベトツルに対して陣を敷き、ベトツルの守備隊と連日連夜の戦闘を重ねた。
 ユダはエルサレムを離れてベトザカリアに行き、シリア軍に向けて陣を敷いた。ベトザカリアは、エルサレムとベトツルの間に位置する町。ここをユダは、会戦の場所に選んだのである。

 一マカ6:33-47〈ベトザカリアの戦い〉
 エルサレム南西約18キロ、ベトツル北約10キロのベトザカリアにて、シリアとユダヤは会戦した。シリアの「大軍のどよめき、進軍の足音、武具のぶつかり合う音を聞く者は皆、震え上がった」(一マカ6:41)という。シリアの軍勢は数が非常に多く、とても強力だったからである。
 が、ユダの兄弟、エレアザル・アワラン(一マカ2:5初出)は1頭の象に目を着けた。他よりひときわ大きな象だった。それにこそ、シリアの王が座乗しているに相違ない。──そう判断したエレアザルは、密集隊形の敵陣へ果敢に突っこんでゆき、かの象めがけて突進、これを攻撃した。象の下に回りこんで致命傷を与えたものの、倒れてきた象の下敷になって、エレアザルは死んだ。「民を救い、不朽の名を残そうと、自らを犠牲にしたので」(一マカ6:44)ある。
 「ユダたちは、王国の力と軍隊の勢力を知って、後退した。」(一マカ6:47)

 一マカ6:48−54〈シオンの山の包囲〉
 ベトザカリア会戦でユダヤ軍を後退させたシリア軍は、平和裏にベトツルを占領した。ちょうどその年が安息年にあたり、町にはシリアの包囲に耐えるだけの食糧が蓄えられていなかったからである。アンティオコス5世はベトツルの住民を他の町へ移住させた。そうしてシリア軍はエルサレムに向けて陣を敷いた。
 シリア軍とユダヤ軍の攻防は、何日も続いた。が、安息の年ゆえにユダヤ人は食糧を殆ど持たなかった。ベトツルで見たのと同じである。
 おまけにエルサレムには、元々の住民に加えて難民が寄宿してたので、食糧不足は余計に深刻であった。飢えがかれらを苦しめた。難民の多くが自分たちの土地へ帰っていった。
 聖所に残る者は少なくなった。

 一マカ6:55−63〈リシアスの和睦の提案〉
 ユダヤと戦闘中のリシアスの許へ届けられた報告、──
 「先王アンティオコスの存命中に、その王子アンティオコスを王となるにふさわしく養育する任務をゆだねられたフィリポスが、遠征していた先王の軍隊を引き連れてペルシアとメディアから帰還し、政権を乗っ取ろうとしている」(一マカ6:55−56)と。
 フィリポスとの衝突はもはや避けられなかった。ユダヤと戦っている場合ではない。リシアスは王と軍の指揮官に、撤退を具申した。
 「我々の力は日ごとに衰え、食物も乏しく、しかも包囲している場所は強固だ。王国の命運は我々の双肩にかかっている。この際、この人々には和解の印として右手を差し出そう。そして彼らおよびその民族全体と和を結ぼうではないか。また彼らに、従来どおり自分たちの慣習に従って生活することを許してやろうではないか。彼らが怒って、抵抗しているのは、我々が彼らの慣習を破棄させようとしたからだ。」(一マカ6:57−59)
 リシアスのいうことはもっともだったので、王も指揮官も異を唱えることはなかった。ただちに軍の撤退が開始された。
 一方でリシアスはユダヤ軍に和睦の使者を遣わした。ユダヤが和睦に飛びついたのはいうまでもない。腹がへっては戦はできぬ、は古今東西、万国共通の真実である。ユダヤ人は砦から出て来て、久しぶりに戦闘のない日が訪れたのを喜んだ。
 しかし、である。アンティオコス・エウパトルはシオンの山に築かれたその砦の堅固なるを見て、城壁の破壊を命じた。そうして王はアンティオキアに戻り、既にフィリポスの手に落ちていた町々を力ずくで奪還した。

 リシアスがユダヤ側に和睦の提案を図ったのは、先王が率いていった軍勢の強さを知っていたからに他なりません。ペルシア遠征が事実上失敗に終わったとはいえ、軍隊が全滅したわけではない。フィリポスの指揮官としての能力もリシアスは良く知っていたことでしょう。
 そのフィリポスが残された遠征軍を率いて迫ってくる。これにシリアは全軍を持って取り組まねばならない。が、シリア国内に散らばる軍隊をすべて招集しても、戦力を二分して事に当たるのは不可能事に等しい──つまり、いまのシリアにユダ・マカバイとフィリポス両方を同時に相手して戦うだけの戦力はなかった。為にリシアスはユダヤとの停戦をまとめて、全シリア軍を対フィリポスへ向かわせたのであります。
 このタイミングでの和睦は非常に賢明な判断であった、と申せましょう。この判断の速さ、的確さは称賛されるべきです。それが結局、ユダヤを飢えから救ったわけでもありますから。
 抗戦を続けるユダヤにとっての幸い、シリア国内に留まった軍隊にとっての幸い、アンティオコス5世にとっての幸いは、リシアスが先王の留守を守って残ったことでありましょう。かれのような明晰かつ先を見通す力なくして事態の即時収束は困難であったに違いありません。
 最期に、安息の年(安息年)について、簡単にお復習いして終わりとします。
 安息年は「レビ記」に載り、主なる神がシナイ山にてモーセに語った神聖法の1つ。曰く、──
 「あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息をその土地にも与えなさい。六年の間は畑に種を蒔き、ぶどう畑の手入れをし、収穫することができるが、七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である。畑に種を蒔いてはならない。ぶどう畑の手入れをしてはならない。休閑中の畑に生じた穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない。土地に全き安息を与えねばならない。」(レビ25:2-5)
──と。
 どれだけ安息年が豊作であろう土地に実ったものはすべて、収穫してあなたたちの食糧にすることはできない。……結構厳しいお話です。が、これは道理にかなう話でもあります。大地に休息を。そうして翌年は、安息年の間に実ったものをすべて食糧とすることができる。ちなみにこの7年のサイクルを7回繰り返した翌年、つまり50年目はヨベルの年と呼ばれます。
 第7章でユダヤ人が食糧に喘いだのは、こうしたむかしからの教えを忠実に守っていたためでありました。



 このままのペースで更新を続けられれば、「一マカ」第16章は12月25日午前02時にお披露目できる。今年のクリスマスは久しぶりに、イエスについての記事が書ければ良いな、と思います。
 就寝前の一刻、遠藤周作『イエスの誕生』をすこしずつ読んでおりますが、これまで読んだイエス伝のなかでいちばん、心の襞に染みこんで深いところまで届く。遠藤は常にイエスを、人生の永遠の同伴者、と捉え、内に秘めた悲しみに寄り添ってその輪郭を丁寧に描いてゆく。
 ──かれらに必要なのは<奇蹟>ではなく、<愛>である。哀しみや苦しみを分かちあい、共に泪する母の如き<人生の永遠の同伴者>。
 福音書を読んでいるときにこの本に出会っていたら、わたくしのイエス観も変化していたかもしれません。イエスはけっして超然とした人物ではなく、弱き者の悲しみに寄り添い、共に泣くことのできる同伴者であった……。
 夜更け、奥方様の寝息を横に聞きながら、この言葉を口のなかで呟くと、自然に両親の姿を思い浮かべてしまうのであります。◆

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