第3241日目 〈マカバイ記 一・第7章:〈デメトリオスの支配と弾圧開始〉、〈アルキモスの策略とその結果〉他withクレオパトラについてメモを書いていました。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第7章です。

 一マカ7:1-11〈デメトリオスの支配と弾圧開始〉
 セレコウス紀151年即ち前162年、セレコウス4世の息子でアンティオコス・エピファネスの兄弟、デメトリオスがローマを脱出して地中海沿岸に上陸、王を宣言してその地を統治した。
 デメトリオスは上陸した町を征服して、アンティオキアに入った。かれはリシアスと、従兄弟にあたるアンティオコス5世を処刑した後、セレコウス朝の新しい王として即位した。即ちデメトリオス1世である。
 律法に背く不敬虔なユダヤ人がアンティオキアに来て、デメトリオス1世に謁見を求めた。これを束ねるのは大祭司職への復職を狙うアルキモスだった。
 アルキモス以下の不敬虔なユダヤ人たちは口々に、ユダ・マカバイとその兄弟たちによる”蛮行”を報告、連衆を鎮めてくれるよう懇願した。
 話を聞いたデメトリオス1世は、アルキモスを大祭司に再任した。そうして、ユーフラテス川の向こう側の総督を務めるバキデスと共にユダヤ鎮圧にあたるよう命じた。アルキモスはこうしてシリアの新しい王と手を組み、バキデスの協力を得て、大軍を引き連れてユダヤへ戻ることに成功した。
 バキデスとアルキモスはユダヤに入るとさっそく、友好関係を築くべくかの地のユダヤ人たちと交渉に入った。ユダ・マカバイとその兄弟はまったく相手にしなかった。それが罠であり、軛であるとわかっていたからである。

 一マカ7:12–25〈アルキモスの策略とその結果〉
 アルキモスといっしょにシリア側に寝返ったユダヤ人のなかに、律法学者の一団がいた。かれらは、アルキモスに公正な判断を下すよう求めた。
 一方イスラエルの民のなかに、ハシダイと呼ばれる一団があった。かつてマタティアが挙兵した際、その陣営に合流した律法に忠実で、律法の遵守に熱意を抱く集団である。
 ハシダイはシリアとの講和を主張した。アロンの家系(ツァドク族)に属するアルキモスが大祭司に任命されるのは律法に違反することではなかったからだ。ハシダイはこう主張する、──よもやアロンの家系に連なる者が、われら同胞を不当に扱ったりはするまい、と。
 が、ハシダイはまんまと騙され、1日で60人の仲間を失った。それを知った民の曰く、──
 「あの者たちには真実も正義もない。だからこそ、取り決めも立てた誓いも破ってしまったのだ。」(一マカ7:18)
──と。
 その頃バキデスは、エルサレムを離れたベトザイトに移っていた。寝返った/脱走したユダヤ人がベトザイトへ集まってきた。が、バキデスはそうしたユダヤ人を処刑して、大きな貯水槽に投げこんだのである。然る後、その地をアルキモスに任せて帰ってしまった。
 そのアルキモスは大祭司職の保持に必死だった。かれ1人では手に余る程の仕事が肩にのし掛かってきた。いまや不敬虔なユダヤ人は皆、アルキモスの所へ集まるようになった。監督も指揮も行き届かなくなったことで、律法に背くユダヤ人たちの蛮行は異邦人以上に非道いものになった。──ユダ・マカバイはその度出撃して、2度とかれらが民を悩ませることがないようにした。
 やることの多さと物事が自分の思い通りにならぬことに”ぷっつん”したアルキモスは、プリプリ怒りながらアンティオキアに行き、王を相手にユダたちの行動をクソミソに罵った。

 一マカ7:26-32〈ニカノルの出撃〉
 イスラエルを憎み、敵視することこの上ないニカノルが、新たにユダヤ殲滅を命じられた。
 大軍を率いてエルサレム入りしたニカノルは、ユダに講和の使者を送った。が、ユダはすぐこれが偽りであるとわかっていたので、2度目以後の会談に応じることはなかった。
 自分の企みが露見したと知り、ここにいれば危険が及ぶと察したニカノルはただちにエルサレムを出て、北北西約16キロ程の場所にあるカファルサラマの郊外に陣を構えて、追ってくるユダヤ軍を迎え撃った。この戦闘でニカノル側は約500人の兵が倒れた。残った兵はニカノル側の拠点にもなっているダビデの町へ逃げこんだ。

 一マカ7:33−50〈ニカノルの神殿冒瀆とユダ軍の勝利〉
 そのあと、ニカノルはシオンの山に登り、聖所から出てきた祭司たちの迎えを受けた。が、ニカノルは神殿を冒瀆する言葉を吐き捨てて祭司たちを泣かせ、その場を去るとエルサレムを出てベト・ホロンに出陣していった。進軍してきたシリア軍とここで合流するのである。
 アダルの月の13日、シリア軍とユダヤ軍の戦いが始まった。シリアの将ニカノルはこの戦いで真っ先に戦死した。
 ニカノル戦死を知るやシリア軍は、総崩れになって敗走を始めた。ユダは容赦なくこれを追い、全滅させた。生き残ったシリア兵はゼロである。
 ニカノルの首は、屈辱的な講和を申し入れてきた右手(ex;一マカ7:29)と並べてエルサレム郊外で晒し者にされた。
 民は自分たちの上を覆っていた不安がなくなったことを喜んだ。これがきっかけで毎年アダルの月13日は、「ニカノルの日」として祝われるようになった。
 「しばらくの間ではあったが、ユダの地には平和が訪れた。」(一マカ7:50)

 よく似た名前が同じ章、同じエピソードに乱出することで、混乱を招いているかもしれません。同じ名前ゆえに前回登場した人物と同じ人か、刹那であっても悩んでしまいますね。
 第5章のゴルギアスなどは、わたくしも確信はないが状況などから総合的に判断して、第4章でユダ・マカバイと一戦交えたゴルギアスであろう、と判断いたしました。今日の第7章でも、のっけから新キャラ、デメトリオスが登場する。本文へ落としこんだように、これはアンティオコス・エピファネス(アンティオコス4世)の兄弟であります。人名に関してはなるべく読者諸兄が混乱せぬよう注意を払っているつもりですけれど、それでもなお要らぬ混乱を招いてしまっているようであれば大変申し訳なく思い、また自分の力不足を痛感せざるを得ません。
 さて、気を取り直して、──
 ローマから脱出して地中海沿岸のシリアの町(「一マカ」本文に明記なし)へ上陸したデメトリオス。では、デメトリオスはローマでいったいなにをしていたのか、ということですが、かれは実はかの地で人質になっていたのであります。
 人質とは申せ今日のように、犯罪事件に於いて犯人側が要求を通すための交渉材料として確保する、刹那的かつ非人道的な意味での人質(被害者)ではありません。特に古代に於いては<人質>とは国交上の交渉を有利にしたり、将来の指導者教育の面を備えた留学生に似た扱いをされることが専らでした。
 塩野七生であったか曾野綾子であったか、或いは他の人であったか忘れてしまいましたが、古代ローマの人質を説明して、<フルブライト留学生のような性格を持っていた>と説明しておりました。成る程、と深く首肯したのを覚えております。
 こうした際の人質とは大概、国の指導者の子息で、この場合であればシリア王がローマへ、王子を人質に差し出した。ローマでは王子を厚遇して元老院議員など有力貴族の家に置き、高度な教育を施し、政治の世界を垣間見させ、ローマの中枢を目の当たりにさせることでローマの色に染めあげる。そうして人質が祖国へ戻る際は立派な親ローマ派が1人、誕生している、といった具合です。これはローマにしてみれば同盟国、友好国を増やして、かつその後の国益をも保証する、未来の国家運営を見据えた巧い政策でした。デメトリオスはそうした意味では、或る種の帝王学を受けるため人質としてローマへ渡った、といえそうであります。
 が、「脱出し」(一マカ7:1)て来たとは、果たして? ただ上述の説明を踏まえればこの脱出も、割と穏健な背景を持つように思えます。穏健とは相応しい表現か定かでありませんが、とまれ、ローマの貴族に預けられていたデメトリオスはシリアの王位が不安定なのを見、また兄弟アンティオコス4世の客死を知り、いま自分が出てゆかねばどうするか、と、決意して寄宿先の貴族を説得、一路東へ向けて出奔。海を渡って故国の土を踏んだのではなかったろうか。……甘ちゃんな見方かもしれませんが、わたくしにはそう考えられるのであります。
 ハシダイは第2章にも登場した、律法主義者の集団であります。新約聖書に登場するファリサイ派がハシダイの流れを汲んだ一派であろうことは、第2章ノート感想にて既に述べたとおりであります。エッセネ派についても僅かながら触れました。これを機に、ハシダイというマカバイ戦争時代にユダヤに現れた集団の1つについて、独立したエッセイを書いてみるつもりであります。
 アダルの月13日をニカノルの日と記念、祝うようになった、と一マカ7:49は伝えます。ニコラス・デ・ラーンジュ『ユダヤ教入門』に拠ればアダルの月13日は「エステル記の断食日」とあり、その翌日はプリム祭である(P143-144「ユダヤの暦」 柄谷凛・訳 岩波書店 2002/02)。
 エステル記の断食日とニカノルの日につながりがあるとは思えませんので、ニカノルの日はかつては祝われたけれどやがて忘れられてゆく運命にあった祭日だったのだ、といえるでしょう。フランシスコ会訳聖書の当該箇所の註釈には、「この記念の祝いは毎年行われたが、エルサレムの神殿の滅亡後、いろいろな記念の祝いは廃止されて、ハヌッカ祭とプリム祭のみが存続している」(P1143 註13)とあります。
 ハスモン朝の時代にはじゅうぶん意義あった祭りでありましょうが、新約聖書の時代へ進んでゆくに従ってその意義は徐々に薄まり、やがて廃れてゆき、世代が代わるにつれて「一マカ」に記し留められる歴史上の祭りとしか認識されなくなっていったのでありましょう。



 ちょっとした寄り道をしてきました。本稿を書きながらクレオパトラに関するメモを作っていたのです。「一マカ」第10章で登場するクレオパトラ・テアについてのメモ、であります。なにがきっかけだったんだっけ? まぁ、いいや。
 それだけならほんの数分で済んだのですが、それが1時間近くも要したのは偏にその名前から出発して、あのクレオパトラ(7世)に筆が飛んだからでした。メモのかたわらローマ史やプトレマイオス朝エジプトの歴史、アウグストゥス/オクタウィウスの伝記を読み耽ったり、ローマ皇帝記の類に目を通していたら、こんなに時間が経っていました。
 当該章にてこのメモがどれだけ役に立ってくれるか定かではありませんが、とまれ、書いていて非常に愉しい時間を過ごすことができたことだけご報告しておきます。
 一方でそろそろ、シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』(小田島雄志・訳 白水uブックス)を買って読みたいなぁ、と、思うこと頻りだったのであります。……そうか、この1冊で小田嶋訳シェイクスピアは完読になるんだったな……。長い30年だったぜ。◆

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