第3246日目 〈マカバイ記 一・第12章:〈ローマおよびスパルタとの友好関係の更新〉、〈ヨナタンとシモン兄弟の戦いぶり〉他with簡単に今年を総括してみた。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第12章です。

 一マカ12:1−23〈ローマおよびスパルタとの友好関係の更新〉
 ヨナタンはこの機会に、ユダ・マカバイの時代に結ばれたローマとスパルタとの友好関係を更新する手筈を整えた。ローマへの使者──アンティオコスの子ヌメニオスとヤソンの子アンティバトロス──は元老院の議員と面会し、同盟関係の確認と更新の約束を取り付けた。元老院は諸地方の役人に宛てた書簡を2人に与える。ユダヤからの使者がぶじ帰国できるよう配慮せよ、という内容だった。
 同様にヨナタンはスパルタへも使者を遣わした。携えさせた書簡に曰く、──
 かつてスパルタの王アリオスからわが国の大祭司オニアスに宛てて、同盟と友好を示した書簡が送られてきた。ユダヤはこの度スパルタとの同盟と友好関係の更新をお願いしたく、ここに使者を遣わします。ご検討いただき、是非にも良いお返事をこの者らへ持たせて下さいますように。
──と。

 一マカ12:24−38〈ヨナタンとシモン兄弟の戦いぶり〉
 デメトリオスの指揮官たちが以前より規模を増した軍隊を再編成して、ユダヤと戦う準備を進めていることをヨナタンは知った。そこでヨナタンはエルサレムを出てハマト地方へ出陣、デメトリオス軍と刃を交えてユダヤ領内への侵入を許すことなく戦ったのである。
 敵の陣営に潜りこませた偵察兵から報告があった。夜襲の準備をしている、という。ヨナタンは味方の陣営に迎撃準備の号令を掛けた。その様子が却って敵の士気を鈍らせ、退却させた。
 が、ヨナタンは敵軍が撤退したことを朝まで知らなかった。敵陣にかがり火が煌々と焚かれたままだったからである。追ったが、敵はもう追いつけない場所にいた。
 追撃を諦めたヨナタンは矛先を転じて、今度はザバダイと呼ばれるアラビア人たちを討ちにかの地へ入り、それを打ち破り、略奪し、ダマスコとその地方全体を駆け巡った。
 一方シモンはアシュケロンとその近郊の砦を討ち、ヤッファを落とし、守備隊を駐屯させた。
 戻ってきたヨナタンは民の長老たちを集めてユダヤの領内に砦を築き、エルサレムに高い城壁を築いて要塞と町を分断することに決めた。
 「人々は町の建設のために集まってきた。(エルサレムの)東側の渓流沿いの城壁が一部破損してたからである。ヨナタンはカフェナタと呼ばれる城壁の部分を修復した。シモンは、セフェラにあるハディドを再建し、これを強化し、門とかんぬきを付けた。」(一マカ12:37-38)

 一マカ12:39−53〈トリフォン、ヨナタンを捕らえる〉
 前章にて幼いアンティオコス6世を擁立したトリフォンには野心があった。王を亡き者にして自ら王冠を戴きアジアの王となろうというのである。そのためにはヨナタンが目障りだった。そこでトリフォンは軍隊を率いてベトシャンに入り、ヨナタンが軍勢を連れて出てくるのを待った。
 果たしてヨナタンは来た。トリフォンは自らに戦意のないことをヨナタンに説き(<軍隊を引き連れているのは戦うためではない、巡視の警護である>というのがトリフォンの主張であったろう。そうしてそれを疑う根拠はないのだった)、率いる兵の数を減らしてあなたの兄弟シモンが収めるプトレマイスへ一緒に行こう、と誘った。来てくれればプトレマイスや他の町に駐留させているシリア軍、こちら側の砦、皆あなたに引き渡して、私はアンティオキアへ帰りましょう。
 こんな話を信じてついてゆく者が、いったいあるだろうか? 嗚呼、あったのである。ヨナタンはトリフォンの言葉を信じて率いる兵を1/3まで減らしてプトレマイスに向かい、そこで殺された。町に入ったユダヤ軍も全滅させられた。
 帰国途中のユダヤ軍はヨナタンの死を知ると、後ろから追ってくるシリア軍を迎え撃つ準備をして、これを待った。が、シリア軍は、ユダヤ軍が命懸けでこの戦いに臨む覚悟なのがわかると、戦うことなく後退していった。プトレマイスに入ることなく帰路に就いたユダヤ軍はこうして1人の死傷者も出さずに、エルサレムへ帰還した。
 全イスラエルがヨナタンの死を嘆き、悲しんだ。セレコウス紀170年即ち前143年である。
 周辺の異邦人はヨナタンの死を、ユダヤを攻撃する好機と捉えた。
 
 なんだか今日は感想が短くて済みそうです。こんな日が偶にはあっても、良い。
 ローマとスパルタとの関係は継続される。古代社会では指導者が代わる都度、相手国との友好や同盟が見直されて更新されることが多かった、といいます。ヨナタンもこの慣習に倣ったのでしょう。むろんそこには、シリア国内の乱れも関係していたはずです。先の反乱でデメトリオス2世はひとまず大人しくしているようだし、アンティオコス6世はユダヤに対して好意的である──ならば海を渡ってローマへ人をやり、懸念事項であった同盟更新を取り付けるのは、いまを措いて他になし、となるのは当然であります。為、2人の使者が派遣された。
 ここで小首を傾げてしまうのは、スパルタの王とユダヤの大祭司との間に、既に同盟と友好を目的とする手紙が交わされていた点であります。これが事実なのか、「一マカ」著者の創作なのか、定かではありません。
 事実と仮定すればそれは、大祭司職にオニアスが就いていた頃というので、ユダヤではまだ律法があまねく機能し、アンティオコス4世の暴虐も及んでいなかった時代となります。当時ユダヤの指導者であった大祭司オニアス(〈前夜〉では「オニア」と書きました)がスパルタとの同盟・友好に踏み切ったのは、以下3点の理由が考えられるように思います。つまり、──
 ①ユダヤを取り巻く諸外国の動静──就中エジプトとシリアの対立が念頭にあったか。隣接地域やアラビア地方の異邦人の動向も気掛かりであったろう──キナ臭くなってきたこと、
 ②かつてのイスラエル王国がそうして滅んだように外敵から身を守るためにはそれよりも更に強力な国家と手を結んで有事の際に協力を求められる相手が必要である、と考えたこと、
 ③折しもスパルタの王から送られてきた手紙に、「(スパルタ人とユダヤ人が)兄弟であり、アブラハムの血筋であることが確認された。我々はこのことを知ったので、あなたがたの繁栄ぶりをぜひとも知らせていただきたい」(一マカ12:21-22)と書かれていたこと、
──であります。
 このオニアが大祭司職に在ったのは前196年頃から前175年、アンティオコス4世の即位は前175年といいますので、スパルタと関係を結んだ時期は詳らかにできません。スパルタの王アリオスが特定でき、その在位期間が判明すれば良いのですが。
 『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』の脚注はこのアリオスをアレウス1世(在位;前309-265年)と仮定した上で、この時代に大祭司職に在ったオニアス1世もしくは2世との間に手紙のやり取りはあり得たとする学説を紹介しております(P155)。ちなみに前段にてわたくしが念頭に置いた「オニア」はオニアス3世でありました。
 いずれにせよその当時のユダヤが地中海世界の諸権力との結びつきを求めて活動していたことは、『スタディ版』の註釈を待つまでもなく、十二分に考えられることといえましょう
 さて──ヨナタンが謀略に嵌まって命を落とした。
 異邦人はこれをユダヤ攻撃の絶好の好機と捉えたらしい。闇雲に攻めてゆくのではなく、敵が内部で弱体化したタイミングを狙って攻撃を仕掛ける。旧約聖書、ヨシュアや士師の時代からちょっとはかれらも成長したようです(当たり前か)。とはいえ、「一マカ」がこのあと、異邦人のユダヤ攻めを記録した様子はありません。考えただけで攻めることはなかったのか、或いは攻めても小競り合い程度の規模で記すに値しなかったのか。
 この時代の歴史を複眼で捉えて書き留めた文書ではありませんから当然かも知れませんが、ここに書き留められなかった歴史がどれだけあったのか、を考えると、ちょっと欲求不満になってしまいます。ヨセフスや他地方の同時代史を掻き集めて自分で歴史を再構築するしかないわけですが、まぁそういう愉しみを残してくれたことに感謝すべきかもしれませんね。
 〈ヨナタンとシモン兄弟の戦いぶり〉の引用箇所に出る、ヨナタンが修復した城壁「カフェナタ」とシモンが再建・強化した「セフェラにあるハディド」について。
 カフェナタは長野県伊那市や香港のマカオに同名カフェがある由。が、いま検討すべきはそれではない。エルサレムにある城壁で、一マカ10:10-11で始まったヨナタンのエルサレム再建計画が続行されていることがわかります。では、そのカフェナタは、エルサレムのどこにあるのか(あったのか)ですが、特定は難しい作業となる。
 といいますのも、各時代のエルサレム地図を披見しうる範囲で見ても該当する城壁が見当たらないからです。フランシスコ会訳聖書の当該箇所註釈にカフェナタの語義不明とした上で、「一説によると、アラム語のカフラタ、すなわち二重の石垣を意味し(王下22・14の『エルサレムの新しい町』を指す)」(P1169 註6)とする。エルサレムを囲む城壁の一部、但しどの部分を指すか未詳、というのが現時点での調査結果であります。
 ……各時代に於けるエルサレムの地図、それも考古学の成果を十全に備えた地図があれば良いな、と思います。ダビデの時代から南王国陥落時、エズラ・ネヘミヤの再建/第二神殿時代からハスモン朝を経てヘロデ王の時代までの、エルサレムの発展、破壊を俯瞰できるような、薄手のトレシング・ペーパーを何枚も重ね合わせて作った地図があれば、こうしたときの調べ事にとても役に立つのですが……。自作するか。
 「セフェラにあるハディド」はシモンが再建指揮を執り、かつ防備を強化していることから、アンティオコス6世から与えられた(一マカ11:59)地中海沿岸地域にある町と想像できます。そうしてハディドは、シモン時代のユダヤ国境から然程離れていない場所にある町でありました。
 「セフェラ」は「シェフェラ」として「オバデヤ書」第1章第19節に載る。曰く、「彼らは、ネゲブとエサウの山、シェフェラとペリシテ人の土地を所有し」と。シェフェラは地中海沿岸の平野とユダヤの山岳地帯の中間あたりに位置する丘陵地帯といいます。この丘陵地帯にあるハディドの町をユダヤ防衛の要衝と捉えてシモンは、再建と防備の強化に乗り出したのでありましょう。



 いつの間にやら師走は中葉を過ぎて後半戦。なんと来週末はクリスマス・イヴですよ。今年、2021年を総括すると、──
 様々な裏切りと背信の上に幸福を築いた1年、でありました。
 一緒に仕事した人々に背を向け、恩ある人の世話を裏切りという形で反古にし、自分の首を自ら絞めてカツカツの生活を送った。裏切りと背信の代償として、幸福なる生活と安定した財政を手に入れた。良き哉、良き哉。
 このお話はまた改めて、暮れまであと数日というときにしましょう。なお、──
 しあわせに暮らせていますか? しあわせを与えられていますか?◆

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