第3247日目 〈マカバイ記 一・第13章:〈シモン、ヨナタンの後を継ぐ〉、〈シモン、一族の記念碑を建てる〉他with<昭和から平成>へ〜伊勢佐木モールの場合。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第13章です。

 一マカ13:1-24〈シモン、ヨナタンの後を継ぐ〉
 トリフォン未だユダヤを討ち滅ぼすを諦めず、プトレマイスからユダヤ領内へ侵入した。ヨナタン未だシリアに抑留されるも存命であった。ユダヤ未だ指導者を戴かず、民はシモンにその役を求めてシモンは了承した。
 エルサレム城壁の修復が急ピッチで進んだ。防衛強化の一環として兵の増強が図られた。港湾都市ヤッファをユダヤ軍は制圧した。今後の海上通商を有利に進めるためである。ヤッファには守備隊が駐留した。シモンは軍を率いてエルサレムを出た。領内に侵入したトリフォンの軍勢を迎え撃つべく出撃したのである。
 ハディドに陣を敷いたシモンのところへ、トリフォンの伝令がやって来た。曰く、──
 ①ヨナタンがいまわれらの側にいて捕らえられているのは、国庫に納めるべき金銭を偽るという職業上の過失を犯したためである。
 ②これは現時点で解決されていない。
 ③銀100タラントンを支払えばヨナタンの過失は不問に処し、またヨナタンの息子2人をわれらに送れば捕虜たるヨナタンを解放する。
 ④シモン、汝に100タラントンを支払う意思並びにヨナタンの子供を送る意思の有るや否や。
──と。
 誰一人信じる者はなかった。が、ヨナタン釈放のため銀100タラントンは支払うことにした。後代の奇禍を避けんがためである。また、同じ理由でヨナタンの子供を差し出すことにもした。
 が、トリフォンは案の定、前言を翻した。銀と子供を手に入れた上、ヨナタン釈放も実行しなかったのである。トリフォンは軍を進めてユダヤの地深く喰いこもうとしたが、アドラを目指す途中でシモンの軍勢の抵抗に遭い、退却を余儀なくされた。
 エルサレムの要塞に駐屯するシリア兵は孤立した(ex;一マカ12:36)。かれらはトリフォンに荒れ野を迂回してくるよう懇願したが、トリフォンは折しも吹き荒れた大雪に立ち往生してギレアドへと更に後退せざるを得なくなってしまった。
 ギレアドを経由してプトレマイスへ戻る途中である。ゲネサル湖北岸の町バスカマに来たとき、トリフォンはヨナタン処刑を命じてそこに埋めさせた。

 一マカ13:25-30〈シモン、一族の記念碑を建てる〉
 シモンはバスカマに人を遣わした。ヨナタンの遺体を取り戻すためだ。
 埋葬地はモデインである。父マタティア、兄弟たちの墓の上に記念碑を建て、7つのピラミッドと石柱を設けた。シモンによってモデインに作られたこの記念碑は、いまでもそこに残っている。
 全イスラエルがヨナタンの死を何日にもわたって嘆き悲しんだ。

 一マカ13:31-48〈シモンの第一年〉
 マタティアはおそらくは老衰で歿してユダがあとを継ぎ、ユダは戦死してヨナタンが次の指導者となり、ヨナタンは処刑されてシモンが指揮官と大祭司職を継いだ。そのシモンの年、第1年目である。
 遂にトリフォンは幼きアンティオコス6世を殺害してシリアの王位に就いた。アジアの王冠を戴いたトリフォンはこの地に大きな災いを引き起こしてゆく。
 シモンはユダヤ各地に砦を築いてその周囲に塔や城壁を築き、門に閂を設け、砦には多くの食料を備蓄した。またデメトリオス2世に使者を送り、トリフォンの略奪行為によってユダヤの財政が逼迫したことを伝えて税の免除を願い出た。王の返書に曰く、──
 ユダヤに課している諸々の税を免除するよう担当者に申し伝えた。これまであなた方が犯してきた過失や罪はこの機会に赦そう。ユダヤの兵士のなかでわが軍へ加わるに相応しき者があれば登録せよ。われらの間に平和があるように。
──と。
 セレコウス紀170年即ち前143年、イスラエルは異邦人の軛から解放された。南王国以来のユダヤ人による独立行政自治体、ハスモン朝の始まりである。イスラエル人の発行する公文書や契約書には、シモン第1年、と年号が記されるようになった。
 その頃、シモンはエルサレム北西平野部の町ゲゼルへ向けて陣を敷いてこの町を包囲、攻撃した。町へ雪崩れこんできたユダヤ兵たちに異教を信奉する住民は城壁に逃れて、戦いをやめてくれるようシモンに嘆願した。シモンはこれを諒承して、戦いは終わった。
 異教徒に支配された町、ゲゼルから連衆を追放するとシモンは、偶像を祀っていた家々を清め、讃美と祝福の歌をうたいながら町へ入った。斯様にして町から汚れたものが一掃された。一時無人になった町には、律法を順守する者を住まわせた。シモン自身もそこに住んだのである。

 一マカ13:49-53〈要塞の清め〉
 ところで。
 隔離されたに等しいエルサレムの要塞に駐屯するシリア兵は、町との往来や通信、通商もままならず、遂に餓死者が出るまでになった。シリア兵はシモンに慈悲を請うた。シモンはそれに応えた。シリア兵は要塞から追い出されて、要塞は清められた。
 「第百七十一年の第二の月の二十三日にシモンとその民は、歓喜に満ちてしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二絃を鳴らし、賛美の歌をうたいつつ要塞に入った。イスラエルから大敵が根絶されたからである。」(一マカ13:51)
 セレコウス紀171年即ち前142年のことである。
 シモンはエルサレムに移り、成人した息子ヨハネを全軍の指揮官に任ずると共にゲゼルへ住まわせた。

 ようやくシモン以下敬虔なるユダヤ人のグループは、エルサレムの完全奪還を果たした。
 エルサレムから異邦人は皆追放されて、ユダヤ人の手に都が戻ります。アンティオコス4世の聖所蹂躙がセレコウス紀第145年とされますので、実に26年ぶりのことでした。
 戦力的に必ずしも有利とは言い難い戦いが続きましたが、自分たちの国を取り戻そう、自分たちの軛をなんとしてでも取り払おう、という一念がその困難を克服させた。この戦争は武力と戦略によってのみ勝利したのではなく、これまで聖書に記されたどんな戦いよりも外交ルートを通して同盟と友好関係をフルに生かして得られた勝利でもある、と申せましょう。
 時代と環境が確実に変化していることに加えて、多国間の関わりの密なることや、通商ルートがオリエント地方・地中海世界に細かな網の目状に張り巡らされていることなど、改めて実感させられるところでもあります。
 デメトリオス2世がシモンに送った手紙のなかにあった、「今日までのあなたがたの過失や罪を赦そう」(一マカ13:39)は、ユダヤがローマやスパルタと同盟を結んだことをいうのかな、と考えてしまいますが、仮にそうだとしても恐らくそれだけではないでしょう。
 実際にユダヤ側に指摘されて然るべき過失等があったか不明ですけれど、むしろこれは、デメトリオスが終始ユダヤに対して上の立場にあろうとする気持ちがそういわせたのだろう、と思うのです。シリアの王から見ればユダヤ人の自治行政体なぞ属領同然で、その行政体の長はローマ帝国のように<王>と<地方総督>の関係にも等しかったでしょうから。
 シモンがモデインに築いた記念碑は、後1世紀まではその地に在った、とヨセフスは報告しております。ただ疑問なのは、「石柱の一本一本に永遠の名を記念して、甲冑を彫り込み、海路を行く者が皆見ることのできるよう、甲冑のかたわらに船を刻んだ」(一マカ13:29)とはどのような意味か、という点であります。
 記念碑とはわれらの感覚でいえば墓碑に相当するでしょう。それに甲冑や船(の絵)を刻む、とは、むかし吉村作治の古代エジプト・ミステリ番組で観た、ピラミッドの墓所に巨大な船が天地逆になって──要するに、墓所/棺と船の甲板が巨大な空間に向かい合わせになり、船底の部分が天井に埋めこまれている光景を思い出してしまいます。
 確かエジプトの雨期に因んだカラクリで、そのときピラミッドは上下が逆転して、天井に埋めこまれていた船が水面に浮かんで黄泉の国を目指して航海してゆくようになっている、とかそんな話だったように記憶します。
 ただこれも30年近く前のことなので、はっきりとした内容ではありません。そのとき耽読した吉村先生の著書も、火事の際処分してしまったか、なにかの折に売り払ってしまったか、で、手許にはありません。今度図書館でありったけの蔵書を借り出して調べてみましょう。



 昨日、テレビ東京の『出没! アド街ック天国』を観ました。テーマは伊勢佐木町。伊勢佐木モールを中心として、様々な店舗、名物、人物、懐かしい写真が放送された。
 どれだけの人が覚えているかわからないけれど、1980年代のモールは『あぶない刑事』撮影にも使われたことで、週末ともなれば凄まじい人いきれで、数10メートルおきにお立ち台(これまた懐かしい名詞だな)に立ったアルバイトの女子大生、フリーターがメガフォンで、「自転車は降りてくださーい!」とか「小さいお子さんをお連れの方は手を離さないであげてくださーい!!」とか、声掛けしていたものじゃった。
 え、そのときわたくしがなにをしていたか、ですって? オデヲンの5階にあった先生堂という県下最大級の床面積を誇った古書店に週末のたび出掛けて、3冊100円の文庫や映画のパンフレット、ちょっと奮発して、それでも数100円の文庫や単行本、新書を丹念に拾って、今日の蔵書の礎を築いておりました。たまに上階の映画館に行ったりね。そういえば1987年頃? 6階か7階にあったフランス料理店でクリスマス、家族で出掛けてディナーを摂ったことも、良い思い出だ。
 オデヲンからは道路を渡った斜向かいにある、いまは消費者金融とか怪しげ極まりないマッサージ店、貿易会社が入るビルの4階だったかな、やはり古本屋があって、買い物客には無料で珈琲1杯飲ませてくれたっけ。そういえばここの2階には喫茶店があって、一時期南蛮屋Caféと交互で入り浸ったっけな。
 とまれ、1980年代の伊勢佐木モールは現在からは想像附かないぐらいの人出でごった返していたのである。そう、歩くのも困難なぐらいであった。みんな、<イセブラ>しに来ていたんだね。
 が、それはバブルが弾けると途端に人の波は消え、モールはちょっと治安の悪い街になった。外国人が闊歩し始めて、裏道の雑居マンションに棲みつくようになったのは、この頃だ。
 昼間はともかく、夕方あたりから、いまのサンクス(だっけ?)や牛角のある辺りをあちらの筋の方々もしくは生活の崩れた衆が歩きまわり、大小様々な喧嘩も勃発しておった。警官はなかなか来なくてね。お店はシャッターを下ろしたまま再開することなく消えてゆくところあり、またその跡に入って商売する店もあり、で、出入りのすこぶる激しい時代であったのだ。
 南蛮屋Caféがそこに出来たのはこの頃であったろうか。ブックオフの向かいあたりにあったダンキンドーナッツはいつしか姿を消した。松坂屋は健在であった。ゆずが街頭ライヴを始めた頃だ。ドラッグストアはまだレコード屋さん(楽器屋さん、音楽教室)だったけれど、客の姿はまばらになっていた。吉野家は英会話教室NOVAだった。カレー屋さんはサンマルクカフェで、有隣堂本店の裏の同社ビルは文具専門店舗だった。いまのパチンコ屋はむかしマルイで、2階から上はHMV。丸井が(現在線路の反対側に建つマンションの前身であった店舗共々)撤退したあとはカレーミュージアムになり、パチンコ屋に鞍替えした。マリナード地下街の広場には滝が流れておった。……その他その他。
 ──『出没! アド街ック天国』を観て懐かしさが湧き起こり、物悲しさを覚えた。わたくしにとって<昭和から平成へ>、その象徴はこの伊勢佐木モールかもしれない。◆

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