第3248日目 〈マカバイ記 一・第14章:〈デメトリオス、捕らえられる〉、〈シモンをたたえる歌〉他with信仰について。【つぶやき・なう】〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第14章です。

 一マカ14:1-3〈デメトリオス、捕らえられる〉
 来たるトリフォンとの戦いに備えてデメトリオスはメディアへ遠征した。援助を請うためである。
 が、メディアとペルシアの軍勢に行く手を阻まれ、敗れて、デメトリオス2世は捕虜となり、監禁された。メディアとペルシアの王は、アルケサス、といった。
 セレコウス紀172年即ち前141年のことだった。

 一マカ14:4-15〈シモンをたたえる歌〉
 シモンを統治者に戴いたユダヤは全地で平和を満喫していた。「シモンは民のために善きことを求め、その権威と栄光は、日々、民に喜びをもたらした。」(一マカ14:4)そうして、「人々は安んじて地を耕し、地は収穫をもたらし、野の草木は実を結んだ」(一マカ14:8)のだった。
 (前章でユダヤ軍を駐留させた)港湾都市ヤッファを拠点に海上の道を開き、領土を拡大していった。汚れた物が取り除かれたゲゼルやベトツルの町にはユダヤ軍が駐屯した。町の防衛は強化され、食糧の備蓄も急がれた。要塞にはたくさんの捕虜が配置された。
 一マカ第14章は、シモンの業績を讃えてこう述べる。曰く、──
 「シモンは地に平和をもたらし、イスラエルは無上の歓喜に酔いしれた。人々は、おのおののぶどうの木、いちじくの木の下に憩う。彼らを脅かす者はいない。彼らに戦いを挑む者は一掃されて地上から消え、シモンが世にあるかぎり、王たちは砕かれた。シモンは民の低き者を残らず励まし、律法を順守した。シモンは、律法に従わず悪を行う者を根絶した。」(一マカ14:11-14)
──と。
 聖所には栄光がもたらされ、祭具類は数を増した。
 ハスモン朝の樹立とそれに伴う版図拡大、各拠点の強化防衛、平和の維持と民の生活の安んじて営まれていること、そうした事柄はシモンの名声と相俟って地の果てにまで知られていった。

 一マカ14:16-24〈スパルタからの書簡〉
 ヨナタンの刑死。それはローマに伝えられ、スパルタにも届けられた。スパルタ市民はその報せに嘆いた。
 と同時にスパルタ市民は、シモンがヨナタンの継いで指揮官と大祭司の任に就いていることを知り、これまでの友好と同盟関係をこの機会に更新すべく話し合った。その旨記した書簡は銅販に刻まれてユダヤへ送られた。その書簡はユダヤに着くと民の前で読まれた。
 スパルタとユダヤの同盟関係はこれによって確認、更新された。
 シモンはローマに対して重さ1,000ムナ(=約430キログラム)もある金の大盾を贈った。同盟更新の確認のためである。

 一マカ14:25-49〈シモンをたたえる碑〉
 外国との友好・同盟更新を聞いたユダヤ人たちは、シモンを讃える文章を刻んだ銅販をシオンの丘に建てた。その碑文に曰く、──
 セレコウス紀172年即ち前141年、エルルの月18日、大祭司シモン第3年にアサラメルで開かれた集会にてわれらは次の内容を確認した。つまり、──
 シモンは侵入してくる敵へ果敢に挑み、そのため私財を抛って兵を雇い、給与を払い、軍を指揮した。各地の要塞や砦を強化し、城壁を高く強固にし、占領地にユダヤ人を入植させた。復興のために力を惜しまなかった。
 「民は、シモンの信仰を目の当たりにし、彼の念願した民の栄光が実現したのを見て、シモンを彼らの指導者、大祭司に立てた。それは、彼がこれらすべてのことを成し遂げ、民のために正義と信仰を守り、あらゆる手を尽くして民を高めようとしたからである。」(一マカ14:35)
 エルサレムに於いては要塞を築いて自軍の拠点とし、異邦の敵兵を放逐して聖所に神聖さを取り戻し、都の防備を固めた。
 シモンがローマ、スパルタとの同盟・友好関係を結んだことを知ったデメトリオス2世は、シモンの大祭司職を承認した。シモンはマタティアの子、マタティアは祭司を家業とするヨヤリブ家の流れを汲む者であるから、大祭司職の任に就くのは不当なことではない。
 民であれ祭司であれ何人と雖もシモンの命令を拒否したり反抗することは認められない。シモンの許可なく集会を催しすことは禁じられる。紫の衣、黄金の飾りを身に付けることも御法度である。違反者、拒否者は罰せられる。
──以上。
──これが碑文の内容であった。
 この碑文は聖所の目に付く場所に設置された。写しが作られ、それは宝庫に収められた。シモンとその息子たちがいつでも閲覧できるようにである。
 「民全体は、これらの決議に従って、シモンに権限を与えることをよしとした。シモンはこれに同意し、大祭司職に就くこと、また総司令官となって、祭司たちを含むユダヤ民族の統治者となり、陣頭に立つことを快く承諾した。」(一マカ14:46-47)

 デメトリオス王がシモンの大祭司職を承認(実際は追認であったろう)したのは、シモン/ユダヤがローマやスパルタと友好・同盟国になったことを知ったからでした。
 ローマとスパルタは、シモンが大祭司としてまた、ユダヤの総司令官として職務に勤めることを良しとして、これにかかわる権限を数多与え、全イスラエルを掌握し、すべての文書はかれの名前で発行され、また紫の衣や黄金の飾りを纏うことを認めた。
 台頭してきた列強国と手を結んだユダヤを、もはや自分一人の胸先三寸でどうにもできなくなったことを知ったからであります。シリアもこれまで以上にユダヤとの関係を良好に保ってゆかねばならない、そんな焦りがデメトリオスをしてシモンの大祭司職承認を促したのでしょう。
 シモンを讃える碑文の「シモンはマタティアの子、マタティアは祭司を家業とするヨヤリブ家の流れを汲む者であるから、大祭司職の任に就くのは不当なことではない」という文章は、わたくしの判断で添えました。
 強国の首長(シリア)、或いは最高意思決定機関(ローマ、元老院)によってシモンの大祭司職は対外的に認められた。が、実際のところ、シモンに大祭司職を継ぐ資格はないのです。
 といいますのも、大祭司職に就くことができるのはレビ族でもアロンの家系、エレアザルの家系、ツァドクの家系に連なる者のみだからであります。マタティアの属するヨヤリブ家はいうなれば傍系の家系、祭司職に就くことはできても大祭司になるなんぞ以ての外。
 律法に違反する行為をやってのけたシモンの立場を正当化するための諸外国からの承認取り付け、碑文への記載であったように思えます。即ちそれは民の純粋な総意で決定された碑の建立、刻まれる文章の執筆ではなく、シモンを頭とするハスモン朝の圧力を受けて為されたものである、という見方ができてまいります。
 この時代から大祭司職はシモンの子孫が、ハスモン朝滅亡まで継承せられますが、この職業は政治的側面を帯びて、否、むしろそちらの方が濃くなってゆきました。
 シモン礼讃(正当化)の碑が建立されたエルルの月は第6の月、グレゴリオ暦では8月/9月にあたります。
 そのシモンがローマヘ贈った金の大楯、その重さは約1,000ムナ、とあり、本文中に約430キログラムと添え書きしました。換算方法ですが、1ムナ=100ドラクメ、1ドラクメ=約4.3グラム、というのを踏まえて、100×4.3=430。ゆえに430キログラム、といたしました。
 ややこしくなるかもしれませんが、ドラクメ、とはギリシアの通貨単位でもある。これは、ローマの通貨単位、デナリオン、と等価でもある。即ち、1ドラクメ=1デナリオン。なにがいいたいか、と申しますと、マタ20<「ぶどう園の労働者」のたとえ>にある1日分の労働の賃金で印象的な1デナリオンを想起させた、というに過ぎない。寄り道に付き合ってくださったことに感謝。
 さて。
 シモンは港湾都市や異教の町を制圧、各地に軍隊を置いたことで、ユダヤの版図を拡大してゆきました。マカバイ戦争時代のユダヤ領土の地図がありますが、これを見ると如何にシモンの時代にユダヤが領土を拡張していったか、よくわかります。
 が、急速な版図拡大は1つの問題をもたらした。領土を維持するだけの軍隊、兵士をもはやこれまでのユダヤ軍内からは調達できなくなっていったのです。兵士の養成にも限界があります。そこで、ではシモンはどのような手段を採ったか。
 それが捕虜の活用であります。捕虜をユダヤ化して、拡大されてゆく領土、その各所に築かれた要塞や砦にかれらを配置して、防衛の任にあたらせたのでありました。急速な領土拡大の背景には武力侵攻があり、捕虜の存在があるわけなので、かれらの活用は至極当然のことと思えます。
 <シモン・ドクトリン>、とでもいえましょうか。



 個人の信仰と家の宗教は別であります。個人の信仰と興味嗜好も別物です。それを快く思わない者が、「お前のためを思って」なんて大義名分をかざして弾圧に走る。違うだろうか?◆

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