第3249日目 〈マカバイ記 一・第15章:〈アンティオコスの呼びかけ〉、〈アンティオコス、トリフォンを攻める〉他with聖書の舞台に行ってみたい。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第15章です。 

 一マカ15:1-9〈アンティオコスの呼びかけ〉
 地中海の島、おそらくはロドス島からシモン宛の書簡が届けられた。差出人はアンティオコス・シデテス。デメトリオス1世の息子にしてデメトリオス2世の弟となる。その内容に曰く、──
 いまシリア国内に害悪をもたらす者が蔓延っている。私は連衆を一掃すべく軍備を整え、これと戦う決意をした。シリアをわが手に取り戻し、国内に秩序を取り戻すため、民の安寧を願うためである。
 ついてはユダヤの指導者にして大祭司のシモンよ、貴方にお願いしたい。国を取り戻すための私の戦いを、いまは静観してほしい。援助が必要になった際は改めてその旨お願い申しあげる。
 これを機会に私は、先代のシリア王(デメトリオス2世)と貴方の間で合意していた各種事項を確認し、これを認めることにした。また、それに加えて、ユダヤ国内で通用する貨幣の鋳造と流通を許可する。
 エルサレムと聖所の自由を認めよう。シリアへの負債の免除は、過去にまで遡って適用され、未来まで有効となる。ユダヤの軍隊と砦の一切が貴方の所有となることを正式に認める。
 シリアがわが手で平定された暁には、約束を守ったとしてユダヤの名誉はあまねく全地に知れ渡るだろう。
──と。

 一マカ15:10-14〈アンティオコス、トリフォンを攻める〉
 ユダヤへの根回しを終えたアンティオコス・シデテスは軍隊を率いてシリアに上陸、寝返った兵も含めてトリフォンに戦いを挑み、サマリアの北北西約60キロ、海辺の町ドルへ追いつめた。
 アンティオコス・シデテスはこの町に向けて陣を敷き、海にも艦隊を配置して、ドルの町を完全封鎖した。誰ひとり出入りできず、連絡も補給も不可能になった。町は外部から隔離された。

 一マカ15:15-24〈ローマ、ユダヤを支援する〉
 さて、第14章でローマへ派遣されていた使節団──ヌメニオスとアンティバトロスとその一行がエルサレムへ帰還した。
 かれらはローマの執政官ルキウスが諸国の王に宛てた書状を携えていた。それはユダヤへの干渉の禁止と、ユダヤと敵対する国家との同盟締結を禁止する内容だった。曰く、──
 ユダヤのシモンが元老院に使節を送ってきた。同盟更新のためである。われらはそれを確認して、更新の手続きを完了させた。ユダヤからは重さ1,000ムナの金の盾をわれらは受領した(→一マカ14:24)。ついては諸国の王に、ユダヤへの干渉の禁止と、ユダヤと敵対する国家との同盟締結を禁止をお願いする。
 また、ユダヤに害悪を及ぼす者が貴方の国へ逃げこんでいたら、即座にその者を大祭司シモンに引き渡して、ユダヤの法律で裁くことができるよう取り計らってもらいたい。
──と。
 この書状は大祭司シモン宛の他、エジプトやシリアを始めとする諸国の王たちへも送られた。また、ロドスやキプロス、キレネなどのローマ属州へも、写しが送られた。

 一マカ15:25-41〈アンティオコス、シモンを裏切る〉
 ドルの完全封鎖は続いていた。アンティオコス軍の攻撃は間断なく行われ、攻城機を用いた戦闘も起きていた。トリフォンが逃げ出す機会は刹那と雖も与えられなかった。
 そこへシモンからの遣いが来た。攻撃の支援(ユダヤ軍の派遣)を願い出たのである。
 が、アンティオコス・シデテスはこれを断り、シモンへの態度を変えた。アンティオコスは腹心のアテノビオスをシモンへ遣わした。アテノビオスは主君からのメッセージを携えていた。曰く、──
 ユダヤ人は、シリア王国の都市ヤッファとゲゼル、シリア所有のエルサレムの要塞、その他シリア領内の土地を不当に占拠、制圧して、あまつさえこれらの都市や諸地域から税収を得ている。これは認められるものではない。
 シモンよ、ただちに占拠した都市や要塞からユダヤ人を退去させ、シリアに返還せよ。それらの地域から徴税した土地税をただちにシリアへ納めよ。それが出来ぬなら銀500タラントンの支払いを請求する。
 それとは別にユダヤがもたらした破壊と取り立てた租税の代償として、銀500タラントンを納めよ。
 ユダヤの回答や如何に。場合によっては武力行使も止むを得ないと考える。
──と。
 エルサレムに到着したアテノビオスは、シモンの豪奢な生活を目の当たりにして言葉を失いながらも取り敢えず、主君から預かったメッセージを伝えた。シモンが答えて曰く、──
 不当に占拠していると仰っるエルサレムの要塞は、われらユダヤの先祖の遺産。ゆえにユダヤの所有となるのは至極当然のことであろう。しかしながらヤッファとゲゼルに関しては、こちらとしても含むところはあるが、そちらの言い分は尤もである。従ってこの件については100タラントンをお支払いしよう。
──と。
 シモンの返答にアテノビオスは返す言葉を持たなかった。憤然とエルサレムを去るのみであった。……アンティオキアへ戻ったアテノビオスは、シモンの返事とその豪奢な生活ぶり、また自身目にした数々の事柄を報告した。アンティオコス・シデテスは激怒した。
 ところでドルの町にいて、動くに動けぬ状況にあったトリフォンであるが、なんと、かれは秘かに海路でオルトシアの町へと脱出したのである。オルトシアは、アンティオキアとティルスのほぼ中間にあるフェニキア地方の町。
 トリフォンが逃亡したことでシリア王位は空位となった。アンティオコス・シデテスがアンティオコス7世として即位した。前138年のことである。
 アンティオコス7世はケンデバイオスを海岸地方総司令官に任じた(=その地の司令官であったシモンを放逐した)。そうしてユダヤ攻撃の命令を下し、自分はトリフォン追撃にあたった。
 ケンデバイオスは軍を率いて南進した。ユダヤ領内を通ってペリシテ人の土地へ侵入するとヤムニアの町の住民を捕らえ、殺めて弾圧した。
 続いてケドロンの町の防備を固めて騎兵と歩兵を駐屯させた。ケドロンはペリシテ人の土地にあり、ユダヤとの国境に面した町。ヤムニアの南南東約10キロ、ゲゼルの西南西約20キロに位置する。
 ここを掌中に収めたことでケンデバイオスはユダヤの街道を使って、ユダヤ攻撃の足掛かりを築いたのだった。

 やや唐突にアンティオコス・シデテスが登場しました。前138年即位とされるアンティオコス7世であります。第15章の始まりの時点ではシリア王位はトリフォンにありましたので、ノートもしばらくはアンティオコス・シデテスとしました。
 他のシリア王と異なって「一マカ」では明記されませんが、アンティオコス・シデテスの即位はセレコウス紀175年即ち前138年という。
 一マカ15:10でシリアに上陸したアンティオコス・シデテスはドルの町を封鎖して攻撃を繰り返すも、一マカ15:37でトリフォンの海上脱出を許してしまう。
 トリフォンが海路で逃亡した場面がセレコウス紀174年即ち前138年のことであったろう。そのあとでアンティオコス・シデテスはセレコウス朝シリアの王位に就いた。アンティオコス・シデテスの誕生であります。然る後、王はトリフォン追撃に移ったのでありました。
 ちなみにトリフォンが幼きアンティオコス6世を殺害して王位簒奪者としてシリアを支配したのは第13章でのことであります。
 この件と絡めて申しあげれば、本章は如何に「一マカ」がユダヤと直接かかわる相手以外に関心を持たないか、がわかる章でもある。実際のところ、われらは(すくなくとも「一マカ」からは)ドルを脱出したトリフォンがどうなったか、アンティオコス7世の追撃劇がどのようなものであったか、知る術がない。完全に放りっぱなし。ステージの袖に退場した人物についてどうなろうが知ったことではない、という執筆態度が露骨であります。
 その代わりとして(?)一マカ15は新たに登場した敵ケンデバイオスとの戦いに筆を進めて、最終章となる第16章では前半がこのケンデバイオスとの戦い、後半は裏切り者プトレマイオスとの戦闘を描く。
 秦剛平は「一マカ」を<プロパガンダ文書>と呼んでおりますが、この、マカバイ家・ハスモン朝と関わりなき事柄に関して、「一マカ」は一切筆を費やすことがない。この意味では確かに<プロパガンダ文書>の性質を帯びる書物ではありましょうが、或る意味に於いてこの態度は歴史書として非常に正しいといわざるを得ない。むろん、秦はそこから更に踏みこんだ地点で「一マカ」を<プロパガンダ文書>と呼ぶのですが、すくなくとも<歴史書>という観点から見ればその呼称は小首を傾げる部分があるように思えてなりません。
 アンティオコス・シデテスがシモンの援軍派遣を断り、却って態度を硬化させたのはどうしてだったのでしょうか。わたくしにはこのシモンの行動がどうも解せない。予めアンティオコス・シデテスからは、援軍が必要なときは別途依頼する旨連絡があったにもかかわらず、シモンは援軍を派遣しました。
 劣勢と見たわけではあるまい。戦いが長期戦になるため、シリア軍が補給を待ったり受けたりする間だけでもユダヤ軍が代わりにドル攻撃を受け持ちましょうか、という提案だったのかもしれません。援助は(こちらから依頼しない限り)不要と知らせたのにそれを破って送ってきたことと侮辱と感じたのかもしれません。
 むろん、古代の約束事が大抵すぐに反古にされ、「裏切り、裏切る」図式が常となっていたことを考えれば、ひとまずユダヤと戦わずに済む状況を(手紙を出すことで)作り出し、トリフォン討伐が済んだらすユダヤ攻撃に転ずる意思が最初からあったのかもしれません。書簡はあくまで<邪魔しないでね>というお願いの内容でありました。同盟を求めるものではなかった。邪魔立てしない見返りとして税の免除や債務一切の反故を約束した。側面から攻撃されないようあらかじめ根回しをしたのであります。
 いずれにせよ、このシモンの支援行動がアンティオコス・シデテスの地雷を踏んだことは間違いないでしょう。
 (或いは──と考えてしまう──、ユダヤとローマの同盟がアンティオコス・シデテスになにかしら影響を与える、変身させるところがあったのかもしれません。そんな風に思うてしまうぐらい、ユダヤとローマの同盟の件りはドル攻撃の間に不自然に挿入されたエピソードなのであります。)
 最後に余談ではありますが、アンティオコス・シデテスのドル完全封鎖は、第2次世界大戦に於ける独ソ戦の1つ、名高いレニングラード攻囲戦(1941年09月08日〜1944年01月27日)を想起させました。
 2年4カ月に及ぶ完全封鎖でレニングラードの市民は食糧を絶たれて飢えに苦しみ、赤痢が流行り、絶望状態にありました。それでも市民は耐え抜いた。死者は数10万人とも100万人以上ともいいます。ドルの町はいったいどうだったのでしょうか。
 なお、ショスタコーヴィチ交響曲第7番《レニングラード》の同市初演は、この攻囲戦の最中の出来事でありました(1942年08月09日 世界初演の約5カ月後)。



 聖書の読書を始めて13年になります。その間、殆どの時間を聖書と一緒に過ごしてきました。
 別のいい方をすれば、登場する人物、舞台となる地に親しみを持つようになる、ということ。地図や写真を眺めながら文章を書いていると、否応なくかの地への興味、関心は高まり、実際に足を運んでみたくなるのは誰しもでありましょう。
 「一マカ」再々読ノートやその他聖書や歴史等々の文章を書いていると、パレスティナやエジプト、ギリシアやイタリアへ行ってみたくてたまりません。エルサレムとその界隈、ナザレやベツレヘム、ヨルダン川の東側。アンティオキア、ダマスコ。エジプト、アレキサンドリア、葦の海。スパルタ、コリント、アテネ、キプロス、そうしてローマ。
 仕方ありませんね。こんな風にコミットした読み方をしてくれば舞台となった大地の土を踏んでみたくなるのは、当然ではないでしょうか。
 かつてホームズを読んでベーカー街を夢に見、エミリ・ブロンテを読んでハワースを希求し、ワーズワースを読んで湖水地方に憧れ、プーさんを読んで100エーカーの森のモデルとなった場所へ心遊ばせる。英文学の舞台を訪ねたのと同じように、聖書に関しても、古代オリエントやエジプト、地中海世界について<聖地巡礼>をしてみたい。
 「マカバイ記 一」を読んでいて実はいちばん困ったことは、世情を顧みてどうにか鎮めることの出来ている風来癖がしばしば、頭をもたげてきてしまうたことでした。国内ではありませんから、たといCOVID-19がなくとも、かの地へ行くことは難しいでしょうが、それでもいつの日にかそこを訪れてみたいのです。◆

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