第3250日目1/4 〈マカバイ記 一・第16章:〈ヨハネ、ケンデバイオスを破る〉、〈シモンの最期〉他with「一マカ」読了のご挨拶。コロッケの本、1年前の読書。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第16章です。

 一マカ16:1-10〈ヨハネ、ケンデバイオスを破る〉
 シモンの返答に、アンティオコス7世は激怒した。腹心のケンデバイオスにユダヤ討伐を任せると王は、ドルの町から海上へ脱出したトリフォンを追撃した──そのときのアンティオコス7世にはユダヤよりも王位簒奪者トリフォンを討つことが最大命題だったのである。
 ケンデバイオスはユダヤ領を通過、ペリシテ人の町ヤムニアにて住民の無差別虐殺を実施。そうしてユダヤへ通じる街道を使ってエルサレム侵攻計画を実行に移そうとしていた。
 ……と、ここまでが第15章の終わりの部分。それでは「一マカ」最終章を始めよう。……
 ゲゼルのヨハネはエルサレムのシモンの許へ急行した。かの地に於けるケンデバイオスの所業を知らせるためでだった。話が先になるがこのヨハネが、シモン亡きあとハスモン朝の王となり大祭司職を継承した。ヨハネス・ヒルカノスである。
 シモンはヨハネと、もう1人の息子ユダを呼んだ。そうしてかれらを民の指導者に任命した。ケンデバイオスの悪行からユダヤを守るためである。ヨハネとユダはこの役目を謹んで承けた。
 ヨハネとユダの兄弟は精選した歩兵20,000強と騎兵を率いてエルサレムを出立、モデインを経てケドロンの町がある平野へ向かった。
 すミツパの方を源流とする川の向こうに、ケンデバイオス率いるシリア軍が待ち構えていた。ユダヤ軍は敵の正対する形で陣を敷き、攻撃に備えたが、渡河には躊躇いがあった。そこでヨハネが率先して川を渡った。兵がそれに続く。ラッパが戦場に響き渡った──。
 シリア軍が敗走して、ケドロンを過ぎてアゾトの砦へ逃げこんだ。ヨハネたちの命令で砦に火が放たれた。そのときのシリア兵の死傷者は約2,000と、「一マカ」第16章は記録する。
 ユダが途中負傷する場面こそあったものの、ヨハネたちはぶじ、ユダヤの都へ帰還した。

 一マカ16:11-17〈シモンの最期〉
 アブボスの子プトレマイオスはシモンの娘婿である。エリコの平野の長官に立場に在った。
 シモンはプトレマイオスに暗殺されて世を去った。セレコウス紀177年即ち前134年、第11の月つまりサバトの月である(ニコラス・デ・ラーンジュ『ユダヤ教入門』のユダヤ暦に従えば、「シュバット」)。
 事の次第はこうである、──
 或るときからプトレマイオスは義父シモンを葬って、王朝の実権を握ろうと企んでいた。
 折良くシモンが息子マタティアとユダを伴い国内を廻り、「切迫している諸問題の解決」(一マカ16:14)に奔走していた。これを利用しない手はなかった。警備が普段エルサレムにいるときよりも手薄になること必至だったからだ。おまけに疲労も手伝って、酒も程良く回るだろう。
 案の定、エリコに来たシモンを誘って、プトレマイオス自身が築いた砦ドクにて酒宴を催したのである。ドクはエリコの北西約6キロの場所にある由。好い加減義父と義兄弟が酔っ払った頃、プトレマイオスは部下と共に近附き、シモンとマタティア、ユダ、かれらの部下を残らず殺害したのだった。
 「こうして、プトレマイオスは恐るべき裏切り行為を働き、善に報いるに悪をもってしたのであった。」(一マカ16:17)

 一マカ16:18-24〈ヨハネ、プトレマイオスの陰謀を逃れる〉
 野心を実現するための第一歩を踏み出したプトレマイオスが次にしたのは、事の顛末をアンティオコス7世に報告することだった。かれは王に、援軍の派遣を依頼した。と同時にユダヤ統治の最高責任者に任命してくれるよう嘆願した。
 その一方でゲゼルへ人を遣わし、そこの千人隊長を買収してヨハネ暗殺を依頼した。また、エルサレムと神殿の丘を制圧するため、各所に伝令を派遣して挙兵の準備を着々と進めた。
 が、いつの時代でも情報漏洩というアクシデントはあったようで、このときもヨハネ暗殺の企ては事前に本人の耳に入ったのである。ヨハネは暗殺者を捕らえて逆に殺害した。
 ──やや唐突かつ中途半端ながらここで、著者は「マカバイ記 一」の筆を擱いている。プトレマイオスの反逆がどのような結末を迎えたのか、ヨハネの時代になってハスモン朝がどのような危機に曝され、また如何にして独立を守り続けたか、などの記事が本書で語られることはない。ただ著者は、このように書いてヨハネ時代を統括するのみである。曰く、──
 「ヨハネの行った他の事績、彼の戦い、彼の発揮した数々の武勇、城壁の建設、彼の業績、これらのことは、ヨハネが父を継いで以来の、彼の大祭司職中の年代記に記されている。」(一マカ16:23−24)
──と。
 ここで触れられる「年代記」は現存していない。

 プトレマイオスがシモンを招いて酒宴を催した砦、ドクの位置については、フランシスコ会訳聖書当該箇所の註釈を参考にしました(P1180 註釈6 サン パウロ 2013/02)。
 義父殺害の舞台に選んだのが完全に自分の所有になる砦であった、というのは逆にいえばどれだけプトレマイオスが周到な準備を費やして義父暗殺計画を立案したか、自分がコントロールできる場所で行うことの利をどれだけよく理解していたか、を窺わせる材料になりましょう。
 シモン暗殺。その命を奪ったのは娘婿だった。──シモンの娘の名前や素性は明らかでない。そのプトレマイオスの行状を聖書は、薄ら寒くなるような修辞でこれを評します。曰く、──
 「善に報いるに悪をもってした」(一マカ16:17)
──と。
 その文言がここではどのような意味を帯びるか、というのは各種註釈書や研究書に解説を譲りますが、わたくしはここで、この文言が聖書で描かれる人間模様を説明するキーワードの1つとなることを述べておきたく思います。
 「善に報いるに悪をもってした」とは旧新約続編の別なく聖書に頻出するキーワードです。
 「創世記」ではアダムが神に背き、バベルの塔は神の善に対して善に報いるべきが傲慢が嵩じて塔を高くするという悪をもって倒壊し、ソドムとゴモラは神の愛に報いることなくその背徳と堕落ゆえに滅ぼされた。「サムエル記」ではダビデとソロモンが己の栄華に酔い痴れてか異邦人の女性とまぐわい、或いは部下の妻を寝取って孕ませるなんていう悪を侵し、「列王記」と「歴代誌」では北王国イスラエルの王も南王国ユダの王も主の目に悪と映る行為に耽って善に報いるに悪をもってするを地で行きました。
 それはプトレマイオス朝とセレコウス朝支配下のユダヤでも繰り返された。考えてみれば、「一マカ」にて悪をもって敬虔なるユダヤを震撼させたのはギリシアの流れを汲む王朝の者らでした。就中セレコウス朝の王アンティオコス4世が。旧約聖書の時代から大きく前進してユダヤが、確実にわれらが義務教育や高等教育で習う世界史の領域に関与してきたことを実感させます。ユダヤに対して「悪をもって」する存在が外圧を伴うものであったことを忘れないこと、これが「一マカ」を読み進めてゆく上での最大のポイントではないでしょうか。
 話が脱線しました。「善に報いるに悪をもってした」のは、実は、新約聖書の時代になってもよくあるお話でした。ユダヤ教のなかでだけのこともあれば、ローマが関与してくることもある。然り、状況に変化はなかったのです。人間の心も畏怖も敬愛も、それ程の進歩はしていない。
 福音書で、イエスの奇跡を目の当たりにしたり治癒にあやかった者も最後にはイエスの死刑を支持し、12使徒は最後の最後でイエスを裏切った。「使徒言行録」ではパウロが、サウロ時代にユダヤ教イエス派の信徒を迫害して止まなかったことを記録している。最初の殉教者ステファノの石打ち刑の場面にも、サウロはいた。
 ……殊程斯様に聖書には<善に報いるに悪を以てした>人々があとからあとから登場して、懲りることなく飽きることなく罪を重ねてゆきました。これも聖書の通奏低音の1つといえましょうか。……穿ちすぎ? 考えすぎ? 的外れている? 特段そうは思わないのですが……。

 一マカ16:22以後のヨハネ時代については『イエス・キリスト時代のユダヤ民族史』第1巻P281-301他に詳しく載る。「セレコウス王朝はその後も弱体化する一方であり、紀元前63年のポンペイウスの侵攻にいたるまでの間ハスモン家の勢力拡大を妨げる存在は消滅した。ヒルカノス1世(在位前一三四〜一〇四年)は傭兵を使ってトランスヨルダンやイドゥメアを征服」した、と述べるのは小川英雄/山本由美子『世界の歴史 4 オリエント社会の発展』(P220 中央公論新社 1997/07)である。
 また、南王国ユダ滅亡以来数百年ぶり(王都エルサレム陥落/南王国ユダ滅亡;前587年〜「イスラエルは異邦人の軛から解放された」;セレコウス紀170年即ち前143年)に地上へ出現したユダヤ人独立国家、ハスモン朝の歴史とその終焉については、ジークフリート・ヘルマン&ヴァルター・クライバー『よくわかるイスラエル史 アブラハムからバル・コクバまで』(教文館 2003/02)で概略の知識を得ることが出来る。
 ──マタティアとその子孫による民族独立紛争はモデインでの決起に始まり、モデイン近郊でのシリア軍との戦闘を最後に終わった。これは歴史の偶然か、記事執筆上の作為か。不明である。どこまでわたくしの疑問に答えてくれるか分からないけれど、やはり、ヨセフスの著作──『ユダヤ古代誌』と『ユダヤ戦記』を手に入れる必要があるなぁ。元版となる山本書店版とちくま学芸文庫版、どちらが所有して使ってゆくのに至便だろう、役に立ってくれるだろう?



 さて、これで宿願の1つであった「マカバイ記 一」の再々読とそのノートが終了した。記録を見ると、今回最初に着手したのは、11月16日であった。それから毎日1章の原則で「一マカ」の要約ノートを執り、疑問点や気附いた点、注意点を書きこんで感想の土台とした。これが終わったのは、12月05日であった。
 どうにか予定通り12月09日から本ブログでの再々公開をスタートさせて、遂に今日、12月21日23時44分に本文の改訂を、翌22日00時10分に感想の執筆と改訂を終わらせた。いまこの文章を書いているのは22日00時18分である。仕事している時間を除けば殆どの時間を、この再々読ノートに費やしていたように思う。機械的に仕事することのなんと重要な教えであることか。
 この度本当に久しぶりに聖書へがっつり取り組んで、加えてオリエントと地中海世界の歴史にどっぷり浸かッたことがどれだけ作用したかわからないけれど、聖書やユダヤ教/キリスト教、オリエント地方の習俗やローマを始めとする地中海世界の政治体制や歴史など今後書いてみたい、と思う話題が幾つも生まれたことは、偏にこのタイミングでの「一マカ」再々読という作業があったからである。これは本当にありがたいことであった。
 このような形で聖書読書ノートブログが(唐突に)復活するのは、しばらく先のことだ。とはいえ既に来年2月メドの「エズラ記(ラテン語)」再読を宣言してしまっているから、それまではしばらくの間、日常や読書のエッセイが飽きることなく書きつづけられてゆくことだろう。

 読書といえばこの前、コロッケの『母さんの「あおいくま」』(新潮文庫 2012/12)を読んだ。すごく心に、ぐっ、と来た。お母さんは立派である。「あおいくま」の教えにはポロリと涙がこぼれそうでしたよ。
 この本を読んで初めて知ったのだが、コロッケも真珠腫性中耳炎に罹って聞こえが悪くなっていた、という。中2のときだそうだ。わたくしと同じ症状である。右耳というのも同じだ。他人とは思えぬのである。
 もう1つ、読書といえば今年から読書の抜き書きノートを作り始めた。まだ1冊目というお恥ずかしい為体だが、01月02日に初めて書いたのは池上彰と佐藤優の『知的再武装60のヒント』(文春新書 2020/03)だった。ノートの残りはあと8ページ。藤沢周平『一茶』から……と考えたのだが、ふとした拍子に手にした新書、池上彰と竹内政明『書く力』(朝日新書 2017/01)にあちこち折り目があって、書き込みがあるのも発見した。
 これの抜き書きでノートの残りを埋めたいのだが、読み返すと前回よりページの端っこを折るのが多くなり、付箋を貼りまくる結果となった。これはちょっと膨大な量である。どうにかして残りのページにまとめあげたいが、うーん、白紙の紙を何枚か貼り足す必要がありそうだなぁ。
 なお、これを読み終えたのは昨年12月25日であった。「どうしてこんな日に……?」と扉に書いてある。このあと、前掲『知的再武装60のヒント』を読むことになるのだな。
 ──とまれ、本日にて「一マカ」再々読終了。読者諸兄よ、お読みいただきありがとうございました。あなた方に幸い事あらんことを。サンキー・サイ。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。