第3364日目 〈エズラ記(ラテン語)第10章2/2-第12章;〈鷲の幻〉他with趣味の怪談読み。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第10章2/2、第11章、第12章、「第五の幻」です。

 エズ・ラ10:60-12:3 1/2〈鷲の幻〉
 2日目の夜である。こんな夢を見た、──
 1羽の荒鷲が海から昇ってきて、瞬く間に全地をその翼の支配下に置いた。鷲には頭が3つあって微動だにせず、うち真ん中の頭は他にくらべて一際大きかったのである。また、羽の生えた翼が12,あった。その鷲が翼の下に全地を支配したのである。
 「わたしは、天の下のものすべてが、鷲に従っている有様を見た。だれも、地上にある被造物のうち一つとしてこれに逆らうものがなかった。」(エズ・ラ11:6)
 見ていると、右側から順番に羽が起きあがってきて、それぞれ全地を支配していった。1つの羽が消え失せるとすぐに次の羽が起きあがり、次々に地上の主権を行使していった。12枚の羽が消えたらば、羽と羽の間に生えた小さな逆毛の、8枚の羽がそれに代わった。しかし、その主権は長くは続かなかった。
 真ん中の一際大きな頭が、そのとき動いた。この頭は全地を制圧し、地上の人々を蹂躙したのである。が、その頭もやがて消え失せてしまい、残った頭のうち左側は右側に喰われてしまったので、地上の支配は右側にあった頭が担った──。
 そのとき、私に話しかける声がした。目の前のものをよく見、見えるものについてよく考えよ。声はそういった。私はそうした。
 すると、森のなかから1頭の獅子が現れて、中空の鷲へ咆吼して、いった。曰く、──
 「いと高き方はお前にこう言われる。『お前は、わたしが世を支配させ、わたしの時の終わりを来させるために造った四つの獣の生き残りではないか』と。お前は四番目にやって来て、それまでの獣をすべて征服し、権力を振るって世を大いに震え上がらせ、全世界をひどく苦しめ、またこれほど長い間、世に住み着いて欺いた。お前は地を裁いたが、真理によってではなかった。お前は柔和な人を苦しめ、黙している人を傷つけ、真実を語る人を憎み、うそつきを愛し、栄える者の住居を壊し、お前に何の害も及ぼさなかった人の城壁を打ち倒した。お前の非道はいと高き方に、お前の傲慢は力ある者に達した。そこでいと高き方は、御自分の定めた時を顧みられた。すると、時は終わり、世は完了していた。それゆえ、鷲よ、お前は消えうせるのだ。」(エズ・ラ11:38-45)
 お前が消え失せたらば全地は解放されて力を取り戻し、裁きと憐れみを待つことができるようになるだろう。
──と。
 見ていると、残っていた頭は消え、2枚の翼が全地を支配した。短い期間ではあったものの争乱はその間も絶えなかった。しかしやがてその翼も消えた。鷲の体全体が燃え、地はその光景に恐れ戦いた。
──そんな夢を、見た。

 エズ・ラ12:4 2/2-12:40 1/2〈幻の説明〉
 私はいと高き方へ祈った。
 私の祈りを聞いて主が、いった。曰く、──
 いまあなたが見たのは、かつてダニエルの幻に現れた第4の帝国である。ダニエルのときよりもいまの方がよりはっきりと幻は具体化している。
 翼に生えた12枚の羽根と8枚の逆毛の羽根、3つの頭がそれぞれ代わって地上の支配者となって君臨する。併せていっておくと、あの3つの頭こそが「不敬虔を繰り返し、世の終末をもたらすものである。」(エズ・ラ12:25)
 森のなかから現れた獅子について話そう。「この獅子とは、いと高き方が王たちとその不敬虔のために、終わりまで取って置かれたメシアである。彼は、王たちの不正を論証し、王たちの前に、その侮辱に満ちた行いを指摘する。
 メシアはまず、彼らを生きたまま裁きの座に立たせ、彼らの非を論証してから滅ぼす。彼は、残ったわたしの民を憐れみをもって解放する。彼らはわたしの領土で救われた者であり、メシアは終末、すなわち、裁きの日が来るまで、彼らに喜びを味わわせるであろう。」(エズ・ラ12:32-34)
 この秘密を知るに相応しいものはあなたのみ、あなた独りだけ。為、あなたはいま見たことを本に書き留め、誰もわからない場所に隠しなさい。必要あらばそれを、求める人へ教えなさい。
 あなたはあと7日間、この野原へ留まるように。あなたに示そうと考えることをそのとき、あなたに示そう。
──と、主はいった。

 エズ・ラ12:12:40 2/2-12:51〈結び〉
 ……都に帰らぬのを心配した人々が野原へやって来た。かれらは、どうして都を離れたままでいるのか、われらを見棄てるおつもりか、あなたなしでわれらはどう生きてゆけばいいのか、と口々に嘆くのであった。あなたに見棄てられるぐらいなら、シオンの大火に巻きこまれて死んだ方がマシだった、という人までいた。
 私はかれらを諫めて、こういった。曰く、──
 「イスラエルよ、信頼しなさい。ヤコブの家よ、悲しんではならない。いと高き方はあなたたちのことを覚え、力ある方は戦いの中にあるあなたたちを忘れられることはないのだ。わたしは、あなたたちを見捨てたわけでもなく、あなたたちから離れたわけでもない。わたしがここに来たのは、シオンの荒廃の赦しを願い、また、あなたたちの聖所がさげすまれたことへの憐れみを求めるためなのです。」(エズ・ラ12:46-48)
──と。だからいまは都に帰りなさい、私もじきに帰るから。
 そうしてかれらは都へ帰った。私はなお7日間、そこに留まり、野の花を食べて過ごした。

 「鷲」は本文中にもあるように、既に「ダニエル書」で啓示された幻でもあります。当該箇所の冒頭に曰く、「この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった」(ダニ7:7)と。
 但し、その「鷲」が象徴する帝国が異なる。「ダニエル書」では啓示の最後に登場した第4の獣、即ちユダヤを脅かす第4の帝国は、シリア、とも考えられましたが、本書ではそれがローマに、正式に取って代わる。「ダニエル書」はセレコウス朝シリアの台頭、就中アンティオコス・エピファネスの登場を予期して終わった。一方、本書「エズラ記(ラテン語)」はその成立を西暦100年前後とし(エズ・ラ3:1「都の陥落後三十年目のこと、わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた。」)、当然のことながらそこで槍玉にあがる、もとい、暗喩される帝国も、時代の推移に従って変化した。即ち、成立当時ユダヤを統治していた帝政ローマがそれだ。
 時代が移って列強国の興亡が明らかとなってシリアは滅び、これまで以上の脅威として帝政ローマがイスラエル(ローマと信仰を異にするユダヤ人共同体)の前に立ちはだかった、その脅威はこれまでのなににも優るものとイスラエルには映った、というのがシリアからローアヘ上書きされた経緯であったでありましょう。
 その鷲について、描写が細かくなされます。幻ですからその形は或る程度荒唐無稽でも構わないのですが、こんな描写を読んでいると、久しぶりに黙示文学を読んでいるなぁ、と実感もするところであります。まァ、読みながらふとした拍子に、「鷲」が「キングギドラ」に脳内映像変換されて困りもしましたが。
 この鷲の、翼も羽も頭も皆すべて、アウグストゥス以下のローマ皇帝12人を指しますが、どれが誰、と照らし合わせてゆく紙幅はありませんので割愛します。3つの頭と大きな翼……。
 ただ、エズ・ラ11:13b-17がアウグストゥス帝のことであり、この初代皇帝は前39-後14年まで、実に半世紀以上にわたって共和政から帝政へ移行したローマを指揮した人物でありました(※1)。そうしてエズ・ラ11:20-21はネロ皇帝自殺後のローマ内戦(事実上の後継者争い)を、同29「じっとしていた頭のうちの一つで、真ん中のものが目を覚ました。これは他の二つよりも大きかった」は66-70年、ユダヤとローマの間で勃発した第1次ユダヤ戦争の指揮官を務めて後に第9代皇帝となったウェスパシアヌスのことを語っている。これをまずは抑えておけばじゅうぶん、と考えます。第一次ユダヤ戦争については追々、筆を新しく執ることもあるでしょう。
 ただ1つだけ疑問なのは、此度のテキストに用い、かつ同時に参考ともした『スタディ版』P535皇帝一覧にユリウス・カエサルの名があり、これを初代皇帝の如くに記述している点でありました。これについてはなんの註釈も説明書きもありません。不審であります。なお、これに関して質問のメールを投げておりますが、現時点で何の回答もないことを書き添えておきます。
 本章で他、特記しておきたいのは、エズ・ラ12:8-9に於いてサラティエル(エズラ)がようやくここで、自分がいと高き方(イスラエルの神)により、その御前に立つことが許されている人物なのであることに納得し、それゆえなのでもありましょう、かれがこのあとで呼びかけるのはもはや天使ではなく主なる神となる(※2)。これを自覚、と申さずになんといいましょう。ずっと読書を続けていると、こうした些細な変化に一喜一憂するのであります。

※1 そして次の羽が起き上がって支配し、その時代は長く続いた。しかしこの羽も支配しているうちに終わりが来て、前の羽と同様に姿を消そうとしていた。すると、見よ、声が聞こえてきて、その羽に言った。「長い間地を支配していた羽よ、聞くがよい。お前が消えうせる前に、言っておくことがある。お前の後だれも、お前ほど長い間、いや、その半分すらも支配する者はいないだろう。」
※2 あなたの僕であるわたしに、この恐ろしい幻のはっきりとした解き明かしをして、わたしの魂を十分に慰めてください。あなたはわたしを、時の終わりと終末のことを示すのに、ふさわしい者と見なしてくださったからです。



 読書嗜好の針が右から左へ、左から右へ、極端に振り切れるときがある。集中して読むことに倦いたらまるで正反対の読み物へ手を出すのは自然であろうか。他人の、そのあたりの事情を知らないからなんともいえないけれど、少なくともわたくしにはそういうことがしばしばある。
 藤沢周平から忠臣蔵は自然な流れで、聖書から流れて遠藤周作の本を寝しなに読むのもゆめ不思議なことではない。そうした読書が続くと、浮気のように別ジャンルの作物へ手を伸ばしたくなるのだ……気分転換、といえば聞こえは良いけれど。
 最近は──そう、怪談ばかりですな。通勤時の吉川英治を除けば。遠藤は最後の数ページがなかなか読めない。腰を据えて読むべき部分であるからだ。その代わりのように寝しなの読書、隙間時間の読書には、むかしのように怪談ばかり読んでいる。実話、創作、どちらも拒まず。
 先達て『猫のまぼろし、猫のまどわし』に触れたけれど、これが奥方様の目に留まるところにあったのは最近書架の中身を(一部)入れ替えたせいである。隣には『屍衣の花嫁』と『亡者会』があったはず。『文豪怪談実話』や『ゴシック名作選』、綺堂の『世界怪談名作集』もあったはずだ。多くが書架の奥から引っ張り出してきたものである。
 怪談はね、わたくしにはホームだ。聖書を読んでいようがローマ帝国史に溺れていようが、時代小説へ熱中していようと柏木如亭はじめ江戸時代の漢詩人を摘まみ読みしていようと、怪談──こわい話、気味の悪い話、ゾッとする話はわが好物、嗜好のいちばん根っこにある。つまり、義務とか世過ぎの一助ではない、趣味で読む以外の何物でもないわけだ。
 むかし読んでずっと今日まで途切れることなく継続された趣味の読書の根幹を成すのが、怪談なのだった。◆

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