第3365日目 〈エズラ記(ラテン語)第13章;〈海から昇る人〉、〈幻の説明〉他with夢野久作「悪魔祈祷書」が最初だった。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第13章、「第六の幻」です。

 「第六の幻」
 エズ・ラ13:1-13〈海から昇る人〉
 7日目の夜であった。私はこんな夢を見た、──
 嵐によって海は荒れている。その海のなかから、天の霊と共に人が現れた。かれに見つめられた者は皆、震えあがった。かれの声を聞いた者は皆、蠟のように熔けた。
 多くの者が習合してかれに戦いを挑んだ。かれは武器も武具も持たずにかれらを撃破した。口からは火の流れのようなものを、唇からは炎の息を、舌からは稲妻の嵐を発した。それは混じりあって、かれに戦いを挑んだ者は皆、焼き滅ぼされた。灰の粉と煙の匂いだけがあとに残った。
 そのあと、様々な表情を面に浮かべた人々が、かれの許へやって来た。山から降りてきたかれが、その人たち平和な群衆を招いたのである。
 私はそら恐ろしくなって、いと高き方に祈った。曰く、──

 エズ・ラ13:14-56〈幻の説明〉
 私が倩思うに、その日まで残された人々は不孝だが、残されなかった人々はもっと不孝なのではあるまいか、と。
 「残されなかった人々は、終わりの日に備えられているものを知りながら、それに達しえないと分かって悲しみを味わうからです。しかし残された人々も、不幸なのです。というのも、この夢が示しているように、大きな危険と多くの苦しみに遭うのですから。それでも、雲のようにこの世から去って行き、終わりの日に起こることを見ないよりは、危険に遭いながらも、終わりの日に至る方が、まだましです。」(エズ・ラ13:17-20)
 これを聞いて主が、幻の解き明かしの前に私の疑問に答えてくれた。曰く、「 その時に危険をもたらす方こそ、危険に陥る人々を守り、彼らは全能者のために働き、信仰を保つ者となるだろう。だから、死んだ人々より、残された人々の方が、はるかに幸せであることを知るがよい。」(エズ・ラ13:23-24)と。
 続けて主が幻の解き証しをしてくれた。
 海のなかから天の霊と共に現れた人とは即ち、<このとき>まで取っておかれたわたしの子である。かれは、メシア、と呼ばれる。わが子はシオンの山の頂に立つ。多くの、悪しき民が徒党を組んでわが子に立ち向かうが、却って不敬虔を立証され(口からの火の流れ)、邪な思いや企ては咎められ懲らしめを与えられ(唇からの炎の息)、律法によって難なく滅ぼされてしまう(舌からの稲妻の嵐)ばかりだ。
 そのあと、様々な表情を面に浮かべた人々が、わが子の許へやって来た。かれらはアッシリアによって散らされた9の部族と半部族である。かれらは捕囚の地から離れて(「多くの異邦の民を離れて」エズ・ラ13:41」)、「人がまだだれも住んだことのないほかの地方に行こうと決心した。彼らは、それまでいた地方では守ることのできなかった掟を、そこで守りたかったのである。」(エズ・ラ13:41-42)
 かれらがユーフラテス川の向こうへ渡るとき、また渡河してこちらの岸へ戻ってくるとき、川の流れは堰き止められた。平和な群衆とは即ち、かれらのことである。
 あなたの民のなかで残された者とこの平和な群衆はやがて1つの場所に集まり、わが子によって守られる。
 ……主は、そういった。
 私は主なる神に尋ねた。
 どうして私は、海のなかから登ってきたあなたの子を見ることができたのでしょう。
 主が答えた。
 海の深いところになにがあるのか、なにが隠されているのか、誰も知ることはできない。地上の誰であろうと、海のなかのわが子と、それに付き従う者たちの姿を見ることもできない。
 しかし、聞け。これはあなたにだけ示されたのである。というのも、──
 「あなたは、自分のことを捨てて、わたしのことに専念し、わたしの律法を追い求めたからである。あなたは、自分の人生を知恵に従って整え、あなたの知性を母と呼んだ。それゆえ、わたしは、いと高き方からの報いとしてこのことを示したのである。」(エズ・ラ13:54-56)
 3日後、わたしはあなたに大切な、驚くべきことを語ろう。それが最後の、第七の幻となる。ここに留まっていよ。

 エズ・ラ13:57-58〈結び〉
 ──私はそうした。時と、時のなかで起こることすべてを支配するいと高き方を誉め讃えながら3日間、そこに留まった。

 引っ掛かるところがございます。引用した、エズ・ラ13:17-20とエズ・ラ13:23-24であります。要約すれば、残された者は不孝、残されなかった者はもっと不孝、ということ。些かなりとも引っ掛かりを覚えてしまうのです。
 では、その時(終わりの火)に偶々生きていた人々にだけ、主のいう「守り」が為されるのか。ならば寿命が尽きて疾うのむかしにこの世を去り、<その時>に出合うことができなかった人々、或いは偶然にもその直前に世を去った人々は、<その時>に居合わせること叶わなかったがゆえに守られない、その恩恵に浴すことができない、救われない、招かれない、という意味になりはしないか。
 それともそうした人々──の魂──はすべて、「陰府の部屋の中」(エズ・ラ7:95)で待機しているから特に問題ありません、ちゃんと守られるので安心してくださいね、というのか?
 いと高き方の側からすれば至極当然な、良いことを語っている、道理に則った発言でもあるのだろうが、いま一つ納得できるものではありません。首肯できぬ、腑に落ちぬ、そんな思いを抱いて読み終わる。
 さて、メシアの許に、アッシリアによって散らされたイスラエルの9部族と半部族が、集まってきたとありました。スタディ版脚注に拠るとこの失われた9の部族と半部族の伝説は、「エズラ記(ラテン語)」のこの箇所でのみ触れられており、他にこれを伝えるものはない由。
 なお、旧北王国に住まっていた氏族名を、煩を厭わずあげれば、ルベン族、シメオン族、イサカル族、ゼブルン族、マナセ族(半)、エフライム族、ダン族、アシェル族、ガド族、ナフタリ族、以上10部族。ユダ族とベニヤミン族は南王国ユダを構成する氏族であります。レビ族がないのは、元々かれらは嗣業の地を与えられず、南北の各地に散って祭祀を司る役目を担ったためでありました。
 引用はしませんでしたが、エズ・ラ13:40にはこんな文章があります。曰く、「これはかの九つの部族のことである。彼らははかつてヨシヤ王の時代に、捕囚となって祖国から連れ去られた民である」と。
 古代オリエント史文献や旧約聖書「列王記・下」、「歴代誌・下」の当該箇所を開くと、史実から外れた文章であることがすぐに確認できる。南王国ヨシヤ王の御代、既に北王国は滅亡しているのです。そのため、どうして「第4エズラ記」の著者が斯様な書き方をしたのか、どんな思惑や企図があって「ヨシヤ王の時代に」云々なる文言を綴ったのか、まるで不明であります。
 ただ、この消えた北王国の部族は今日に至るまで追跡調査されている問題でありまして、民間の調査機関に籍を置いた人による調査報告も1冊の本となり、また翻訳もされて読めるようになっております(ラビ・エリヤフ・アビハイル/鵬一輝・訳『失われたイスラエル10部族 知られざるユダヤの特務機関「アミシャーブ」の調査報告』学研 2005/08)。
 搔い摘まんで申せば、過半はシリアやインド、エジプトなど周辺地域に散らばったようですが、一部はそのまま東に進んで当時はまだ民族混成国家であった日本や、或いは中国に土着した人もあったろう、ということであります。
 こちらの勉強はまったくというてよい程着手できておりませんので、聖書再読や日々の徒然を綴る合間を縫って該書を読んだりしてみる考えでおります。



 たまには聖書にまつわるエッセイを、ここに書こうと思う。が、例によってネタがない。マダイはあるがワダイがない、という奴だ。
 それはさておき(ムリヤリ!!)、そういえば夢野久作に「悪魔祈祷書」という短編がある。古書店主が語る、聖書に見せかけた悪魔崇拝書にまつわる因縁譚だ(ぷぷ)。夢野久作初体験がこれだったのは、椎名誠・編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫 1983/09)に収められていたから。
 ネタばらしは出来ないが、これが抜群の雰囲気を持った作品で、古書店主が語る祈祷書も描写が実に現実的で、もしかすると実物を手許に置いて書いているのでは、と疑うてしまう程なのだ。それに翻弄される客人の心理描写やオチも含めて、古書ミステリの雄編として、<書痴の楽園>物として、古今に比肩するもの極めて少なし、と担がれて宜しかろう一編というてよいと思う。
 だが、どうにも困ったことに、初めて読んだということも手伝ってか、どうも本作に限っては久作の作品集で読むよりも件のアンソロジーで読む方がしっくりするのである。そういえばこの文庫、見当たらないな。売っちゃったのかな……。◆

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