第3366日目 〈エズラ記(ラテン語)第14章;〈序文〉、〈啓示の記録について〉with生前の誹り、死後の誉れはわが本懐。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第14章、「第七の幻」です。

 第七の幻
 エズ・ラ14:1-17〈序文〉
 3日が経った。灌木の茂みで炎が燃え盛っている。そのなかから私を呼ばわる声がした。はい、私はここにおります。そう返事した。
 主がいった。曰く、──
 私はかつてモーセに民のための戒めとふしぎな御業と、時の終わりと時の秘密を明かした。その際、公にして構わぬ言葉と秘匿しておくべき言葉を分けて与えた。モーセは民に別れを告げるとき、公にして構わぬ言葉(のみ)をかれらへ伝えた。
 あなたも、あなたが見た夢、幻とその説きあかしを心へ留めておくように。わたしが示すことを書き留め、或るものは公にし、或るものは限られた相手にのみ読ませるように。
 あなたは人々のなかからひときわ高くあげられる。時の終わりまで、あなたと同じように民のなかから一段高くあげられた人々と、わたしの子と、一緒に暮らす。
 「世は既に若さを失い、時は老年期に近づいている。この世は十二の時期に分かれ、既に九つの時期と、更に第十の時期の半分が過ぎている。残っているのは、第十の時期の半分と、あと二つの時期だけである。
 だから今、あなたの家を整え、あなたの民を戒めなさい。卑しめられている人々を慰め、既に腐り切った生活を返上しなさい。はかない考えを追い払い、人間的な重荷を捨て、弱い本性を脱ぎ捨てなさい。そして、あなたにとって何とも煩わしい思いを打ち捨て、急いでこの時代から逃げ出しなさい。
 あなたは今、いろいろな災いが起こるのを見たが、これよりももっと悪いことが起こるだろう。この世が年老いて弱くなればなるほど、世に住む人々の上に悪が増し加わる。真理はますます遠ざかり、偽りが近づいている。」(エズ・ラ14:10-17)
 というのも、幻のなかに現れたあの鷲がものすごい速度と勢いで近附きつつあるからだ。
──と。

 エズ・ラ14:18-47〈啓示の記録について〉
 私は、民をかならずや諫めよう、と約束した。だが、しかし、──
 しかし、後の世に来る人々には誰がその諫め役を担うのでしょう。この世は暗闇のなかにあります。人々には光がありません。世の始まりから以後のことも、様々な機会に為されたあなたの御業のことも、律法が焼かれて灰となってしまった以上知る人は1人としていないのです。
 もし許されるならば、私のなかに聖なる霊を送りこんでください──世の始まりから以後に起きたすべてのことと、あなたの律法に記されていたすべてのことを書き留めますから。「そうすることによって、人々は道を見いだすことができ、生命を望む人は終わりの時に生きるのです。」(エズ・ラ14:22)
 主がいった。
 5人の筆記者(速記者)を募って再たここに来よ。そのときあなたに聖なる霊を与える。自分の語ることすべてをかれらに書き留めさせよ。そうやって成った記録は、或るものは公にして、或るものは限られた相手にのみ読ませるように。
 40日の間、何人と雖もここへ近附くことまかりならぬ。行って、かれらにそういえ。
 そう主がいったので、私はそれに従い、行って民に語りかけた。
 イスラエルよ、われらの祖先はエジプトを脱出して、モーセを介して律法を授けられた。が、祖先も、いまを生きるわれらもこれに背き、道を守ろうとしなかった。主なる神は公正な裁判官なるがゆえ、時が来るとイスラエルを敵の手に渡した。
 しかし、「あなたたちは今、ここにいる。そしてあなたたちの兄弟は、あなたたちの内にいる。」(エズ・ラ14:33)
 知性を制御して心を培うならば、生きている間は守られ、死して後には憐れみが与えられるだろう。裁きの時が来たらば、正しい人々の名が明らかとなり、不敬虔な連衆の行いが露わになる。
 イスラエルよ、あなた方にお願いする。これからの40日間、私を訪ねてくることも、私がいる所を覗うことも厳禁である。私が連れてゆくかれらの様子を見に来たり、言伝を渡しに来ることも同様である。
 そう、私はいった。
 5人の筆記者を連れて、私は野原へ戻った。翌る日、私を呼ばわる主の声がした。はい、主よ、私はここにおります。そう返事した、
 主がいった。
 口を開けて、わたしが飲ませるものを飲みなさい。
 私はそれを見た。水のようだが、色は炎に似る。飲むと、心に悟りが満ち、胸は知恵で漲った。世の始まりからの森羅万象の記憶が宿った。また、5人の筆記者たちの心にも悟りが満ちた。
 私の口は疲れることなく淀みなく、世の始まりからの森羅万象を途切れることなく語った。筆記者たちは疲れた様子を見せることなく、語る端からそれを書き留めてゆく。自分たちが知らない言葉で、それを書き留めたのである。
 かれらは、昼は書いて、夜は休んだ。私は昼も夜も語り通した。そうして94巻から成る記録が完成した。
 主がいった。内24巻を聖書として公にし、ふさわしい人にもふさわしくない者にも読んで聞かせなさい。が、残る70巻については隠しておいて、民のなかでも敬虔で知恵ある人にのみこれを開示し、回覧し、渡すように。
 「これらの書物の中には、悟りの源と知恵の泉と知識の川があるからである」(エズ・ラ14:47)と、主がいった。
 私はいわれた通りのことを実行した。
 ──
 エズ・ラ14:48-50 オリエント語諸訳
 「創造の五千年後第六週の第七年に、三月と十二日。それからエズラは、すべてこれらの事どもを書き終えた後、彼と同じような人々のもとへと取り去られ連れ上られた。彼はとこしえに、いと高き方の知識の書記と呼ばれている。」

 感想
 「幻」とはいいつつ実際は、語り手エズラ/サラティエルがこれまで視た幻の記録の指示、記録の閲覧制限の指示、の2つを柱とする。それは、聖書の構築、を意味しましょう。ではなぜ、ここで主なる神は──紀元1世紀前後のユダヤ教徒に対して、聖書の記録を命じるのか。
 そこには本書が執筆された時代の雰囲気を濃く反映している、と考えます。「第4エズラ記」が書かれたとされるのは、紀元1世紀前後のことでした。つまり、第一次ユダヤ戦争がユダヤ側の敗戦に終わってまだその余韻が、記憶が、人々のなかに残っていた時期であります。
 第二神殿は焼け落ちていました。エルサレムはローマ軍に占領されていました。ユダヤ人はエルサレムを離れて各地に離散していました。なぜ神は自分の民が苦しんでいるのになにもしようとしないのか、とユダヤ教徒の誰もが(なんなら原始キリスト教団の誰彼も)疑問を抱いていました。そういう時代だったのです。
 本章で主が、エズラ/サラティエルを聖なる霊で満たして世の始まりからの森羅万象を記録させたのか。いい換えれば、第一次ユダヤ戦争によってユダヤ人の遺産というべき聖書が、律法が消失して誰も、読みたくても読めない状況が生まれていたことを、本章は図らずも暗に語っているようであります。
 主に命じられた聖書/律法の再構築作業は、逆にいえば、(旧約)聖書の構成書物の制定に大きな一歩を刻んだ作業でもあったように思われてくるのです。
 この時点ではまだ(旧約)聖書の構成書物が決定したわけではない──最終的に94巻の書物が成り、内24巻は誰にでも公開可能、残り70巻には閲覧制限を設ける、とは収載書目の未決定状態をいい換えているに他ならないでしょう。
 では、24巻が聖書であるならば、残り70巻はどのような受け取られ方になるか。旧約聖書外典、偽典、として知られる書物がこれに相当する、と考えられます。「語られざるもの」という位置附けになりましょう。
 『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』P538のコラム「ユダヤ教の正典と非正典」もこれを、ユダヤ人が伝統的に受け継いできた正典以外の書物、即ち旧約聖書外典/偽典にカテゴライズされる書物が、この70巻には含まれるのでは、としております。
 ただ留意すべきは、語り手は昼も夜も語ったけれど、書き手は昼書いて夜休んだ、なる件。最初に読んだ際も疑問に感じたところではありますが、書き手は皆斯様なスケジュールで行動したのか、交代制で語り手の語ることを書き留めたのか。後者であれば、語り手が語ったことは94巻に収まったことになりますし、前者であれば最終的に94巻となったけれど実際はそれ以上の分量が語り手の口から語られたことになりましょう──つまり、書き漏らした内容が相当にあった可能性がある、ということであります。
 然様、主の与えた聖なる霊は、語り手のみならず筆記者5人のなかにも満ちた。それゆえにかれらは自分たちが知らない言葉で記録することができた。語り手の語ることを諸国の言葉に置き換えて書いたのか、まさかとは思いますが語り手が1つのことを複数の言語で書き留めたのか、それはともかくとして、筆記者たちはそれぞれ自分たちには未知の言語、精通していない言語でそれを書き取った。それが何語であったのか、いまの研究はそのあたりをどのように説明しているのか寡聞にして存じませんが、ただこの場面を読んでいて「使徒言行録」のペスタコンテ、聖霊降臨の場面(使2:1-4)を想起させられたことをお伝えしても、一笑に付されることはないと思うのであります。
 最後に脱落部分として紹介した引用について、お話をさせてください。脱落とは正解から離れた語でありますが……。
 今日まで読んできたラテン語で訳された「エズラ記」が所謂「エズラ記(ラテン語)」ですが、これにはシリア語やエチオピア語、アラビア語、アルメニア語など「オリエント語諸訳」と一括して称されるものがあります。
 どうしてそうなったかは不明ですがそのオリエント語諸訳は「エズラ記(ラテン語)」第14章にはない第48-50節が存在する。そのくだりは「エズラ記(ラテン語)」を〆括るに相応しいのみならず、エズ・ラ14:9「あなたは人々の中から挙げられて、わたしの子と、あなたのような人々と共に、時が終わるまで暮らす」や、主なる神に認められた存在であることを願い、そうしてそれが受け入れられたことの回答になっているように読めるのです(エズ・ラ6:31-32、12:9,14:22)。この3節の有無で「第4エズラ記」の読後感や印象は大きく変わるように思えます。
 なお、上述の引用は、榊原康夫『旧約聖書続編を読む』(P302 聖恵授産所出版部 1999/04)より行いました。
 本章を以て「第4エズラ記」は終わります。明日と明後日はキリスト教文書化の際の付加部分、「第6エズラ記」になります。



 さる事あり、覚悟を固めた。わたくしは悪漢に身をやつして裏切り者の汚名を着よう。ヒトデナシになり、ロクデナシを演じよう。それがすべてを守るためゆえに。宣戦布告。「生前の誹り、死後の誉れ」はわが本懐なり。◆

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