第3367日目 〈エズラ記(ラテン語)第15章:〈近づく災難〉、〈恐るべき幻〉&〈アジアに対して〉with悪党との縁切りなった歓喜の日に綴る希望と栄光の歌。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記第15章、「付録の諸預言」1/2、「第6エズラ記」の最初です。

 「付録の諸預言」1/2
 エズ・ラ15:1-28〈近づく災難〉
 主がいった。
 わたしが送りこんだ預言の言葉を民へ伝えなさい。その言葉を記録させなさい。預言の言葉は真実で、信頼できるものだから。
 これからあなたは多くの、あなたをよく思わぬ衆から嫌がらせをされ、誹謗中傷を受け、痛めつけられるだろう。が、恐れるな。揺らぐな。かれらは不敬虔ゆえに滅びる。盗人を赦さない。仲間外れを赦さない。嘘つきを赦さない。わたしは、断じて連衆を赦さない。ゆえに滅ぼす、かならず。
 わたしはかれらを赦さない。談じて、赦したりはしない。かれらの不正は既に行き着くところまで来ているから。「彼らが行う不敬虔に対して、わたしはもう黙ってはいない。わたしは、彼らの不正なふるまいを忍耐しないだろう。見よ、潔白で正しい者の血が、わたしに向かって叫んでいる。正しい人々の魂が、絶え間なく叫び続けている。」(エズ・ラ15:8)
 自分の民が捕囚の地、使役させられる地にいるのを、わたしはもう見ていられない。為に、「わたしは確かに不敬虔な者たちに報復しよう。そして彼らの中のすべての潔白な人々の血を、わたしのところに受け入れよう。」(エズ・ラ15:9)
 主がいった。
 「わたしの右手は、罪を行う者たちを赦さず、剣は、地上で罪なき人々の血を流した者たちを、見逃しはしない。(中略)わたしは彼らを赦さない。主に背いた者たちよ、立ち去れ。わたしの聖所を汚してはならない。」(エズ・ラ15:22, 25)
 ──神は自身に対して企てられる罪の行為を知っている。それを行う者のことも知っている。神はかれらを死と殺害に渡して、救うことはけっしてない。

 エズ・ラ15:29-45〈恐るべき幻〉
 主が、見よ世界のあちこちで動乱が始まろうとしている、といった。続けて、──
 見よ、怒りと嵐を孕んだ雲が東と北から起こり、南まで広がってゆく。雲は互いにぶつかり合い、地上は凄まじい嵐に見舞われる。剣によって流される血はおびただしい量になろう。地上は恐怖と不安に覆われる。
 見よ、南と北から大きな嵐が近附いてくる。嵐は西からもやって来る。が、東からの風が強くなり、嵐のなかの怒りを抑えつける。滅びをもたらさんとしていた嵐は、その東からの風に押されて、南と西に散る。
 そうして風はいまや地上を滅ぼす嵐と化した。嵐は地上で営まれる生きとし生けるものすべての暮らしと生命を呑みこみ、バビロンにまで達してこれも同じく壊滅させたのである。わずかな生き残りは、滅びの嵐の奴隷となる。

 エズ・ラ15:46-63〈アジアに対して〉
 バビロンの繁栄と権勢、暴利と退廃のおこぼれに与るアジアよ、やがてお前の上にも破滅と死がもたらされる。
 主がいった。
 「わたしが、これほどまでお前を憎むのは、お前が、わたしの選んだ人々をいつも殺害したからではないのか。お前は酔いしれて、手をたたいて喜び、彼らのしかばねをののしった。『お前の顔を美しく装うがよい』と。売春婦への報酬は、お前のふところにある。それゆえお前は報いを受ける。」(エズ・ラ15:52-55)
 アジアよ、しかしお前が被る災難はそれだけで終わらない。終わらせない。バビロンを滅ぼした者たちはその撤収の最中、残された、憎まれた町を見附けるやこれを討ち、お前の栄華と領土の一部を削ぎ取ってゆく。
 そこは草木一本生えず、人っ子一人住む者なき荒廃した、人跡途絶えた地となるだろう。

 引用が目立つのみならず、自分の解釈、思うことを反映させた文章になった。ご興味ある向きは新共同訳旧約聖書続編を開いて逐一確認されるがよろしいでしょう。オンライン読書会の方々も、どうぞ。
 本章は久しく感じてこなかった旧約聖書の神の怖さ、容赦無さ、呵責のなさ、意固地ぶりを欠片程度ながらも堪能させられたところとなりました。就中エズ・ラ15:26-27が、ですね。語り手による地文ではありますが、旧約の荒ぶる神、裁きの神、怒りの神の心境へ畏れ多くも触れた気分であります。そこにはこう書かれている、──
 「神は御自身に対して罪を犯す者を知っておられる。だからこそ、神は、彼らを死と殺害に渡されるのである。災いは既に地上に来ており、人々の中に居座るだろう。しかし神はお前たちを救われない。お前たちが神に対して罪を犯したからである。」(エズ・ラ15:26-27)
 煩雑になるてふ理由1点を以て故意にノートを省いた箇所がございました。アラビアの竜の民とカルモニア人の戦いのくだりであります(エズ・ラ15:29-33)。スタディ版脚注に従えばこれは3世紀中葉、現イラク北東部旧アッシリア領を出自とするカルモニア人と、シリアにあったパルミラ国のオダエナトゥスの間で勃発した戦争の描写である由。このオダエナトゥス──セプティミウス・オダエナトゥスは通商国家パルミラ国の武人で、皇帝ヴァレリアヌスによってローマ帝国正規司令官に任命された。
 軍人皇帝時代に帝位へ就いた1人、ヴァレリアヌスがササン朝ペルシア;シャプール1世によって捕虜になるという前代未聞の出来事が出来した260年当時のローマ帝国は、俗に〈3世紀の危機〉と称されることからも明らかなように、帝国存亡の危機の時代を迎えておりました。といいますのも余りに拡大した版図の維持を武力で行うことが継続できなくなり、北方からはゲルマン人やゴート族他諸部族が、東からはペルシアが侵入してきたのを防ぐための戦闘に明け暮れて国力は低下、財政面でも疲弊していた時代であったのです。日本に則していえば、卑弥呼が魏に、倭の女王が西晋にそれぞれ遣使した時代、前方後円墳が登場した時代であります。
 この時代に活躍した帝国の武人の1人がオダエナトゥスだったわけですが、帝国の主力が北方蛮族の食い止めに投入されていたせいで手薄になった東方守備の役を担った。そのかれとカルモニア人の戦闘をエズ・ラ15:29-33は記録しているのであります。カルモニア人は調べを尽くしてもいまのわたくしには判明しなかったけれど、おそらくアッシリア帝国を形成していた諸民族の一、その裔なのでありましょうか。
 また、それに伴ってのお話ですが、〈恐るべき幻〉で語られる風、嵐の描写はそのままローマ帝国が当時置かれていた状況を暗喩した箇所でもあります。帝国が外敵からの侵略を受けてだんだんと疲弊してゆく、まさしく「終わりの始まり」が示されたすこぶる重要な箇所である、と考えます。
 これらを以て「第6エズラ記」の成立時期を推察できるのですが、それについては既に〈前夜〉で述べておりますのでここでは繰り返しません。もっと詳しく知りたい方は、『興亡の世界史04 地中海世界とローマ帝国』(木村凌二 講談社 2007/08)や『世界の歴史05 ギリシアとローマ』(桜井万里子/木村凌二 中央公論社 1997/10)、塩野七生『ローマ人の物語 12 迷走する帝国』(新潮社 2003/12 ※新潮文庫[第32-34巻] 2008/09)、ギボン/中野好夫・訳『ローマ帝国衰亡史』第1巻(筑摩書房 1976/11 ※ちくま学芸文庫 1995/12)と第2巻(同 1978/05 ※同 1996/01)を繙き、それを取っ掛かりに詳細な研究書や紀要などにあたってみると良いと思います。
 最後に、ギボンから一節、引いて本章を擱筆したく思います。曰く、──
 「重要辺境は失われるし、忠実な盟邦は没落する。さらに日増しにつのるシャプール王の野心達成を見ては、さすがのローマも深い危機感と屈辱感を抱かざるを得なかった。」(衰亡史第1巻 P310)
──と。まぁ、要するにローマ帝国にしてみればこの時代、踏んだり蹴ったり、の時代だったわけですね。



 諸人よ、勝利の宴を開こう。われらを阻む闇は今宵の宵刻吹き払われた。前途に開けたるは輝かしき場所、輝かしき時間、そこにあるは栄光の玉座と愛と平穏で満たされた家。
 これはけっして裏切りではない。逃亡でもない。未来を摑むための代償なのだ。いまはただ、シラーのように歓喜を歌うのみとしよう。もう忘れてしまえ、悪党に心やるのは無益だ。
 諸人よ、支えてくれた人たちに感謝を捧ごう。呪縛は断ち切られて、われらは自由になったのだ。これからもあるだろう艱難辛苦は、これまでにくらべれば苦しいことではない。
 顔をあげて足を踏みしめ確かな足取りで大地を進み、いと大切な人たちと一緒に門の扉を開けよう。われらはいつの世も共にあるのだから。
 われらの前にあるのは輝かしき場所、輝かしき時間、輝かしき業。そこにあるは栄光不滅の玉座と愛と平穏と信仰と希望のみあふれた家。
 歌おう、感電する程の歓びを!◆

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