第3368日目 〈エズラ記(ラテン語)第16章;〈エズラの哀歌〉、〈終末への主の僕の準備〉with「エズ・ラ」読了のご挨拶。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第16章、「付録の諸預言」2/2です。

 「付録の諸預言」2/2
 エズ・ラ16:1-35〈エズラの哀歌〉
 おお、アジアばかりか、バビロンもエジプトもシリアも、総じて不幸だ。神なる主の怒りがお前たちに突きつけられる。それから逃れる術はない。この災いが取り消されることも、また。
 「見よ、飢えの打撃が襲って来る。その苦しみは鞭のようだ。それは戒めのための懲らしめ。それにもかかわらず、人々は不正を改めず、これらの懲らしめにもかかわらず、その懲らしめを永久に思い起こすことはない。」(エズ・ラ16:20-21)
 平穏が訪れたかのような時が来る。が、それこそ始まりなのだ。飢えが多くの人々を苦しめて死なせ、剣が残った人たちを狩って屠る。自分以外に誰か生き残った者はいないだろうか、と捜すのは無駄なこと。町は滅び、地は荒廃の一途を辿ってゆくばかり。

 エズ・ラ16:36-78〈終末への主の僕の準備〉
 主の僕たちよ。私エズラが告げる。主の言葉を信じよ。これを疑うな。
 善き人々よ。私エズラが告げる。あなた方の日々の労苦が不敬虔な者たちに掠め取られる覚悟をしておけ。
 だがやがて、正義が不正を告発する日が来る。為、あなた方は不正に手を染めることも真似ることも、思うこともしてはならない。「間もなく不正が地から取り去られ、わたしたちの間で正義が支配するからである。」(エズ・ラ16:53)
 不正をした者が神の御前でそれをごまかそうとしたら、怒りの火がその者に降る。
 主は、すべてを計画して、実行する。主は、人のすべての業と計画と思いと心を知っている。
 「主はすべてを造られ、隠れた所の隠れたものをくまなく調べられる。確かに主は、あなたたちの計画とあなたたちが心に思うことをすべて、ご存じである。罪を犯し罪を隠そうとする者は不幸である。確かに主は、彼らのすべての業をくまなくお調べになり、あなたたち皆を引き出されるからである。あなたたちの罪が人々の前に並べられるとき、あなたたちは、慌てふためくであろう。その日には不正の数々が告発者として立つであろう。主とその栄光の前に、あなたたちに何ができるというのか。どのように自分の罪を隠すことができるというのか。」(エズ・ラ16:63-67)
 神は裁き手。あなた方は罪と縁を切って、命ある限り不正を行わぬよう努めなさい。そうすれば神はあなた方を導いてくれる。すべての苦しみから救ってくれる。
 これからたくさんの試みが為される。その結果、神が選んだ人々が残り、かれらは正しい人である、と証明される。近附きつつある苦しみから、かれら──あなた方は救われる。
 恐れるな、疑うな。神が指導者である。神は、ではない。神の戒めと掟を守ったあなた方に罪が重くのしかかったり、不正が正義を凌ぐようなことがあってはならない。断じて、ならない。
 「自分の罪に圧倒され、自分の不正に覆われてしまう者は不幸である。」(エズ・ラ16:78)

 「第6エズラ記」の終わり。

 メインとなる〈終末への主の僕の準備〉は専ら「罪」の問題について説いております。力点が置かれたのは、罪から心身を遠ざけて不正に手を染めることなく暮らすこと、いい換えれば健やかに、正直に、憎まず恨まず妬まず裏切らず、神を畏れ敬いその教えと掟を守って暮らすこと、が即ち神の目に正しいと映る行いの重要事であり、選ばれるため、救われるための資格であるからでありましょう。
 〈終末への主の僕の準備〉、就中エズ・ラ16:66「その日には不正の数々が告発者として立つであろう」は殊更自分のなかへ突き刺さる言葉でありました。なにやら自分の行き着く最終場面のように思えたからです。わたくしも罪を犯した者なので。
 それがさておき。この罪の問題が敢えて現「エズ・ラ」の最後に置かれたのは、なにやら非常に象徴的なことのように思えます。先行した数々の預言書、黙示文学、或いは口伝されたなかでの課題を承けて考え抜かれた、3世紀後半から4世紀初頭を生きたキリスト者、信徒集団、教会からの(当時時点での)回答のように読めるのは独りわたくしだけでしょうか。
 前回本書を読んだときも感じたことですが、やけに唐突で知り切れトンボな、放り出された感満載な終わり方であるのはどうしてなのでしょう。「第4エズラ記」のように他言語へ訳された際続く部分があったのか、あってもそれは加筆の類でありますが、そうしたものがあったのか、ちょっと小首を傾げてしまうのであります。
 とはいえ、「エズ・ラ」第1章から通して読み読み、考えたりしておりますと、一点の疑問が揺るぎなく自分のなかへ根を張ってゆくのがわかります。それは、果たして人はこうまでして自分たちが神によって救われるに値する存在だと、本気で思うているのか、ということであります。これは幾ら悩んでみても解決の曙光だに見えそうにない問題でありますが、それゆえにこそウンウン唸ったり、仕事の手空きの偶さかにでも、想いを馳せてしばし黙考してみるにじゅうぶんな宿題であるのではないでしょうか。キリスト者であろうとそうでなかろうと、であります。果たして人は、救われるに値する生物なのか、と──。



 本日を以て「エズラ記(ラテン語)」の再読を終わります。いや、長かった! 再読を決めてから今日「読了」の言葉を書くまで、本当に長い時間を費やしてしまいました。検めれば今回の再読ノートも様々瑕疵があろうけれど、なによりも孤独に耐えながらちゃんと読んで、ここまで辿り着いたことを自画自賛しよう。
 取り敢えずこれで、約8年来の懸案事項は解消されました。年経る毎にじわじわと自らへ課した課題が重荷となってゆき、昨年「一マカ」再々読を済ませてからは更に重くのしかかってきた「エズラ記(ラテン語)」再読。それをどうにか今日、本文に関しては終わらせることができた。
 調べてみましたら前回、「エズラ記(ラテン語)」を読んだのは2014年12月13日から同月25日。途中で余りの手に負えなさから匙を投げて全文引用プラス簡単な感想、という方式を採ったことも含めて、〈前夜〉も含めて意に満たない部分は多々あった──というよりも、あり過ぎた。それを多少なりとも解決できた点でも、今回も多少強行スケジュールではあったが思い切って始めてしまった良かった、と胸を撫でおろして、ぼうっ、としている現在であります。
 ようやく本当の意味で、1回目の聖書読書は完了しました。2008年09月から2022年03月までですから、ずいぶんと時間が掛かりましたな。もっとも、それだけに拘っていたのでもありませんが、約14年という歳月を聖書と一緒に過ごしてきたのですねぇ。なんだか感慨深いです。
 さて、それでは予定している2回目の聖書読書に備えて、新しい聖書を用意しましょうか。新共同訳をそのまま使うか、聖書協会共同訳を新しく採用するか、まだ決めておりませんが。勿論、旧約聖書続編を含んだ聖書、とは譲れぬ条件であります。まぁ、いつから読み始めるか、でどちらの聖書を用いるか、決めるのでしょうね。
 おっと、2回目の聖書読書よりも先に、旧約聖書の幾つかの書物の〈前夜〉を書き直して(未だ作業継続中!)、順次「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで再掲するてふ約束がありましたな。一部の書物については再読を要す、ともいいましたが、こちらは2回目の読書に組みこめばいいか……。◆

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