第3357日目 〈エズラ記(ラテン語)第2章;〈エズラへの主の言葉〉2/2、〈ホレブの山のエズラ〉&〈シオンの山のエズラ〉with言葉は災いも招くのだから。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第2章です。

 エズ・ラ2:1-32〈エズラへの主の言葉〉2/2
 斯様な次第でわたしはわたしの民を捨てる。かれらを生んだ母の嘆きを聞け。喜び持てかれらを育てたにもかかわらずかれらを悲痛と悲嘆のなかに失う母の嘆きを聞け。
 お前エズラは証言せよ。かれらが父の契約に背き、母を悲痛の極みへ追いこんだことを。かれらはそれゆえ異邦人のなかに散らされる。
 エズラよ、わたしの民に告げなさい。わたしはイスラエルに与えた栄光を、イスラエルに与えるはずだった王国を、用意しておいた永遠の幕屋を、わが民から取りあげ、わたしの言葉に聞き従う者たちに与える、と。
 わたしの言葉に聞き従って生きる者はそのとき、命の木が薫らせる香油の香りに包まれ、労苦から切り離されて生きる。かれらのなかにはわたしの名が刻まれている。それゆえかれらは死して後よみがえる。
  捨てると決めたわが民よ、「お前たちは行って王国を受けよ。わずかな日々が、更に短縮されるように願え、王国は既に、お前たちのために用意されている。目覚めていよ、お前は天を呼び、地を呼んで証人とせよ、わたしは悪を消し去り、善なるものを作った。」(エズ・ラ2:13-14)
 ──母なるエルサレムよ。お前の許へわが助け手として、2人の預言者を遣わす。その者の名は、イザヤとエレミヤという。わたしはかれらの預言を成就させる。
 母なるエルサレムよ。お前を聖別して、たわわに実をつける12の木々と乳と蜜の流れる12の泉、バラとユリが咲き誇る7つの大きな山を、お前のために用意してある。お前の子供たちを喜びで満たすために。お前にもやがて休息の時が来る。
 「動揺してはならない。圧迫と苦難の日が来て、人々が嘆き悲しむとしても、お前は喜々として、豊かでいられる。異邦人がねたみを起こしても、お前に対しては何もできないだろう。」(エズ・ラ2:27-28)
 「永眠したお前の子供たちを思い出せ。わたしは地の隠れ家から彼らを連れ出して、かれらに憐れみの業を行おう。わたしは憐れみ深い神」(エズ・ラ2:31)であるから、お前は「わたしが来るまで、お前の子供たちを抱き、彼らに憐れみを告げよ。わたしの泉は絶えずわきいで、恵みは尽きることがないから」(エズ・ラ2:32)だ。

 エズ・ラ2:33-41〈ホレブの山のエズラ〉
 私エズラは主から命じられてホレブの山へ行った。が、イスラエルの民は私を拒み、主の言葉、主の言いつけを軽んじた。
 私は溜め息した。そうして異邦の民に向けてこう語らざるを得なかった。曰く、あなたたちの牧者を待ち望みなさい、夜の終わりに現れるその牧者はあなたたちに永遠の休息を与える。その牧者はすぐそこまで来ている、と。続けて、──
 「わたしは救い主を公に証しする。主が指名された者を受け入れなさい。あなたたちを天の国に招いてくださった方に感謝して喜びなさい。」(エズ・ラ2:36-37)
──と。
 あなたがたよ、主の御国の到来を願え。
 私エズラはホレブの山で、そういった。

 エズ・ラ2:42-48〈シオンの山のエズラ〉
 私エズラはシオンの山に集うおびただしい数の群衆を見た。よく見るとかれらは皆、主を讃える歌をうたっている。かれらの真ん中には背の高い若者がいた。群衆の1人1人の頭に冠をかうえ、棕櫚の葉を手渡していた。
 私は天使に問うた。かれらは誰か、と。
 天使は私に答えた。かれらは死すべき衣を脱ぎ捨て不死の衣に着替え、主の御名を告白した者たちである、と。
 私は天使に問うた。真ん中にいる若者は誰か、と。
 天使は私に答えた。真ん中にいる若者はかれらがこの世で告白した神の御子である、と。
 かれらは主の御名のために迫害に耐え、信仰に留まった人たちであった。
 天使が私にいった。エズラよ、行って、あなたが見た主の御業の素晴らしさをわたしの民に告げなさい、と。

 主なる神はアブラハムの末裔であるイスラエルを見捨て、そのなかから自分の言葉に聞き従う敬虔なる者たちを生別する。それが即ち、キリスト者でありました。主が王国を与えよう、と宣言する相手は、もはやイスラエル──本書が執筆された時代から見れば、ユダヤ教を信奉するユダヤ人をいいます──ではなくキリスト者だったのであります。
 既に〈前夜〉でお話したように、本書の第1章と第2章は、西暦100年前後に加えられたキリスト教文書(「第5エズラ記」)です。為、キリスト者が重んじられるのは当然のことでありまして、ユダヤ教の教典ではない新約聖書の外典、第二正典、と呼ばれる書物ならではの信徒の扱い方と申せるでしょう。
 〈シオンの山のエズラ〉の描写は、それを露骨に表現した部分と思います。群衆はキリスト者であり、若者はキリストその人に他なりません。
 余談ですが、神や天使のような次元の違うところにいる存在の一人称は「わたし」、この世の者であるエズラについてはそれを「私」、と表記しております。混乱を避けるための処置であることをご承知置きください。



 捨てると決めたわが民よ、と神なる主は呼びかける。怖い言葉ですね。社会人は口が裂けてもいえません。いいたいけれど、いった先の未来を想像すると、いわずに呑みこむが吉。ほんま、口は災いの元やで。喉元まででかかったその言葉、口に出してしまって問題ありませんか?◆

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