第3358日目 〈エズラ記(ラテン語)第3章;〈第一の幻〉、〈エズラの問い──この世の罪について〉withはっきりいう、続編を──〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第3章、「第一の幻」1/3です。

 「第4エズラ記」
 エズ・ラ:1-2〈第一の幻〉
 都が陥落して30年が経った頃、エズラこと私サラティエルは独りしバビロンに在った。胸騒ぎに怯える夜、種々の思いが心のなかを通ってゆく。シオンは荒廃し、バビロンは繁栄している。

 エズ・ラ3:3-36〈エズラの問い──この世の罪について〉
 私はおそるおそる主なる神に問いかけた。曰く、──
 自らに形を擬してアダムを作り、それに命を吹きこみ、あなたは人間を作った。アダムはあなたの掟を破り、楽園を追放されて、人間は罪を負う者、罪を犯す存在となった。
 あなたは地上に増えすぎた人間を、義人ノアとかれの家族を残して他は洪水の犠牲とした。ノアの系譜から幾人かの義人現ると雖も人々は変わることなく罪を犯し、重ね、あなたを顧みることもなくなった。
 やがてあなたはアブラハムを選び、愛し、慈しんだ。永遠の契約を結び、かれにイサクを与え、イサクにヤコブを与え、これにイスラエルという名を与えた。そうしてヤコブ/イスラエルの子孫は全地に満ちた。海辺の真砂の如く、その数は増えた。
 1人の指導者に導かれてヤコブの子孫がエジプトからシナイ山へ逃れた。そこであなたは民と契約を結んだ。「あなたは天を傾け、地を固め、世界を揺り動かし、深淵をおののかせ、世を震え上がらせました。あなたの栄光は火と地震と風と氷の四つの門を通り過ぎ、ヤコブの子孫に律法を、イスラエルの子らに掟をお与えになりました。」(エズ・ラ3:18-19)
 さりとてあなたは民の心から悪を消し去ろうとはせず、律法によってかれらの行動が善となるよう計らった。どうしてですか?
 アダムの時代からこちら、人は掟に背き、心に根ざした悪に打ち負かされてきた。いつの世になろうとも、弱さは人々のなかへ留まったのです。律法も悪の根を持つ心と一緒に、人々のなかへ留まりました。善は滅び、邪が残ったのです。
 ダビデの時代、あなたはご自分の御名のためにエルサレムの都を建てた。賜り物のなかから献げ物を供えさせ、奉献はながく行われた。が、都では罪を犯す人があとを絶たなかった。それゆえにあなたは敵の手に都を渡した。
 「わたしはそのとき、心の中で言いました。『バビロンに住む人たちは、わたしたちよりも善いことをしているのだろうか、それゆえ、彼らがシオンを支配するのだろうか』と。
 しかし、わたしはここに来たとき、数知れない神に背く業を見、この三十年間わたしの魂は、多くの罪人を見てきました。わたしの心はめいりました。罪を犯す彼らをどれほどあなたが耐え忍び、神に背く者たちを放任し、御民を滅ぼして御自分の敵を守っておられるかを見たからです。どのようにしてこの道を捨て去るべきかを、あなたはだれにも何も示されませんでした。いったいバビロンはシオンよりも善いことをしているのでしょうか。」(エズ・ラ3:28-31)
 わたしの疑問は尤もではありませんか? 試しにわたしたちと他の民族の悪を秤に掛けてみてください。どちらに傾くか、明らかでしょう。御前で悪を犯さぬ地上の者がありますか。われら程あなたの戒めを守る民があったでしょうか。個人単位ではいるかもしれませんが、民族全体で見た場合、われら以上にあなたの戒めを破ることなく暮らす民はないはずです。

 エズラの疑問(3:28-31)は尤もでありましょう。自分たちを滅ぼすぐらいなのだから、相手は自分たち以上に善い行いをしているはずだ、だからこそ神は自分たちを滅ぼす相手にかれらを選んだに相違あるまい。
 誰しも、何人に責任を帰すことのできないような理不尽な不幸に直面したとき、そんな風に考えるのが当然と思います。そうすることで自分の気持ちをなだめ、むりやりにも自分を納得させようとする。
 が、捕囚となって連れて来られたバビロンは、シオン以上に悪がはびこる地であった。少なくとも、エズラの目にはそう映った。どうして主なる神は御自分の民を此奴らの手に渡すようなことをしたのだろうか──?
 黙示文学としての「エズラ記(ラテン語)」が本章から始まる(第4エズラ記)ことを考え合わせれば、このエズラの疑問がすべての出発点となり、以後の天使を交えた問答と合間合間で挿入される幻視は皆ここで提示された疑問のヴァリエーション(変奏曲)というてよかろう、と思います。
 それが為、この第3章でエズラは、どうして自分たちがこんな目に遭ったのか、果たしてわれらが犯した罪/悪と他民族の犯すそれのどこに違いがあるのか、あるとすればそれはいったいどのような理由で差異が生じたのか、等々に関してイスラエルの歴史を踏まえて、表現を換え、言葉を尽くして、問い掛けるのでありましょう。
 どうせならあの大洪水のときに、自分が選んだ人たちの心から悪の根を絶ってくれれば良かったジャンか。そうすれば律法に縛られて生きることもなかったろうし、敵の手に渡されて異邦での生活を強いられることもなかったのに。──そんな愚痴さえ、向こうから聞こえてきそうです。
 本章以後も続くエズラの、愚痴とも非難とも思われる件りは「ヨブ記」を想起させませんでしょうか。ヨブが3人の友、或いは神らを相手に、答えなき問答を延々繰り広げる一連の場面を連想させるのです。
 と同時に「ヨブ記」と「エズラ記(ラテン語)」が、旧約聖書に収まる正典と続編を俯瞰したとき、神学論争を記録した数少ない書物であることに気附かされるのであります。論争、というのが大袈裟ならば、問答、が相応しいかもしれません。ユダヤ教の教典のみが神(とそれに従う者たち)と人の論争で成り立つ書物を持ち、キリスト教の教典(外典・偽典含む)になるとそうした構図を持つ書物が少なくなることはちょっと面白い現象だと思います。
 エズ・ラ3:1「都の陥落後三十年目」、同「わたしサラティエル、すなわちエズラ」については既に〈前夜〉でお話済みなので、割愛いたします。



 個人的なメモになりますが、第2章を書いて次の日に本章のノートを書く予定でした。ちょっと耳の調子が悪く本を読む気力も削がれたため休んで、翌日にこれを書いている。予定がさっそくズレてしまったわけだが、今後は1日1章の再読とノート、という予定を可能な限り狂わせることなく、スケジュールを消化してゆきたいと思うています。

 はっきりいう。続編を成す書物のうちでいちばん読み応えあり、頭悩ませつつも読書という行為によってもたらされる知的悦楽を堪能できることこの上ないのは、本書「エズラ記(ラテン語)」である、と。贔屓の引き倒しに非ず。冷静な目で全巻を眺め渡したときの偽らぬ感想だ。
 はっきりいう。続編を蔑ろにしたり、これを等閑視するものは呪われろ。この部分あってこその聖書だろう。むろんあなたがカトリックに於ける第二正典も、いわゆる外典も認めぬ立場、認めぬ教会の牧者であるならば話は別だ。蔑ろにするも結構、等閑視するのも結構。人皆それぞれに立場や信条がある。が、わたくしはそうは思わぬ、ゆえに斯く申すのだ、というだけ。
 「エチオピア語/スラブ語エノク書」や「第4バルク書」、「第3/第4マカバイ記」があれば更に嬉しさは倍増。だが、書誌にも都合があろう;分厚くなる(≒重くなる)=高価になる、だから。新共同訳が「エズ・ラ」や「マナセの祈り」を収録してくれているのは幸い事に属するのだろう。
 他の外典はどうなのか? とあなたは訊くか。では、はっきりいう。併せて読め、と。──がんばって。◆

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