第3360日目 〈エズラ記(ラテン語)第5章;〈終末のしるし〉、〈エズラの問い──選びと苦悩について〉他with140字で宇宙を作り出すのは難しい。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第5章と第6章1/2、「第一の幻」3/3及び「第二の幻」です。

 エズ・ラ5:1-13〈終末のしるし〉
 その日が来たら、と天使がいった。
 その日が来たら、人々の心は恐怖に囚われ、真実は隠され、不義が全地にはびこる。お前が見る国々はいまでこそ世界の覇者の地位にあるが、やがて乱れて町は廃墟となり、終いにはその国土は荒れ野となる。
 しかし、神がお許しになりお前が生き永らえられるならば、その3日後に天変地異が起こるのを見るだろう。誰も望まぬ者が支配者となり、口を開いた深淵から炎が湧きあがる。身重の女はこの世のものならざるを生み、人々はいがみあって殺しあう。星は軌道を外れてゆく。分別は隠れる、知性は姿をくらます。何人もそれを探し出せない。
 「人々は望んでも得られず、働いても道は整えられない。」(エズ・ラ5:12)
 いまのお前に見せられるのはここまでだ。もし7日間の断食をお前が実行したらばその暁には、もっと別の、もう一段進んだしるしを見せることもできるだろう。
 天使ウリエルは私にそういった。

 エズ・ラ5:14-20〈結び〉
 目覚めると、全身がすっかり萎えていた。魂もひどく怯えていた。私の魂はこれ程に怯懦であったろうか。それでも天使は私のところへ来て、私を励ましてくれたのである。
 2日目の夜。ファルティエル、という民のリーダーが来て、いった。どこに居られたのですか、なぜそんな悲しそうな顔をしているのですか、と。この強制移住の地でわれらイスラエルの民はあなたに委ねられているのですよ。そのことをお忘れか。
 私はかれにいった。これから7日間、私に近寄ってはならない、と。
 ファルティエルは去った。
 私は泣きながら、7日間の断食を実行した。

 第二の幻
 エズ・ラ5:21-30〈エズラの問い──選びと苦悩について〉
 7日が経った。私は再びひどく悩んでいた。わが魂は理解力を取り戻していたので、天使ウリエルに再度尋ねた。
 どうして主なる神は御自分が選んだ民を、御自分の約束に背を向けた蛮族どもに渡したのでしょうか。主はイスラエルを憎んでおられるのか、ならば御自分の民として、地上の数多の民から1つの民を選んだのはなぜなのか、それが私にはわからないのです。

 エズ・ラ5:31-40〈天使の答え〉
 天使がいった。
 お前が主よりもイスラエルを想い、来し方行く末に悩むのか。
 私は答えた。
 否、悲しみのあまり申しあげた次第です。主の道を想い、その裁きの一端なりとも究めようとするといつも、私の魂は痛み、怯懦になるのです。
 天使が問うた。
 未だこの世に生まれて来ぬ人の数を数え、枯れ野に緑を育て、陰府の扉を開けてみよ。お前はこれらのどれ1つとして成し遂げることができない。「同じように、わたしの裁きや、わたしが自分の民に約束した愛の目的をも究めることはできないのだ。」(エズラ5:40)

 エズ・ラ5:41-49〈被造物の継起性と終末の裁き〉
 私は尋ねた。
 私以前の人々は勿論、私や、私のすぐあとに生まれる人々は、時の終わりに居合わせることができません。どうしたらよいでしょう。
 天使がこう答えた。
 皆が時の終わりに居合わせることができる。最初の者が終わりの者となり、終わりの者が最初の者となるからだ。つまり、こういうことである、──
 「わたしの裁きを輪のようにしよう。後の者たちが遅れるわけでもなく、先頭の者たちが早くなるわけでもない。」(エズ・ラ5:42)
 わたしは尋ねた。
 過失に生きた人々、現在を生きる人々、未来に生きる人々;(神が)かれらを1度に、同じ時に作らなかったのはなぜですか。
 天使が答えた。
 女の胎は相応しい時に、相応しい種を宿して、子供をこの世に送り出す。神もそれと同じように人がそれぞれの時に従って生まれるように、生きるように、定めてこの世界を造ったからである。

 エズ・ラ5:50-55〈老年期を迎える被造世界〉
 わたしは尋ねた。
 人々の生まれる順番についてあなたはいま、女の胎に喩えてお答えになりました。教えてください。その女は、われらの母は、まだ若いのでしょうか、それとももう年老いているのでしょうか。
 天使が答えた。
 被造物は老いてゆき、若い時の力を失ってゆくのだ。

 エズ・ラ5:55-6:28〈被造世界に直接かかわる神〉
 わたしは尋ねた。
 あなたを誰を用いてわれらの前に姿を現すのか。
 天使が答えた。
 天地未だ固められざる頃、信仰ある者がまだしるしを受ける前に、すべては成った。他の者ではなく、わたしによって成ったのである。従って終わりの時もまたわたしによって来るのだ。
 時の区分について、わたしは尋ねた。
 前の時が終わるのはいつか。次の時はいつ始まるのか。
 天使が答えた。
 アブラハムに始まりアブラハムに終わる。前の時の終わりはエサク、次の時の始まりはヤコブが担う。人の終わりは踵であり、人の始まりは手である。踵と手の間に隔たりはない。

 エズ・ラ6:11-28〈終末のしるし〉
 天使がいった。
 しっかりと自分の足で立ち、響きわたる声を聞け。その声は終末についての言葉である。
 わたしは大地にしっかりと立ち、耳を澄ました。すると、大地が震えた。語りかける声が聞こえた。それは洪水の轟きのようだった。
 見よ、その日がやってくる。その声がいった。それは地に住む人々の許を訪ねようとしているわが足音である。
 「それは不義によって害を及ぼした者どもの追及を始める時であり、シオンの屈辱が終わる時である。そして、過ぎ去っていく世が封印されるとき、わたしは次のしるしを行おう。」(エズ・ラ6:19-20)
 「(わたしが予告したすべてのことを免れた人たちは)皆救われ、わたしの救いと、世の終わりとを見るだろう。そして地に住む人々の心は変えられて、新しい感覚を身に付ける。悪はぬぐい去られ、欺きは消え去るからである。そして信仰が花開き、腐敗は克服され、長い間実らなかった真理が明らかになるだろう。」(エズ・ラ6:25-28)

 エズ・ラ6:29-31〈結び〉
 その声が語りかけているとき、足許の大地が徐々に動き出した。私はおののいた。
 その姿を見て、天使がいった。
 わたしが今夜、お前に示そうとしていたのは、つまりこういうことである。このあと、7日間の断食を行ったらば、今度は日中に、更に大いなることを告げてあげよう。
 「(というのも)あなたの声がいと高き方に確かに達したからである。力ある神は、あなたの正しさを見て、あなたが若いときから守ってきた貞節を顧みられたからである。」(エズ・ラ6:32)
 神は天使に、私宛の言葉を託した。信頼せよ、恐れるな、焦って虚しいことを考えるな。そうすれば終末の時が訪れても慌てることはない。

 本章、というよりも「第二の幻」はユダヤ人のアイデンティティである「神に選ばれた民」について、根本的な疑問を投げかけてきます。そうしてこれは、おそらく聖書を読む者ならば誰しも一度は抱いた疑問でもありましょう。
 どうして神は自分の民が苦しみ、贖いを求める声を無視して傍観したままでいるのか。どうして神は自分の民を、自分の掟に背を向けた蛮族どもの手に渡したのか。どうして神は自分の民を蛮族の手に渡し、かれらの地で使役させ、見えない未来を前に絶望を味わわせるのか。──
 エズラ(サラティエル)もまた、同じ疑問に囚われて悩む1人でした。しかし、天使はそれを分不相応な行いだ、として一喝します。人智を越えた、神の領域を侵犯するなかれ、神の配慮、計画に疑問を呈するなかれ。簡単にまとめてしまえば、天使からの回答はそんな意味になります。エズラの問い、天使の答え、いずれも話題を変えて「第七の幻」まで続くのですが、基調低音を為すのは、「それはどうして、そうなったのか?」、「あらかじめ定められた計画に従ってのことである」とうことに尽きるような思いがいたします。
 このエズラの問い──自分たちの苦難になぜ神は沈黙を守ったままなのか──は、新約時代まで形を変えて持ち越されました。他ならぬイエスの死に接した使徒たちが抱いた疑問であります。
 使徒たちの疑問がやがてキリストについて深く考え、宣教へつながっていったのと同じように、エズラの疑問はそのままユダヤ人が幾世代にもわたって抱き続けた疑問の代弁でもありました。自分たちが<選民>であるてふ強烈なアイデンティティと常にべったり貼りついた疑問であり、それなるがゆえに却って自分たちの<選民>意識、自負を強固なものにする要因となった、とわたくしは考えております。
 正直なところ、読みながら、ノートしながら、時折立ち止まって考えてしまったことに、エズラの台詞/地文と天使の台詞に現れる「いと高き方」があります。
 なぜ、天使は自分の台詞として発するなかで、まるで第三者が存在するかのように「いと高き方」を連発するのか。エズラが「いと高き方」というとき、指しているのは天使ウリエルのはずなのになぜそれ以外の存在を示唆するようないい方をしているのか。ずっと考えこみながら、解決を時間に任せて読み進んで、ようやく、そうか、と気附き、納得することができました。
 そのきっかけはよう覚えておりませんが、要するに「いと高き方」とはかれらのいう「主なる神」であり、最上位におられる存在;つまりエズラが「いと高き方」というときかれは、天使を通してその向こうに坐す神に語りかけるのであり、また、天使が「いと高き方」というときそれは自分が神の言葉の代弁者であることを仄めかしているわけなのであります。
 抄が進むにつれて天使はいつしかエズラの前から姿を消し、かれは直接「いと高き方」と会話するようになる。それは神がエズラを認めたためでありました。既にエズ・ラ6:32にて神は、エズラを認めた旨ウリエルを通して述べております。
 いや、これがわかったら読むのが速くなったこと、早くなったこと。左は誤変換ではありません。
 ここで「創世記」のエピソードが出てまいりました。最後にそれを紹介して、感想の筆を擱きます。エサウとヤコブの話、であります。
 エサウとヤコブはイサクの双子の息子、アブラハムの孫にあたります。イサクの妻、〜から生まれてくるとき、エサウは先に生まれ出ようとするヤコブの踵を摑んで、生まれてまいりました。「踵」「手」とはこれを示すのであります。なお、創27にてヤコブは兄エサウに与えられる筈だった祝福を掠めとり、エサウはヤコブに復讐心を持ちながら、離れてゆきました。エサウはエドム人の祖。エドム人がその後、たびたびイスラエルに対して攻撃を加えるようになった根っこが、ここにありました。



 Twitterの文字数は理想的だ。140字でもじゅうぶん、奥行きと深みのある文章が書ける。そのためにはテクニックと語彙、構成力が必須だけれど。
 本ブログも140字で収まるよう意識して書くときがある。「簡素にして豊か」てふブラームスの音楽を評した言葉が脳裏を過ぎる。しかし、これがなかなか難しい。
 大岡信や竹内政明には敵わない。(139字)◆

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