第3361日目 〈エズラ記(ラテン語)第6章2/2、第7章1/2;〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉他withあなたといっしょに暮らす夢を見た。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第6章2/2と第7章1/2、「第三の幻」1/2です。

 第三の幻
 エズ・ラ6:35-59〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉
 7日の断食が終わって8日目の夜、私は問いかけた。
 神よ、あなたは7日にわたって天地を想像し、闇と光を分け、陸と海を分け、生物を造り、人間を創造した。いずれもあなたが選んだ民のため、という。
 ならばどうして取るに足りぬ存在であるはずの諸国民にあなたの民の命運を握らせたのか。われらはこの世を相続することはできないのでしょうか。こんな状況が果たしていつまで続くのでしょう。

 エズ・ラ7:1-44〈天使の答え──裁きと相応の報い〉
 以前と同じように天使ウリエルが現れて、こういった。
 この世の出入り口は狭く、険しく、悲しみにあふれ、労苦の満ちたものである。が、大いなる世の入口は広く、安全だ。生きている者はこの狭い門を通らないとあらかじめ備えられていたものを受け取ることができない。
 なぜお前は心を痛めるのか。なぜ動揺するのか。「なぜ、今あるものにだけ心を留めて将来のものに心を留めないのか。」(エズ・ラ7:16)
 私は答えた。
 律法では、不敬虔な者は滅びる、と定められています。敬虔な人、つまり正しい人は絶えず広い所を希望しながら、狭い場所で耐えています。一方で不敬虔な人は狭さに苦しみ、広い所を見ることはどんなに希望しても叶えられません。
 天使がいった。
 お前は主に優る裁き手でもなければ、賢くもない。そうして、──
 「人々に与えられた神の律法が軽んじられるくらいなら、今いる多くの人々が滅びる方がましである。主は、人々がこの世に生まれて来る度に、どうしたら生き永らえるか、何を守れば罰せられないで済むかを、諭された。しかし人々は言うことを聞かず、主に逆らい、自分勝手にむなしいことを考え出し、邪悪な欺きを企てた。そしていと高き方は存在しないと豪語し、その道を認めなかった。また、律法を軽んじ、契約を拒み、その戒めに忠実でなく、いと高き方の御業を行わなかった。このゆえに、エズラよ、むなしい者にはむなしいものが与えられ、豊かな人々には豊かなものが与えられるのである。」(エズ・ラ7:20-25)
 終わりの時が来たらそのとき、悪から救われた人々は新しい世界の訪れを見ることができる。
 「すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、生き残った人々に四百年の間喜びを与える。その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ。そして世は、初めのときのように、七日間、太古の静寂に戻り、一人も生き残ってはいない。七日間が過ぎたとき、まだ目覚めていない世は揺り起こされて、朽ちるべき世界は滅びる。大地は地中に眠る人々を地上に返し、塵はその中に黙して住んでいる人々を戻し、陰府の部屋はそこに預けられていた魂を外に出す。そしていと高き方が、裁きの座に姿を現す。もはや憐れみはなく、寛大さは跡形もない。そこには裁きあるのみである。真理は立ち、信仰は力を得る。」(エズ・ラ7:28-34)
 「(裁きの日には)太陽も月も星もなく、雲も雷も稲妻もなく、風も水も大気もなく、闇も夕暮れも朝もない。また、夏も春も暑さもなく、冬も霜も寒さもなく、雹も雨も露もない。真昼も夜も夜明けもなく、きらめきも、明るさも、光もない。ただあるのはいと高き方の栄光の輝きのみであり、この輝きによって、人は皆、自分の目の前にあるものを見る。その期間は七年である。」(エズ・ラ7:39-43)
 これが神による裁きである。わたしはお前にだけこれを伝える。

 エズ・ラ7:45-61〈救われる人の多少について〉
 わたしは尋ねた。
 いったいどれだけの人が罪を犯さず、契約を守り通せるのでしょうか。来たるべき世に喜びを感じるのはごく一握りの人々だけで、その他大勢には懲らしめが用意されています。基本的にわれらの心のなかには悪の種子が芽吹き、成長し、いつしか腐敗してしまう。われらには死への旅路、滅びへの道が用意されています。これが圧倒多数の人の行く末です。
 天使が答えた。
 手に入れにくい価値あるものを持つ人は、いつでもすぐ手に入るものを持つ者よりも大きな喜びに与る。神は御自分の創造した世界に、たとい数は少なくとも救われる人のあることを喜ぶ。かれらは神の栄光を優先し、その御名を讃えるからである。神は滅びに至る多くの者のことを顧みたり、嘆いたりはしない。

 エズ・ラ7:62-77〈裁きの必然性〉
 私は嘆いた。
 もし他の被造物同様、知性が塵から生まれたのならば、塵が生まれぬ方が良かったのではないか。塵から生まれた知性が成長するにつれてわれらの苦しみも増し、やがて滅びることを定められたのだから。救いの約束がいったい、なにになるというのか。生まれた人々は皆、過ちを犯し、その重荷を背負って生きてゆくのだから。
 天使が答えた。
 神はアダムを造る前から裁きとそれにかかわる事柄を定めていた。人は懲らしめられる。戒めを守らず、律法を蔑ろにしたためではないか。神が長い時間、不義の人々の行いに耐えていたのは、あらかじめ定められた時が満ちるまで待つためなのだ。
 私は尋ねた。
 どんなタイミングであってもわれらが魂を返したらば、裁きの日までその魂は安らぎのなかで守られるのでしょうか。
 天使がいった。
 お前は自分が不義の人々であるかのように感じているが、そのようなことはない。お前の行いは天に蓄えられている。が、終末の時にならぬとお前は天に積んだその宝を見ることができない。

 エズ・ラ7:78-101〈死後の霊のたどる道〉
 死についての話をしよう、と天使がいった。
 死者の霊は造った方の許へ帰る。その霊がいと高き方の道を軽んじたか、守ったかで、辿る道は異なる。わかりやすく説明しよう。
 いと高き方の道を軽んじた者とは、律法を軽蔑し、神を畏れ敬う人を憎み、神の目に悪と映る行いに耽り、神の定めた道から外れて生きた者たちのことである。かれらは安らぎの場所を見附けることも、そこへ辿り着くこともできず、ただ苦しみのなかで嘆き悲しむことになる。かれらは7つの道を彷徨い歩くことになる。即ち、──
 第1の道;律法を軽視した者のために準備された道。
 第2の道;生きるための悔い改めが不可能な者のための道。
 第3の道;契約を善く守った人が報われる様子を見せつけられる道。
 第4の道;終わりの時に受ける懲らしめを想起させる道。
 第5の道;「他の人々の住まいが天使たちによって守られて深い静けさに包まれているのを見せつけられる」(エズ・ラ7:85)道。
 第6の道;自分たちのお仲間の誰かが奈落へ突き落とされる道。
 第7の道;神の栄光の前に衰え、萎えてしまう道。「彼らは生きていたときには、この方の前で罪を犯したのであり、終わりの時には、この方の前で裁かれるのである。」(エズ・ラ7:87)これはどの道よりも、不義者には辛い道となる。
──以上。
 では、いと高き方の契約を善く守った人とは、どのような人か。いうまでもない。神の目に正しいと映る振る舞いをし、生活を守り、神へ至る道を一歩も踏み外すことなく歩んだ人である。
 かれらの体からも、死んだ際は霊が離れる。生前のかれらは苦労して神に仕え、これを敬い、律法を守るためあらゆる危険を冒した(危険に見舞われた)。神はかれらを見ていた。かれらは7つの段階を経て安らぎを得る。
 第1段階;悪に抗い、悪に打ち克つための戦いの末、苦労して摑んだ勝利。
 第2段階;不敬虔な人の魂が行き処なく彷徨う様を見、用意された罰を眺める。
 第3段階;生前、律法を遵守したことが証言される。
 第4段階;「陰府の部屋の中で、天使たちに守られて、深い静けさの中に集まって味わう安らぎと、終わりの時に自分たちを待ち受けている栄光とを知る。」(エズ・ラ7:95)
 第5段階;不義の者、不敬虔な者らとは違って朽ちゆくものから逃れ、相続財産を受け継ぐことが決まったことを喜ぶ。また、窮屈で労苦に満ちた浮世から救い出され、いまや不死となったことを喜び、ゆとりを得る。
 第6段階;太陽の如く顔が輝き、星の光の如き存在となったことを知る。
 第7段階;これまでのどの段階にも優って偉大な段階、「ここでは、人は安心して喜び、信頼して迷うことなく、恐れることなく喜びを味わう。彼らは、生前に仕えた方、やがてその栄光にあずかり、報いをいただくその方の御顔を見に急ぐ。」(エズ・ラ7:98)
 ──
 これらのことを聞いて私は天使に、確認の意味を込めて尋ねた。
 では人の魂は体を離れたあと、いま仰ったような道を歩くなり段階を踏んでゆくなりするのですね?
 天使が答えた。
 然様、かれらには7日間の猶予が与えられる。先程の道もしくは段階をその7日の間に見て後、それぞれの住まいへ集められることになる。

 エズ・ラ6:35にふしぎな一説が出てまいります。曰く、「以前と同じように七日間の断食を行った。言われたとおり三週間続けるつもりだった」と。断食期間として設けられた7日間はまだわかるのです、エズ・ラ6:31で天使がそう命じておりますから。しかし、3週間続けるつもりであった、とは、はて面妖な。いったい誰に、そういわれたのか。「エズラ記(ラテン語)」本文をどう探しても、どう読んでも、該当する文言は見附けられません。
 では、なにか典拠があるのか。参考になりそうな本を何冊か開いてみましたが、解答はありませんでした。そもそれに触れた本すらなかった。既になにかしらの見解が出た一件であるのか、そんな重箱の隅を突くような件は取りあげる価値もないと捨て置かれているのか……。
 直前に脱落した文章があったのかもしれない、経緯はどうあれ当該部分は加筆されたのかもしれない、など考えてしまいますが、どうにも解決の糸口が見附けられない状態でこの問題は脇に押しやるより他なさそうです。
 ここでいちばん問題になるのは寧ろ、エズ・ラ7:28-29「すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、生き残った人々に四百年の間喜びを与える。その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ」でありましょう。イエスとキリスト、という固有名詞がユダヤ教文書のなかにある点に疑問を感じるのです。いずれもキリスト教の呼び名であり、ユダヤ教文書である「エズラ記(ラテン語)」本文にそれがあるのは可笑しい、ということであります。
 〈前夜〉でわたくしは、本書の最初の2章と最後の2章は「エズラ記(ラテン語)」がキリスト教文書として取りこまれる際、キリスト教者が加えた部分とされている旨申しあげました。これは推測の域を出ませんが第7章の件の箇所もその折、斯く書き換えられたのではないか、といわれております。正直なところ、わたくしもその意見に異を唱えることなく与する者であります。おそらくそこには本来、「メシア」と書かれていたのではないでしょうか。ユダヤ教もメシア到来を信じる土壌がありましたから、それを記した文章が「エズラ記(ラテン語)」にあってもなんのふしぎはない。
 固有名詞がもし本当にキリスト者によって書き換えられたならば、他の本文にも多少なりとも加筆や書き換えがあった、と考えてしまうのは無理からぬところでありましょう。
 エズ・ラ7:12-14の「狭い門から」云々はその伝で行けば、マタ7:13とルカ13:24に載る有名な一節に辿り着きましょう(マタ「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としてそこから入る者が多い」、ルカ「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」)。
 ほかの部分でも本書と新約聖書文書の内容や思想が響き合うところは散見され、実際、パウロ神学との関係を見なくてはならぬ箇所も出てまいります(エズ・ラ5:41など)。改めて旧約聖書の名を冠する続編(外典、偽典)だからとて新約聖書に収まる文書よりも以前に成立しているわけではない、という最大の前提を忘れてはならない、と思います。
 「エズラ記(ラテン語)」──第4エズラ記の成立は第一次ユダヤ戦争が集結した70年から30年が経過した西暦100年前後とされます。この頃には共観福音書も完成が視野に入ってきた時分とされますから、両者の影響関係がこのような形で現れたとしても可笑しくはないでしょう。
 いずれにせよこの時代、既にどれだけローマ帝国内へキリスト教が浸透して、後の国教化を実現させる下準備が為されていたか、を考える切り口になる筈であります。



 昨夜、あなたの夢を見た。いっしょに暮らしている夢だ。
 そこにはもう1人、いた。誰なのかわからない。しかし、皆そこにいた。
 どうか現実の光景となりますように。未来をください。いつまでも一緒にいられる未来を。
 もう痛めつけられて苦しむのは終わりにしたい。独りぼっちは厭ですよ。◆

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