第3362日目 〈エズラ記(ラテン語)第7章2/2-第9章1/2;〈代願の不可能なこと〉他withBrand new days, (つぶやき・なう)〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第7章2/2、第8章並びに第9章1/2、「第三の幻」2/2です。

 エズ・ラ7:102-115〈代願の不可能なこと〉
 私は問うた、代願は可能か、と。
 裁きの日、その日のために義人は、不敬虔な者たちのために執り成しをすることができるでしょか。かれらに代わって、かれらが救われる道が用意されるよう祈り、願うことはできるでしょうか。
 天使が答えてそれに曰く、否、と。
 誰かが誰かのために赦しを請うことは、けっしてできない。誰もが己の不正な行い、正しい行いの責任を持たねばならぬからだ。
 私は問うた。
 モーセ以来預言者や為政者は皆、自分のためではなく、他の者たちのために祈ってきました。「滅びる者がはびこり、不正が増し加わっている今、義人たちが不敬虔な人たちのため祈っているのに、どうしてあの裁きの日には、それができないのでしょうか。」(エズ・ラ7:111)
 天使が答えた。
 いまの世はいまを生きる人たちのためにあり、従って到達点に非ざるためである。神の栄光はいまの世にのみ留まるものではない。モーセ以来の預言者や為政者はいまの世を生きる弱き者らのために祈ったのである。
 「裁きの日はこの世の終わりであり、来るべき不死の時代の始まりとなる。その時には、腐敗はもはやなくなる。放縦は解消し、不信仰は断たれ、正義が成長し、真理が現れる。だからその時、だれも、裁きに敗れた者を憐れむことはないし、勝った者を滅ぼすこともできないのである。」(エズ・ラ7:113-115)

 エズ・ラ7:116-8:14〈救われる人は少ない〉
 私はいった。神よ、焉んぞアダムをば造り給ふや、と。
 アダムの堕落は即ちわれらの堕落。アダムが罪を犯したばかりにわれらも罪を纏う者となってしまった。われらが背負うのは、生きていれば悲しみ、死ねば刑罰。不死の世の約束がどれ程の慰めとなりましょう。われらは最も邪悪な道を歩み、楽園へ辿り着くことも叶わない。この世に生きて不正を働き不義に明け暮れているときは、死後に待ち構える苦しみのことなどなにも考えなかった……。
 天使がいった。
 地上に生きる人間は人生の戦いについてとく心を留めよ。戦いに負ける者は苦しみを受ける。戦いに勝つ者は神から恩寵を授けられる。
 私は訴えた。
 私は、神なる主が「裁き主」と呼ばれることを知っている。「もし、御言葉によって造られた人々を赦さず、多くの罪を消してくださらなかったら、恐らく、数えきれないほどの人の群れの中で、ごくわずかの人々しか生き残れないでしょう。」(エズ・ラ7:139)
 天使が答えた。
 いと高き方はこの世を多くの人々のために造った。しかし来たるべき世はわずかな人のために造られている。この世に生きるため造られた人は余りに多く、来たるべき世へ入るため造られた人は実に少ない。
 ──
 私は嘆願した。
 「どうか、わたしたちに心の種を与え、そしてわたしたちの知性を耕して実を結ばせてください。そうすれば、朽ちるべきすべての者が人としての場を得て、生きることができるでしょう。」(エズ・ラ8:6)
 神よ、あなたは母となる女の胎に人を与えて、これを守らせた。産声をあげて後は母の乳によって育てられる。「その後あなたは、その子に憐れみをかけ、あなたの正しさではぐくみ、あなたの律法で教育し、あなたの知恵で戒められました。
 それをあなたは、御自分が造られたものであるがゆえに死なせたり、御自分の作品であるがゆえに生かしたりされるのです。あなたの命令に従い、これほどの苦労によって形づくられたものを、簡単なひと言で滅ぼされるなら、何のためにそれをお造りになったのでしょうか。」(エズ・ラ8:11-14)
 私は自分のために、イスラエルのために、祈った。
 「主よ、この僕の祈りを聞き入れてください。あなたがお造りになった者の祈りに耳を傾け、わたしの言葉に御心を向けてください。わたしは生きるかぎりあなたに語り、わたしに分かるかぎりお答えします。」(エズ・ラ8:24-25)
 「わたしたちもわたしたちの父祖たちも死をもたらす生き方をしてきましたが、あなたは、罪人であるわたしたちのゆえに憐れみ深い方と呼ばれるのです。もし、あなたがわたしたちを憐れむことを望まれるのでしたら、正しい業を行わないわたしたちを憐れんでこそ、あなたは憐れみ深い方と呼ばれるでしょう。正しい人たちは、あなたのもとにたくさんの業を蓄えており、自分たちの業のゆえに報いを受けるからです。」(エズ・ラ8:31-33)
 「実際には、生まれてきた人の中で不敬虔なふるまいをしなかった者は一人もいません。信仰を告白する人の中にさえ、罪を犯さなかった人はいません。主よ、よい業を蓄えていない人々をあなたが憐れまれてこそ、あなたの正しさと善良さとが、宣べ伝えられるでしょう。」(エズ・ラ8:35-36)

 エズ・ラ8:37-9:13〈終末について〉
 天使がいった。
 わたしは義人あることを喜ぶとしよう。農夫が畑に蒔いた種のすべてが実を結ばないのと同じように、この世の人々すべてが救われるわけでもないのだからな。
 私はいった。
 農夫が畑に蒔く種と神が御自分の似姿として造った人間を一緒にしますか。あなたの民を惜しみ、あなたの世継ぎの民を憐れんだりはしないのですか。
 天使が答えた。
 いま在るものはいまの世の人のためにあり、将来のものは将来の人のために在る。お前は「私たち」というが、自分を不正不義を働く衆の一員と思うてはならない。
 「この世に住む人々は、おごり高ぶって歩んでいたので、終わりの時には、多くの悲惨な目に遭うであろう。しかしあなたは自分のことをよく考え、自分と同じような人々の受ける栄光について思い巡らしなさい。あなたたちには楽園が開かれており、生命の木が植えられ、来るべき時が備えられて、豊かな富が用意されており、都が建てられ、安らぎが保障されており、恵みが全きものとなり、完全な知恵が与えられる。
 悪の根は、あなたたちに近づかないように封じられ、病は消え去り、死は姿を隠し、地獄は遠ざかり、腐敗は忘れ去られる。悲しみは過ぎ去って、最後に不滅の宝が示される。
 それゆえ、滅びる者が多いことについて尋ねるのは、もうやめなさい。
 彼らは自由を与えられていながら、いと高き方を侮り、律法を軽蔑し、その道を捨てたのである。その上、彼らは義人を踏みにじった。そして心の中で、神はいないと言った。こんなことをすれば死ぬと知っていながらである。前もって話しておいたことがあなたたちを待ち受けているように、彼らには、用意された渇きと懲らしめが待ち構えている。いと高き方が人の滅びを望まれたのではなく、造られた人々自らが、自分たちをお造りになった方の名を汚し、今の命を与えてくださった方の恩を忘れたのである。それゆえ、わたしの裁きは間近い。
 わたしはこのことをすべての人に示すのではなく、あなたとあなたと同じようなわずかの人々にだけ示したのである。」(エズ・ラ8:50-62)
 ──
 私は尋ねた。
 終わりの時はいつ訪れるか。
 天使が答えた。
 いつも自分のまわりに目を向け、注意を払っていなさい。変化の兆しがあるのを見逃さないようにしていなさい。
 「この世の出来事はすべて、始まりは終わりによって明らかになり、終わりがすべてを明らかにするが、いと高き方の時もこれと同じであって、その始まりは前兆と力ある業において明らかにされ、終わりは行いとしるしにおいて明らかになる。」(エズ・ラ9:5-6)
 そのとき、救われた者、神の怒りから逃れ得た人々は皆、危難を免れて、「永遠の昔から聖別しておいたわたしの血と領域で救いを見るだろう」(エズ・ラ9:8)
 勿論、神を蔑ろにし、律法を蔑んだ者は懲らしめられ、救いに与ることも聖別された地を見ることもできない。

 エズ・ラ9:14-25〈結び〉
 私はいった。
 何度でも申しあげます。しかし、救われる人の方が滅びる者よりも遙かに少ないのだ、という明白な事実を。
 天使が答えた。
 この世界に人間が造られたとき、なにが不足するわけでもない食卓と究め難い法則が整えられていたが、人々は堕落した。いと高き方は嘆き悲しまれた;この世は滅び、イスラエルは危険に曝されていた。それゆえに正しい人たちが救われる策を講じた。神はブドウの房から1粒の実を救い、大きな森から1本の木を救うだけである。
 「だから、理由もなく生まれてきた多くの人々は滅びるがよい。わたしの一粒のぶどうの実とわたしの一本の木が救われればよいのだ。わたしが大変な苦労をしてこれを完成させたのであるから。」(エズ・ラ9:22)
 ──
 天使が私に、続けていった。
 これより後7日間、花咲き乱れる未開の野原で花を食べて過ごし、絶えずいと高き方へ祈れ。そのときわたしはまた、お前と語らおう。

 「第三の幻」はここで終わる。しかし、このあと、天使/いと高き方が視せる幻はだんだんと具体的な姿を想起させるそれになってゆきます。これは昔からいわれているように、至高の存在がサラティエルに段階を踏んでだんだんと幻の核心に迫って行ってみせている、と受け取ってよろしかろうと思います。
 ここで申しあげておきたいのは、もし読者諸兄が本ブログを契機に「エズラ記(ラテン語)」を読むことがあれば、その際は是非続けて「ダニエル書」にも(改めて)目を通してほしい、という願いであります。「エズラ記(ラテン語)」で至高の存在が視せる幻は「ダニエル書」でダニエルが視せられた幻と重なる部分があり、またそれが時代を下った「エズラ記(ラテン語)」とくらべるとまだ輪郭の模糊とした幻であることを知っていただきたい、確認していただきたい一念からに他なりません。再読を要することになった「一マカ」と「エズ・ラ」がいずれも「ダニエル書」と関わりを持つ書物であったことは、面白い暗合であるな、と感じ入る次第であります。
 さて、今日読んだ第7章2/2、第8章、第9章1/2で重視すべきであろう点は、やはり最初の〈代願の不可能なこと〉でしょうか。しかしわたくしはむしろ、そのあとに続くアダムの犯した罪について述べた箇所で立ち止まって、考えてしまう。
 正直なところ、〈代願の不可能なこと〉はきちんと読めばすぐに納得できよう部分でありましょう……。ただ1つだけ、お話すべきことあるとすれば、かつてカトリック教会が使っておりその後も10世紀の長きにわたって用いられた「エズラ記(ラテン語)」(9世紀のサンゲルマネンシス写本)には、〈代願の不可能なこと〉を含む第7章第36節から同106節までが脱落していたこと、でありましょうか。ここに欠落した部分があったことは1874年に、同じ9世紀に書き写されたアムビアネンシス写本が発見されるまで知られていなかったそうであります。どうしてサンゲルマネンシス写本に斯様な脱落があったか、といえば、脱落部分に中世のカトリック教会が認めていた「代願の肯定」がはっきりと否定されていたからだろう、とは榊原康夫『旧約聖書続編を読む』にある指摘であります(P305-306 聖恵授産所出版部 1999/04)。
 知恵の実を食べたことでアダムは罪人として裁かれ、エデンから追放されて地を彷徨った。額に汗して労働せねば生きられぬ身ともなった。ゆえにアダムの子孫である人間は皆、母の胎より産まれる前から罪を負った存在として生きることを運命附けられている──。「性悪説」とは古代中国は荀子の唱えた倫理思想の根幹であります。これをキリスト教で正確になんというのか、不勉強もあってわたくしは知りませんが、ユダヤ教、キリスト教が、人は皆アダムの罪を背負って生まれてくるのだ、と考えているならば、やはりこれも性悪説というべきでありましょう。
 となれば人は不正不義を働くことが飾り気のない、そのままの姿であり、却って律法に従って生きたり神の目に正しいと映ることに勤しんで生きることは<意思>の力を必要とする、けっして自然とは言い難い姿なのだ、ということもできようかと思います。為、繰り返し繰り返し、背くな、従え/守れ、と善き人は叫び続けたのでありましょう。性悪説はやはりアダムの罪に始まり、それは敬虔なるユダヤ教徒やキリスト者にしてみれば、われらには想像できない程の重荷として課せられた罪であったのだろう、と想像できます。この罪の意識が強固になってかれらの、メシアを期待する気持ち、思想へつながっていったのかもしれません。そんな風にわたくしは考えております。
 ただ、人間の側から罪の意識を伴って考えればそうなるのでしょうが、考え様によっては、神があのとき知恵の実あることをアダムに伝えなければ、このようなことにはならなかったのではないか。アダムが罪を犯したから人は罪の存在になったのだ、ではなく、神が知恵の実のことを語ってしまったからこんな事態が出来したのだ、という方が事実に余程近いと思うのですが……まぁ、それをいい始めたらキリがありませんね。
 引用もしたエズ・ラ9:22は一言でまとめれば、義人を残して他は滅ぼしますね、という意味です。もう少しミもフタもないいい方をすると、いと高き方、神がウリエルに託したのは、もはや世も世界も人も自分の手に負えなくなったから/自分でコントロールできなくなったから/自分が望む姿でなくなってきているから、イエス・マンの義人だけ残してそうでない人たちは滅ぼしてしまおう、という神の、神による、神のための強制リセット、然る後の再起動、であります。これを責任逃れ、一切合財をチャラにする、というても然程間違ってはいないでしょう。「創世記」でノアたちが経験した一斉粛正がもっと大きな規模で再び実行されるのが、ここでいう「理由もなく生まれてきた多くの人々は滅びるがよい。わたしの一粒のぶどうの実とわたしの一本の木が救われればよい」であります……。なんと、まぁ。言葉が過ぎたかもしれません。が、とどのつまりそういうことですよね、サラティエルの神様?
 本書は黙示文学でありますが、だからというて深刻にその幻に囚われて読む必要はない、寧ろ至高の存在が、要するになにをしようとしているのか、を摑むことの方が大事である、とわたくしは考えます。幻の内容について云々するのは、そのあとで良いと思います。むろん、これがユダヤ教徒、キリスト者であれば話は別の方向へ行くのでしょうが、わたくしはそうではありませんので。
 これで「第三の幻」は終わります。



 昨日のこと;おかえり、お姫さま。おかえり、奥方様。さぁ、新しい生活の始まりだ。◆

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