第3416日目2/2 〈「浅茅が宿」翻訳の進捗状況。但し、2022年06月04日18時18分時点。〉 [日々の思い・独り言]

 上田秋成『雨月物語』から「浅茅が宿」の現代語訳は、(たぶん)順調に進んでいます。現代語訳というてもいわゆる逐語訳から離れてしまっているので、もしかしたら看板に偽りあり、かもしれません。
 これまで箱根の峠で幽霊に会った話や戸袋に潜む女の幽霊の話など本ブログにお披露目してきておりますから、それを想起していただければ「浅茅が宿」の自称「現代語訳」がどのようなものか、ご想像いただけると思います。
 まァ、そんなことをしているせいでか、思惑以上の分量に膨れあがっているのは目を背けたくなるような事実ですけれど、仕方ありません。原文が、前2編にくらべて数倍の量なのですから、膨れあがるのは当然です。
 この作業を始めるにあたって幾つか、架蔵する『雨月物語』の現代語訳とコミカライズへ久方ぶりに目を通してみました。学者先生方のものあり、著名な小説家のものあり、有名無名の漫画家たちの筆になるものあり、と、読み比べの作業はなかなか楽しく、思わず本来の目的を失いそうになったこともありました。
 そうした作業を通じて思うたのは、学者は、1つ1つの言葉の意味や出典、解説は得手でも、物語を再現するための「文章」の構築はまるでダメ、話にならん、というレヴェルなのです。逆に小説家は、言葉の意味や出典を探す、解説する作業に長けていない──ということ。
 学者は木を見ても森は見ず、小説家は森は見えても木を知らぬ。小説家は全体を把握する指揮者であり、学者は微細な事柄へ拘泥する観察者、ともいえましょうか。
 ──斯様にもっともらしいことをいうて参りましたが、この非難(穏やかに、指摘、というておこうかな)が遅かれ早かれ、自分へ跳ね返ってくることは重々承知。予め予防線を張ったわけではありませんが、学者と小説家の現代語訳を読み比べて両者の差異に唖然としつつ、その差異を自分はどうやって、なるたけ近附けてゆけば良いだろうか(埋めてゆけば良いのか)、と頭を悩ませながら第二稿をせっせと綴っておるところであります。
 正直なところを申しあげると、英語などの諸外国語もそうでしょうが古典時代の日本語も、単語の意味・活用と文法を大学受験レヴェル+αぐらいまでわかっていれば、──対象となるジャンル次第とはいえ──根本的な苦労はないな、と感じます。
 とはいえ問題がないわけでは勿論ありません。訳文を作ってゆく過程でぴったりな表現や言葉が見附からない、という事態に陥るは常のこと。言語の別なく翻訳という作業には付き纏う問題でありましょう。
 たとえば、いまわたくしは、──

 あさましき夜の費なりけり。

という一文をどう訳そうか、悩んでいるところなのであります……。同じように現代日本語でも一文で済ませようとすると、どうにも無理のある文章となってしまうのです。
 しかし古典の現代語訳てふこの作業、なかなかに愉しく、短い時間でしか訳筆を執ることかなわぬ事情のなか満ち足りた気分を味わっております。いまのようにチト辛い状況では尚更強く、そう感じる。そう、「浅茅が宿」現代語訳は気晴らしというか、唯一の逃げ場でありましたね、あの頃の自分には。
 翻訳のお手本、ですか? 特にないのですが強いて挙げれば、平井呈一の訳した『怪談』と吉行淳之介が手掛けた『好色一代男』、でしょうか。平井訳『怪談』は岩波文庫や恒文社のそれがポピュラーなのでしょうが、ここで挙げたのは偕成社から出ている子供向けに訳文を改めた1冊であります。解説を読むと、この作業の途中で訳者は亡くなったのでしょうか。吉行淳之介の西鶴に関しては別にお話したく存じます。
 「浅茅が宿」第二稿はようやく勝四郎が真間を目指して出発した場面です。これだけはちゃんと仕上げておきたいと思います。◆

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