第3450日目1/2 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。3/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 さて、こちらは西国の勝四郎である。関東で多くの命が失われ、貧窮の一途を辿っていたのに対し、〈禅の精神に基づく簡素さと、幽玄・侘びを基調とした〉当時の京都文化[09]は華美を好む傾向がな装いが流行りだった。そのせいで勝四郎が持参した足利染めの絹は飛ぶように売れ[10]、思わぬ財産を築くことができた。
 勝四郎はホクホク顔で売り上げを数え、その一方で帰郷の準備を始めもした。そんなかれのまわりでいろいろな人が様々な、東国にまつわる噂話を囁いている。その内容は気持ちを重くし、不安にさせ、帰郷準備の手を休ませるにじゅうぶんであった。
 京都の人の口の端に上り、勝四郎の心をザワザワさせた噂話とは、大体次のようなものであった。曰く、──
 上杉の軍勢が鎌倉攻めしてこれを陥落(オト)し、遠近へ四散した鎌倉の残党を追討している。勝四郎の故郷のあたりも戦渦に巻きこまれて、いまや住む人もいない荒れ地となったらしい。などなど。
 宮木──。勝四郎は、故郷へ置いてきてしまった妻の姿を心に浮かべた。真間も戦場になったのか、ならば宮木はもしかしたら……。
 あづま路のなお奥つ方の国のことである。実際にその場の様子を見てきた者があるわけではない。あくまで、噂だ。
 そう勝四郎は自分にいい聞かせて、はやる気持ちを懸命に抑えて、日を過ごした。──が、京都に留まって安全に暮らすよりも、残してきた妻の身を案じる気持ちの方が優る瞬間(トキ)が、来た。
 8月初旬。勝四郎は京都を発って下総国を目指した。鎌倉を通過する東海道[11]は避けて、近江国と陸奥国を結ぶ東山道[12]を選んだのは、時勢を考えれば自然な選択であったろう。が、その東山道も、真坂、という場所あたりまで来て災難が降りかかった。真坂は、美濃国と信濃国の境近くにある[13]。
 日暮れ刻だった。勝四郎の行く手を阻むように山賊の集団が現れて、身ぐるみ引っ剥がしてしまったのである。加えて真坂の人がいうには、ここより東の各所には関所が新しく設けられ[14]、人の往来を厳しく取り締まるようになった、と。それは即ち勝四郎にとって、故郷への帰途の手段が絶たれたことを意味する。同時に、妻宮木の消息を知る手段が失われたことも。
 帰国を断腸の思いで諦めた勝四郎は、京都への道を戻り始めた。が、悪いときは悪いことが重なるものである。近江国へ入ったあたりで体の不調を感じた。段々と気分が悪くなり、高熱で足許がふらつき、意識朦朧となることが多くなった。
 幸いだったのは、いま勝四郎のいる場所が、件の雀部の曾次の妻の実家のある、武佐[15]、という村に程近いことだった。気力と体力を振り絞ってその家を尋ね当てた勝四郎は、涙ながらに事情を説明した。
 雀部の妻の実家は近隣でも名うての素封家で、当主の児玉嘉兵衛は、体調不良を押してようやく家の門を潜ってきた勝四郎を丁寧に迎え入れて、医者を呼び薬を服ませるなどして、予期せぬ客人の介抱にこれ努めた。
 どれだけの月日が経ったか。布団から起きあがれるぐらいには回復した勝四郎は、この家の当主が自ら付きっきりで介抱してくれたことに感謝し、篤い恩を抱かずにはおれなかった[16]。そうして勝四郎は翌る年の春まで、児玉の家の世話になったのだった。
 武佐滞在が1日1日と長引くにつれて、親しう交わるぐらいの知己もできてきた。元々正直者で心根の素直な勝四郎であるから、土地の人々からも気に入られたのである。
 やがてすこしばかり遠くまで歩いてゆけるようになると勝四郎は、京都へ上って雀部を訪ね、武佐へ戻っては児玉の家に身を寄せる、という生活を続けた[17]。そんな生活を続けるうちに、7年という歳月が流れていた。
 年改まって、寛正2(1461)年。□



[09]「〈禅の精神に基づく簡素さと、幽玄・侘びを基調とした〉当時の京都文化」
 →〈〉内は『【詳解】日本史用語事典』P151コラム「東山文化」より引用(三省堂編修所 三省堂 2003/09)。東山文化とは概ね上記のように説明され、今日の日本文化や生活様式の温床となったものであるけれど、それゆえもあってその特質、俯瞰して物言いするのは難しい。侘び寂び幽玄の文化が確立した一方で、義政自身の好みも反映して華美であったのは事実だが、その双方に幾許かの対立と矛盾を孕んでいるような違和感を、わたくしは覚える。むろん、当方の勉強不足は否めぬところであるが──。
[10]「足利染めの絹は飛ぶように売れ」
 →第二稿「足利染めの絹は世の求めに合致して飛ぶように売れ、」から「世の求めに合致して」を削除〔覚書〕。
[11]東海道
 →いまでは江戸時代初頭に幕府が定めた「五街道」としての東海道がポピュラーだが、奈良時代の律令制下で整備された「五畿七道」の一、東海道をここでは指す。「五畿」は大和・山城・摂津・河内・和泉(現在の奈良県・京都府・大阪府に相当)、「七道」は東海道の他、北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道そうして次で註釈する東山道である。
 東海道の通過国は以下の通り。即ち、──伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・(武蔵;宝亀2/771年に編入・)安房・上総・下総・常陸、である。京都を起点に現在の三重県・愛知県・静岡県・山梨県・神奈川県・(東京都/埼玉県・)千葉県・茨城県、である。
 七道時代の東海道紀行文として菅原孝標女『更級日記』と阿仏尼『十六夜日記』が有名。
[12]東山道
 →東山道を始め古代律令制下で制定された七道は、広域地方行政区画でありそこを通る幹線道路である。
 東山道の通過国は以下のようになる。即ち、──近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・武蔵・出羽・陸奥で、現在の都府県でいえば、滋賀県・岐阜県・長野県・群馬県・栃木県・東京都/埼玉県・福島県/宮城県/岩手県(陸奥国)・山形県/秋田県(出羽国)、である。
 先述のように武蔵国は宝亀2/771年に東海道に所属変更されたが、それまでは上総国新田から東山道の枝道たる東山道武蔵路を南下して武蔵国国府つまり府中を巡って同路を北上、下野国足利ヘ出るルートであった。
 『続日本紀』巻第二文武天皇大宝2年12月10日条云、「壬寅、始めて美濃国に岐蘇の山道を開く」(『続日本紀 一』P63 新日本古典文学大系12 岩波書店 1989/03)と。東山道は美濃国恵那郡坂本駅(岐阜県中津川市)から御坂峠(神坂峠)を越えて信濃国伊那郡阿智駅へ至る。Wikipediaは東山道の歴史でこの一文に触れて「東山道の建設について〔の;みくら補記〕……断片的な記録」とする。
 が、この条文と和銅6年7月7日条「戊辰、美濃・信濃の二国の堺、径道険隘にして、往還艱難なり。仍て吉蘇路を通す」(前掲書P203)を重ね合わせると、『続日本紀』が記録するのは東山道開削ではなく、新しく開削された吉蘇路の工事の始まりと終わりの記録なのではないか。この新しい吉蘇路は、前掲書補注に従えば、「(美濃国)坂本駅からさらに木曽川沿いに恵那郡を北上、県坂(長野県木曽郡木祖村と楢川村との境の鳥井峠)を越えて信濃国筑摩郡に達する」と云々(P428)。
[13]「真坂は、美濃国と信濃国の境近くにある」
 →長野県西筑摩郡山口村(→同県木曽郡山口村)、現在の岐阜県中津川市の馬籠峠が「岐曾の真坂」だ(2005年2月、長野県木曽郡から岐阜県中津川市に編入合併)。美濃国(岐阜県)と信濃国(長野県)の県境で木曾街道の要衝。
[14]「ここより東の各所には関所が新しく設けられ」
 →東国乱れるの報を承けてか、既存のみでは対処しきれず、入国制限・渡航禁止措置を名目にこの時代、関所が各地に新しく設けられたのは事実である。東国からの入国者、西国からの出国者の前に、関所は頑としてその重い扉を開かなかった。
[15]武佐
 →近江国蒲生郡武佐、現在の滋賀県近江八幡市武佐町。江戸時代は中山道66番目の宿場町であった。いまは近江鉄道万葉あかね線の駅がある辺り。安土城址から南へ約2.5キロ弱。先の真坂で山賊に荷物を奪われ、東国へ戻ることを断念した勝四郎は、来た道を引き返して武佐まで来た。行きと同じ東山道を戻ってきたのだ。坂本駅から各務、不破を経て彦根、近江八幡(武佐)へ。岐阜を過ぎたあたりから東山道と中山道はほぼ重なっているようだ。
[16]「感謝し、篤い恩を抱かずにはおれなかった」
 →その割には勝四郎、児玉の家で一宿一飯の恩を返すような描写はない。実際しなかっただろう、ただ寄食して無駄飯を喰らい、日を過ごしただけであるまいか。勝四郎、寄生虫ライフ満喫中、というところか。
[17]「京都へ上って雀部を訪ね、武佐へ戻っては児玉の家に身を寄せる、という生活を続けた」
 →勝四郎って厚顔無恥だな!
 人の世話になり、京都まで歩けるようになってもまだ、自分で生活をどうかしようということもなく、ただただ児玉の家の好意に甘えているばかり。
 宮木はこんな男をよくもまァ、待ったものである。たぶん、漆間の翁がいうように、繰り言の一つもいわねば気が済まぬ、ということであったのだろう。
 宮木が夫の帰りを待ってその晩、〈浅茅が宿〉に現れたのは、ゆめ想いが募っての話ではない。
 「浅茅が宿」はゆめ夫婦の愛の、幽冥の境を隔てた恋物語ではなく、田畑を全部売り払って残る者の生活の糧をすべて奪い、事情ありと雖も約束を破った夫への「この恨み、晴らさでおくべきか」という怨念の物語でもあるように、わたくしには読める。
 どうしようもない夫に対する、妻の報復、これが「浅茅が宿」の本当の顔ではないか?◆

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