第3545日目 〈詩歌集は人生の友である。〉 [日々の思い・独り言]

 『恋愛名歌集』を読みながら、ふと或る疑問が脳裏をよぎりました。萩原朔太郎の詩集、まだ持っていたかな? 岩波文庫と新潮文庫の歌集、詩集は意識的に集めるようにしてかなりの数が集まっていたけれど、火事やら引越やら、スペース確保や換金目的やらで随分と手放してしまった。
 或るとき、必要になって岩波文庫の中原中也詩集を捜したが、どこにも見当たらなかった。諦めて翌日、新刊書店で購入したてふ経験もあったので、中也と同じく学生時代に読んだ朔太郎詩集はどうだったけな、と不安になったのです。──結果? いや、それが無かったんですよ。『郷愁の詩人 与謝蕪村』と『猫町 他二篇』はあるのにね。
 検めると結構な数を処分していた事実が、今更ながら発覚。詩歌集に限らず、かれらの随筆集や評論集のあることも。与謝野晶子の評論集や三好達治、斎藤茂吉の随筆集が、どこにもない。有るのに無いのではなく、無いものは無い、なのである。うわぁ……。
 正岡子規に至っては歌集と『歌よみに与ふる書』以外は軒並み、処分したようだ。捜しても捜しても『仰臥漫録』『墨汁一滴』『病牀六尺』はなかった。なにを考えて、こうしたものまで処分した、当時の俺?
 慌てて、では外国の詩人の詩集は、と検めると、これもまた過半を処分した様子。残っているのはアポリネールとヴェルレーヌ、ボードレール、ジブラーン、岩波文庫から出ていたイギリス、フランス、ドイツ、アメリカの名詩選だけである。ベルトランやホイットマン、ブレイクの詩集も、気が触れたかして処分してしまうたらしい。溜め息も出ません。
 いますぐに読まずとも詩集は手許に置いておくべきであります。なにがあろうと、です。ひとは生きている限りかならず人生のどこかで、心が涸れたり、動揺が鎮まらなかったり、独りし沈思黙考すべき時期に巡りあいます。そうした折に開いた詩歌集──勿論そこには俳句や漢詩も含みます──の、偶々目についた詩歌の一節、一首、一句が、どうしようもなく揺れ動き、鎮まらぬ感情を一時でも宥め、そのまま心を平定させてくれることがある。
 これはわたくし自身も経験していることなので、もう少し論理的に解説することができれば良いのですが、あいにくとわたくしはそれだけの脳ミソを持ちませんので、斯様に普遍的なことだけ述べて失礼させていただきたく思います。
 ただ、紙に印刷された文庫や単行本の詩集には、電子書籍や青空文庫からのDL品からはけっして得られぬ、或る種の落ち着きや瞑想を与えてくれるところがあるのではないでしょうか。さながら人生の同伴者の如くに、友の如くに。
 思うところあって(書架の整理中に発掘した)窪田空穂の歌集、随筆集と自伝を、本稿の筆を執る前にしばらく読んでいましたが、ふしぎと自分のなかが静穏に満たされてゆくのを、単純ながら実感したのであります。

 命とはうるさきものかも 人中にまじればわびし 独あればさびし
(大岡信編『窪田空穂歌集』P320 「丘陵地」哀歓より 岩波文庫 2000/04)

 こんな歌がすぅっ、と自分のなかへ入ってくるとき、ひとは共感や同調から生まれ出た慰めや安寧を感じるのだと思います。◆

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