第3594日目 〈あの女性は覚えているだろうか?〉 [日々の思い・独り言]

 粛々と『恋愛名歌集』メモの書き写しを行っていますが、まだまだ序盤。先は遠い……。
 斯様に「書写」という作業をしてると、自分の文章ではなくテキストを横に置いてその文章を書き写していると、あの人はどんな気持で書き写していたんだろう、途中でめげたりしなかったのかしら、最後まで書き写すことができたのであろうか、と思い起こすこと、しばしばである。──あの人? どこの誰かも覚えていない。そも面識のない人だ。雑誌の投書欄でしか知らない人である。
 1990年代、一旦休刊(か?)して復活した”本の情報誌”で『オーパス』という雑誌があった。新刊情報は勿論、著者インタビューや書評欄、その他読書、書籍にまつわる話題をライトな文章で埋めていた雑誌である。橋本治と清水ミチコが文豪のコスプレをして表紙を飾る、いま考えてみても、うむむ、と唸らざるを得ないカオス的な雑誌だった(そんなことを朧ろ気に覚えている)。
 復刊以前か以後か、覚えていないが、サンリオSF文庫で刊行されていたフィリップ・K・ディックの小説がようやく他社レーベルから再刊され始めた頃だったか。と或る号の投書欄に、一通の、たしか女性からの投稿が掲載された。正確な文面は流石に忘れているが、こんな内容であった。曰く、現在ディックの『ヴァリス』を図書館で借りて書き写している、創元推理文庫が版権を獲得したそうだけれどいつ出るのか不明、自分が最後まで書き写すのが先か再刊されるのが先かスリリングである、と。
 この人は途中でめげたりしなかったのかしら、最後まで書き写すことができたのだろうか。『恋愛名歌集』メモの書き写しをしていると、必ずというてよい程この女性の投書が頭を過ぎる。『ヴァリス』書写は本文だけだったのか、それとも、あの「釈義」も書き写したのか。もし後者であれば、わたくしは素直に脱帽する。直立不動の姿勢で敬礼をしたい気分だ。
 かの女性の時代ならばともかく、いまの時代に手で書き写しているなんて、レトロを通り越してアナログというか時間の壮大な浪費と蔑みの笑いを買っても不思議ではない。聖書読書ノートブログで本文を引用する際も然りであったが、ふと、「俺、なにやっているんだろう?」と小首を傾げてしまうときも多々あった。
 それでも、わたくしは自分の手を使って本のなかの或る一節を書き写し、それに対して自分が考えたことを書き加える作業が好きだ。あとで読み返そうとして、字が詰まりすぎていて判読に困難になったり、なぜか自分の字が読めなくて困ってしまうことも、まぁ偶にはあると雖も、そうやって手を動かして書いた方が、頭に残っているのだ。これは既に教育の現場などでも夙に指摘されていることだけれど、わたくしは自分の──30年以上文章を(いたずらに量だけは)書いてきた体験を以て、「手を動かして書いたことの方が長く記憶に残る(記憶に定着する)」と断言できる。為、萩原朔太郎『恋愛名歌集』も徳富蘇峰『近世日本国民史』〜「赤穂義士篇」も内容を、割と正確に覚えているのだ、と自負。
 ……ということは件の女性も、『ヴァリス』の粗筋は勿論その思想小説ともいえる内容や、訳者が付した「釈義」も覚えている部分がある(あった)ということか。咨、モナミ、これは頗る恐ろしいことですよ。
 ──粛々と『恋愛名歌集』メモの書き写しを行っている。まだまだ序盤で、先は遠い……。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。