第3634日目 〈萩原朔太郎『恋愛名歌集』を読みました。〉02/12 [日々の思い・独り言]

目次
零、朔太郎の事、『恋愛名歌集』を読むに至った事、及び本稿凡例のような物。←FINISHED!
一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。←NOW!
二、朔太郎、「解題一般」にて本書の意図を語る。
三、朔太郎の『万葉集』讃美は、時代のせいもあるか?(総論「『万葉集』について)
四、朔太郎、平安朝歌風を分析して曰く。(総論「奈良朝歌風と平安朝歌風」)
五、朔太郎、『古今集』をくさす。(総論「『古今集』について」)
六、朔太郎、六代集を評す。(総論「六代集と歌道盛衰史概観」)
七、朔太郎は『新古今集』を評価する。(総論「『新古今集』について)
八、恋歌よりも、旅の歌と海の歌?(万葉集)
九、朔太郎『古今集』選歌に触れてのわが所感(古今集)
十、総じて朔太郎は「六代集」を評価する者に非ず。(六代歌集)
十一、朔太郎の定家評に、いまの自分は深く首肯する。(新古今集)


 一、朔太郎が『恋愛名歌集』「序言」で主張すること。
 朔太郎は本書を専ら自分のために編纂した、と述べる。しかもここに挙げる古歌はいずれも、日常愛吟の歌である、とも。
 こんにちでこそ『月に吠える』など詩人として文学史に名を留める朔太郎であるが、詩を──自由詩の書き手として世に出る前は、作歌に励む人だった。むしろ当時としては普通のことで、文学修行に短歌を詠んだ人は他に、たとえば田山花袋や柳田國男などがいた。
 作歌経験なき詩人は果たしてどれだけいただろうか。短歌を詠む/読むはかれらの時代にあって文学の入り口であり、教養であり、前段の如く文学修行になった。まぁ、人によっては短歌に代わって漢詩や俳句、翻訳などになろうが、いまそれは考慮せぬことにする。
 『恋愛名歌集』「序言」に話を戻す。
 短歌は──和歌は、日本独特の抒情詩である、とかれはいう。ギリシアを見よ。ローマを見よ。イギリスを見よ。ドイツを見よ。北欧スカンジナヴィアを見よ。西欧のポエムはいずれもみな、バラッド、長編物語詩より出でて形を成した。然るにわが国はといえば、長歌に付される反歌が独立して三十一文字の短歌になった、という事情はあれど、西欧に見るが如き母胎となる抒情詩を持たずして短歌という純粋抒情詩が生まれた。これを以て独特といわずになんという。
 更に朔太郎は、この独特は、日本語の音律、韻のやわらかさ、自由さ、に拠るものでもある、という。曰く、──

 古来の名歌と呼ばれる者が、いかに微妙な音楽を構成すべく、柔軟自由の不定則韻──それが日本語の特質である──を踏んでいるかを見よ。この点で過去の長歌、今様、及び明治の新体詩等の者は、この平調な同一律の反復から、いたずらに読者を退屈させるのみであって、何等複雑の神経を持たない韻文である。更に現時の所謂自由詩に至ってはほとんど詩としての音楽要素が絶無であり、正直に言って一種の「行わけ散文」にしか過ぎないのだろう。(P8)

──と。
 然るにこんにちの自由詩を場朔太郎はどう見ておるか。同じページで曰く、「今やその曖昧な韻文意識を放擲して、自ら散文に解体しようとして居る」と。かれにいわせるとそれも、韻律、音楽の調べをどこかへ忘れ置き来たったためである、という。令和のこんにちから見ればまるで実感は湧かない──時節と形式を得て然るべく発生したものに映るが、当時を生きてその潮流の只中におった朔太郎にしてみれば、そんな批判の目を向け言葉を吐く程に歌壇は、詩壇は、かつて韻文が持っていた〈調べ〉と、それが自ずと生み出す〈格調〉とは縁を切って、違う代物に化けようとしているように映ったのかもしれぬ。リアルタイムで体験するとは、そういうものである筈だ。リアルタイムを生きないと、見えてこないものもある。
 そんなかれ(ら)にとって『万葉集』や『新古今和歌集』あたりに代表される古典和歌は憧憬の対象であり、「美と芸術への恨めしき懐古」(P10)となるのは宜なる哉。
 ──萩原朔太郎は本書を、本メモ冒頭で述べたように自らのため編纂したのみならず、「歌の正統なる道」(P10)を踏み外したこんにちの歌壇に修整を促す一石としても著した。本書が世に出た昭和6(1931)年5月以後の短歌シーンに於いて、この『恋愛名歌集』が如何程の影響を及ぼし得たか、もしくは否定非難されたか、調べてみるのはけっして無為な作業ではあるまい。併せて、子規『歌よみに与ふる書』でも同じことを改めてやってみて、両者を対比してみれば、様々な事実が発見されて面白かろう。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。