第3675日目 〈腰の痛みに苦しめられた夜。〉 [日々の思い・独り言]

 入院から約2ヶ月、退院から約1.5ヶ月を数える。毎日、血液をさらさらにする薬と副作用を抑える胃薬を各1錠、白血病の薬といっしょに服んで欠かした日はまだない。脳梗塞の、退院後にした精密検査は結果がまだ出ていないので、希望に満ちたことも悲嘆に暮れることもできぬ現在[イマ]なれど、目にも明らかなな後遺症は窺えない。しばらくは脳天気にそれを喜んでおくとしよう。
 そんな風なこと、再発したときの不安や恐怖、諸々を考えながら予後を過ごすこと約1.5ヶ月。慣らし運転を兼ねた仕事復帰もどうやら軌道に乗ってきたな、そろそろ元々復職を望んでいる業界に履歴書・職務経歴書を送りまくるかor(実入りは不安定極まりない低給与ながら)このまま倉庫のバイトに汗水垂らして好きな人々といっしょに時間を過ごすか、決断せねばならんな、と倩思い始めた矢先の、昨日09月04日月曜日の夜、NHK=BSで再放送されて録画しておいた吉岡秀隆版『八つ墓村』を観ているとき、事件は起こった!
 左側のお尻の、横の上部がやたらに痛む。はじめのうちは、椅子に変な格好で坐っていたから左側へ負担が掛かり、そのせいで件の部分が痛むのかなぁ、と思うが精々。肘掛け付きの椅子だと、左右どちらかに体を傾かせた姿勢で長時間坐っていることが案外に多いから、実は斯様な痛みに遭うのは初めての体験ではない。が、この日は──
 痛みはどんどん激しくなってゆく。椅子に坐ったまま何度も何度も姿勢を変えた。痛む部分を伸ばしてみた方が良いかしら、と床に寝転がってもみた。これも何度となく姿勢を変えて、である。むろん、慎ましいこれらの努力はいずれもすべて、無駄に終わった。
 その時点で痛みは、顔を歪める程にまでなっていた。痛みは引かぬし、収まる気配もない。アンメルツを景気よく塗りたくってみたが、結局残量を減らすばかりのことじゃった。
 鈍痛に耐えながら『八つ墓村』を観終わった。HDDからは即効削除。時刻は大体23時頃。それからシャワーを浴びた。この行いが良かったのか、正しかったのか、いまでもわたくしには分からない。ただ日常のルーティンを変えたくないが為の、シャワーである。咨、これは天道、是か非か。とまれシャワーのあとは髪が乾くまで痛みに顔をしかめつつ椅子にゆっくり浅く背筋を伸ばして腰掛けて、麦茶を飲んだ。痛くても暇だった。時代劇専門チャンネルで放送中で、これまた録画しておいた加藤剛=山形勲版『剣客商売 ’73』第14話「三冬の女心」をぼんやりと観て過ごす(『剣客商売 ’73』の「’73」はその後の藤田まこと版『剣客商売』他と区別するための局側の都合だろうか)。
 その間のわたくしは、かなりの仏頂面だった様子。いやもうね、自分でそうと分かってしまうくらいだからその痛み具合は世人よ、推して知るべし、である。その間にわたくし思うに、痛みを覚える範囲(面積?)はほんのちょっぴり狭まった──が比例するように痛みは皮膚の下へ下へと潜って肉の内側から周囲に飛散してゆくが如く……である。
 まっすぐ立つこともままならなくなった状態で、普段よりも少しだけ早い時間だけれどベッドへ向かう。寝台に体を横たえる、というよりも投げ出すようにして、倒れるようにして横になり、荒い溜め息吐きながら呪詛と悪態の言葉を呟いて、母が亡くなって半年余を経てはじめて聖書を開くも視界がにじんでいたのですぐに閉じ、電気を消して目を瞑った──。
 が、左の脇腹から臀部(左)の真ん中あたりの痛みがひどくて心安まる瞬間だになく、仰向けになっても横向きになってもそれを忘れることができない。むしろ覚える痛みは更に強く、肉を抉ってくるようである。咨こん畜生、なんで自分ばかりがこんな目に。家のために骨身を削って働いている自分がどうしてこんな苦痛に遭わねばならぬのか。こんな目に遭うべきはあの生産性なき穀潰しの方であろうに。暗闇に向かって吐き出される言葉は、呪詛と悪態ばかりである。
 確かにあの日以後、わたくしは死を望んだ。もうじゅうぶん頑張ったがこれ以上は方々に不義理と迷惑を掛けるばかりだから、もういっそのこと、そちらへ連れていってくれまいか、と願った。が、けっしてこんな形で実現することを頼んではいない。
 遂に耐えかねて、湿布を貼った。じきに患部がとても温かくなったけれど、それは痛みを忘れさせるものでもやわらげるものでもなかった。枕許の時計は、午前03時12分。既に床に就いて2時間が経とうとしている。痛みは増してゆく。救急車を呼ぶことも考えた。この程度で呼んでよいものか、迷う。時間も時間だ。サイレンを鳴らして来られたら、ご近所の健やかなる眠りを妨げて迷惑だろう。好奇心を隠そうともせず外を覗い、わが家に目を凝らす衆の存在することには耐えられない。こんなとき、「あなた」がそばにいてくれたら良いのに。「あなた」がそばに住んでくれていたら良いのに。
 スマホで症状を入力して、検索してみた。筋肉痛(この推測ははじめからしていた)以外にも、仙腸関節障害とか、梨状筋症候群、股関節障害、腰椎間板ヘルニア、坐骨神経痛、などゾッとさせるにじゅうぶんな推定病名が羅列されていた。腹の痛みも伴っている。ちゃんとご飯を食べたのに空腹を覚えてしまう感覚だ。腹の痛みに関しては、お通じが出ないことにも起因しているだろうか。ならば、母が生前訴えていた腹の痛みとは、斯様なものであったろうか。わたくしも、大腸癌なのだろうか?
 以前、脳梗塞の本で読んだ、もうちょっと様子を観てみようと受診を先延ばしにしていたら却って深刻な症状になり、後遺症が残ってしまった、という記述が脳裏をかすめた。脳梗塞のときは早い段階で救急車を呼んで病院に担ぎこまれたから、いま後遺症と呼ぶべきものとは(一応)無縁で過ごすことができている。が、今度もそうだ、と楽観できない。やはり救急車を呼ぶか、しかしこんな時間に呼んだら……と逡巡、堂々巡りしているうち、あまりありがたくないタイミングでわたくし、眠りに落ちてしまったのだ。
 ──シャッターに当たる雨音で目が覚めた。07時56分だった。無意識に手が、湿布を貼ったあたりへ伸びる。まだ痛みは引いていない。が、治まってきているようだ。皮膚に広がる痛み、肉を抉るような痛み、いずれもまだ残っているが、昨夜よりはその範囲も縮小してしてきたようだ。
 とはいえ、やはり痛みで顔をしかめてしまうのは事実である。幸い夕方まで予定はないからそのままベッドに寝転がり、耐えられなくなったら適当に理由をくっつけて動き回るを繰り返して過ごした。いつの間にか、雨はあがっている。その代わり、千葉を震源とする地震が2回、あった。
 苦しくても立たなくてはならない。痛くても為すべきは為さなくてはならない。
 果たされるべき使命のためにわたくしは午後、家人の心配、制止の声を振り切って、家を出た。準備はその前からだらだら、だらだらとしていたが、ここ数年馴染みとなった怠惰と脱力と疲労を御しつつ御されつつしていたら、いつもであれば数十分で済む準備に何時間も費やしてしまった次第。勿論このなかには、新しく湿布を貼ったり、手許不如意ゆえの血液内科の受診当日CXの連絡も含んでいる。
 そうして出発、体を動かしているうちに、徐々に痛みが治まってきているのを感じた。少なくとも鈍痛を覚える間隔は延びてきている。いまは21時24分、まだ外出先なんだけれど、これが快癒に向かっている証しなのか、一時的なわが健忘なのかは不明である。気のせい、って可能性もあるだろう。ただ確かなのは、24時間前と同じような姿勢(椅子に坐っている)をしていても、覚える痛みは格段に軽くなっている、ということ。あゝ、どうかこのまま、痛みが引いて健やかなる眠りが我にもたらされ、前述のような病気とは無縁の一時的な筋肉痛でありますように。斯様な痛みと(原因についても)縁が切れて、明後日からまたいつものように仕事することができますように。切に、それを願う。生を全うして、あの世に逝きたい。
 昨年6月の白血病、7月の脳梗塞、2月と今月9月の擦過傷(左母趾)、昨夜の腰から臀部に掛けての激痛。ここ一年余のわたくしの体はいったいどうなってしまっているのか。これらを訓として健康な生活、健全な生活を送れ、営め、ということか。とまれ「健康」のありがたさ、大切さを、身を以て知った一年余であったことに変わりはない。
 まだ、わたくしは生きている。まだわたくしは、生きていたい。いま死んだら、これまで頑張ってきたことがすべて水疱に帰すではないか。病よ、もうわたくしを苦しめるな。退け、死よ、まだ来ないでくれ。◆

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