第3677日目 〈自伝の一コマ。〉 [日々の思い・独り言]

 「一つの風景が次の眺めを誘う」──どこで知った文句であったか忘れたが、最初の小説(※)でそれを用いたのだけは覚えている。たしか推敲する前の、初稿の段階でそれはあったはずだから、かの文句を思い着いたかなにかで読んだかしたのは、17-8歳の頃であったろう。
 17-8歳! なんと夢見がちで、怖い物知らずで、可能性にあふれ、世間知らずだった年齢! 甘美な揺りかごのなかにいるのを許されるのは、あと数年ということも知らずに呑気に過ごしていられた頃……!
 わたくしにもそんな時代があったのだ。われながら信じられぬことではあるけれど、そうでなかったら「いま」生きてこうして文章を綴っていないからね。そんな時代があったことを信じてもらうより意外にない。
 しかし、なんと途方もない時間を過ごしてきたのだろう。年長者からは「自分より若いお前が、そんな達観したようなことをいうな!」と叱咤されるかもしれないが、半世紀超の人生を顧みて斯く感慨してしまうことを邪魔される謂われは一切、ない。
 途方もない時間を過ごした。どれだけ実りのある時間であったか──そうお訊ねになるか。実態を知ってのご質問か。そうなら、なんと意地悪で悪趣味か。答えは「否」だ。顧みて──長い目で見て、充実した人生であった、と満足できることはない。
 先輩たちと違って、長期的な人生設計図を描けなくなった世代が、われわれだ。しかもその原因は、われらにはどうすることもできない類のそれで……。中短期の仕事が世にあふれたお陰でどうにか今日まで生きてこられたけれど、もう限界のときが近附いている。わたくしは、敗けたのだ。時間の浪費と辛抱不足が、それを招いたのだ。
 歴史に「IF」なし。時間を遡ること能わず。いずれも承知している。が、もしやり直すことができるなら、17-8歳の頃へ戻りたい。その延長線上で会うべく人に会えなかったとしても、だ。その年齢ならば、まだ間に合う。まだ、生きている。正しい未来を選択できる。正しい道を外れることなく逸れることなく、歩いてゆける。
 だから──。

 彼[南王国ユダの王マナセ、連行先のバビロンで]は苦悩の中で、自分の神、主に願い、先祖の神の前に深くへりくだり、祈り求めた。神はその祈りを聞き入れ、願いをかなえられて、再び彼をエルサレムの自分の王国に戻された。こうしてマナセは主が神であることを知った。(歴下33:12-13)◆



「初めて書いた小説」ではなく、自分の名前で世界へお披露目できる「最初の小説」の意味。
 これ(『六月の二週間』)に続くのは掌編「雪中桜」、『それを望む者に』、『ザ・ライジング』と『エンプティ・スカイ』、『人生は斯くの如し──ヘンリー・キングの詩より』、『美しき図書館司書の失踪』、くらいであろうか。□

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