第3686日目 〈『野呂邦暢ミステリ集成』から、ミステリにまつわるエッセイに「ふむふむ」する。〉 [日々の思い・独り言]

 野呂邦暢のミステリ小説にまつわるエッセイが、『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫 2020/10)に幾つか載っている。
 申し訳ないが小説よりもエッセイの方を、ずっと面白く読んだ。一篇の作物としてもそうだけれど、そのなかの一節に惹かれた。時に首肯し、時に懐かしみ、時にクスクス笑いを抑えられなくなり。
 たとえば、──

 ミステリに機械仕掛のトリックは無用なのである。大ざっぱにいって、あちらのミステリには右翼の黒幕とか、不動産業者と結託した通産省の課長補佐は登場しない。犯人は内なる声に命じられて人を殺す。殺人は宿命なのである。彼があるいは彼女がみじめな境遇におちいったのは、他人のせいではなくて、当人の問題である。国産のミステリはごく少数の例外を除いて、犯行は社会が悪いからということになっている。みんな他人のせいということになる。すなわち女々しいのである。(P295-6 「南京豆なんかいらない」)

 これは、首肯、である。納得、と言葉を換えてもよい。機械仕掛のトリックは無用。わたくしもそう思う。事前に準備をこらすのは結構だけれど、被害者──ターゲット──が予測通りに動いてくれなかったら台無しになるトリックは、いただけない。犯罪は人間の手に為る。ゆえにトリックはシンプルであればシンプルである程、良い。機械仕掛に頼るトリック程、名探偵の頭脳に罹れば砂上の楼閣に等しいのだ。ホームズもいっている。曰く、「人間の発明したものなら、人間に解けないはずはありません」(「踊る人形」〜『シャーロック・ホーズの帰還』P70 延原謙・訳 新潮文庫 1953/04[1985/12 61刷])と。機械仕掛けに頼らぬトリックの方が、すこぶる難物である、ということにもなろうか。
 トリックをシンプルにするということは、必然的にそちらに関する描写の比重は少なくなり、差分は自ずと人物造形、人間関係の書込みに費やされる。人物描写と細部の描写が巧く書ける作家は、単純なトリックで素晴らしいミステリ小説が書けるはずだろう。

 また、──

 年に何回か上京するつど、神田や中央線沿線の古本屋街をうろつく。
 早川のポケットミステリそれも初期の発行ナンバーが百番台から三百番台の数字がついているものを探すためである。このシリーズを揃えている店が、神田に一軒、早稲田に二軒ある。中央線沿線にも一軒ある。店名はあえて書かない。(P293 「南京豆なんかいらない」)

 これは、懐かしさ、である。
 セピア色になりかけた記憶に早稲田はともかく、神田の一軒はしっかり残っている。学生時代から20代を通して、この古本屋にはずい分お世話になった。多量のペーパーバックをここで漁り、ポケミスや銀背、創元社の叢書の端本を発掘し、ハヤカワ・ミステリ・マガジンの(お目当ての)バックナンバーを揃えた、あの古本屋。訪れた文筆業者は星の数、かれらのエッセイにはしばしば登場する、あのお店。なつかしいなあ……。
 もう一丁、──

 推理小説とはいうものの、私が読みながら犯人を推理したことは一度もない。わずらわしい世事を忘却するために読む本である。そんな面倒なことに誰が頭を使うものか。すこぶるいい加減な読者なのである。推理なんかしなくても犯人の見当はつく。いちばん犯人らしくないのが犯人に決っている。そう思えば間違いない。(P291 「マザー・グースと推理小説」 ※)

 ──クスクス笑いが抑えられない。なんだ、あなたもですか。そんな気持になる。読みながら犯人を推理したりしない。わたくしのことではないか。犯人は普通の面構えをしているものなのだ。そんな面倒なことに誰が頭を使うものか。わたくしのことではないか。赤鉛筆片手に捻り鉢巻きで額に脂汗垂らして読むような代物ではないし、ミステリ小説はただの気分転換であり、浮き世の憂さを一時的にでも忘れるためにある。わたくしもいい加減な読者なのである。つまり、ここに同好の士を見附けたのだ。
 『愛についてのデッサン』(ちくま文庫)と本書だけが現在は、野呂の単独名義で出ている文庫である。いずれもミステリ小説集である。野呂の全文業を見渡したとき、かれのなかでミステリ小説の執筆がどれだけのウェイトを占め、また単純に「余技」以上の意識を持って筆を執っていたのかどうか、わたくしには分からない。
 が、ミステリ好きが高じて執筆に手を染めた者だからこそ、プロパー作家以上に自分好みのミステリ、<わがミステリ観>というべきものをストレートに表出した作品が書ける。逆説ではない。自然の理だ。坂口安吾、戸板康二、福永武彦、柴田錬三郎、大岡昇平、小沼丹、田中小実昌、小泉喜美子、先人の名を挙げ始めれば枚挙に暇がない。その系列に、野呂邦暢も属する。かれらの筆から生まれた作品が大概、ミステリ小説というジャンルへの一種の信条告白となるのは、同じく自明の理だろう。
 ここに載ったエッセイは、一愛好家としてのみでなく実作者としてミステリ小説の筆を執った野呂の、ミステリ愛、ミステリ観を過たず伝えてくれている。量はわずかであってもこうしてまとまってミステリ小説についてのエッセイが読めたことを、一人のちっぽけなミステリ好きとして幸福に思うている。
 これは、小沼丹『古い画の家』(中公文庫 2022/10)といっしょに今日、2023年10月20日(金)横浜そごう7階の紀伊國屋書店にて購入した。そうして本篇初稿は同じ日、市役所裏のスターバックスでモレスキンに書いた。これから知己が期間限定で開いているスナックへ、行く。◆

※ 実は丸谷才一にも、野呂と同趣向の発言がある。曰く、「むかしの人は探偵小説を犯人当てだと考えたわけね。あれは間違いで、あんなものは当たるに決まってるんですよ、真面目にやれば。あまり真面目にやりすぎると、またはずれるんだけれど。だからいい加減に考えて、それで遊ぶ。それが読み巧者の態度でしょう」と(『快楽としてのミステリー』P23 ちくま文庫 2012/11)。
 ミステリは知的遊戯である。が、それに真面目に取り組む必要はない。ただ気持ちよく騙されておればよいのである。□

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