第3689日目 〈ぼくは素直な読者。〉 [日々の思い・独り言]

 思うに、ぼく程素直な読者もいないのではないかしら?
 自讃ではなく、本心からの述懐だ。というのも、──
 しばらく中断を余儀なくされていた、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』(光文社文庫 2015/05)をふたたび読み始めた。読み挿しの期間がすこぶる長くなると、だんだん読書の意欲は失せてゆくのが、わたくしの常。とはいえ二篇を残すのみなんで、このまま中断して書架へ仕舞いこむのも後味が悪い。二篇は足しても70ページくらい。ならば、憲法やホームズの本を数時間我慢して、こちらに集中しよう……。
 そうして先刻、野村胡堂「紅唐紙」を了えた。愉快で気持の良いミステリ短編だった。胡堂の小説といえば《銭形平次シリーズ》しか思い浮かばぬくらい、その光芒は燦然と輝きそれ以外のフィクションの存在を影薄くしてしまっているが、「紅唐紙」もかの名作捕物帖に隠れて目立たずにあった一作。
 新保博久の解説に拠れば「紅唐紙」は、昭和2/1927年8月の報知新聞に《奇談クラブ》シリーズ第一話として掲載された由。現代を舞台にした連作ミステリというが、その後も書き継がれて新シリーズ《新奇談クラブ》もあるというから、当時の読者にはマダ野村胡堂イコール銭形平次という固定観念は生まれていなかった、或いは定着していなかったのかもしれない。
 「好事家の知識人(でなくてもよいのだが)が寄り集まり会員同士、ときにゲストを招いて珍談奇談を披露するデカメロン形式の連作だが、物語を荒唐無稽に堕とさせないための枠組みに留まらず、事態の解決に会員が乗り出す場合もある」(P390 解説)、胡堂のこのシリーズ、いつか全篇乃至数篇でも読んでみたい気にさせられることである。
 ところで、いつ須藤老小使はみんなにお茶を運んできたのだろう?
 ここで話は冒頭に戻って、自分程素直な読者もないのではあるまいか、の件。それは次の一篇、最後の一篇に起因する。
 〆を飾るは、江戸川乱歩の名編「D坂の殺人事件」。古書もしくは古書店をテーマにした国内作家のアンソロジーでは、夢野久作「悪魔祈祷書」、野呂邦暢「本盗人」と並ぶ定番である。とはいえ、作品のセレクトを担当する新保は、解説から察するに、「D坂の殺人事件」を収録するに際して、新潮文庫や創元推理文庫、光文社文庫他で簡単にアクセスできる決定稿を採用するのは忍びなく芸も無い、と考えていた様子。
 斯くして本書で最終的に採用されたのは、《大衆文化》2号(立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター 2009/09)に写真版と翻字が載る草稿版を底本に、可読性を優先して適宜編集を施したヴァージン。以前程熱心に乱歩を読んでいるわけでもなく、舞台裏に関心を抱くのでもないから、まちがっていたら申し訳ないけれど、草稿版が通読に耐える形で一冊の本に入るのは初めてではないか。
 胡堂を読み終え、乱歩に行く。と、ここでわたくしは自宅にとんでもない忘れ物をしてきたのを思いだした。むろん、乱歩とかかわりのあることだ。即ち、──
 新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』を持ってくるのを忘れたのだ。これは、「D坂の殺人事件」決定稿を収める。
 この忘れ物に気附いてわたくしは、そのまま胡堂から乱歩へ読み進めるのをやめた。潔く、パタン、と文庫を閉じたのだ。
 え、どうしてか? って?
 草稿版冒頭に、「先に決定稿を読んでから、この草稿版を読んでね」と<良い子へのお知らせ>があるからだ。
 それに従う。どの道、筋らしい筋も覚えていないから、再読の好い機会である。が、決定稿の収まる文庫を、いっしょに持って出なかった。これでは<良い子へのお知らせ>が守れない。
 為、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』をパタン、と閉じた。草稿版は、決定稿を読んでからのお楽しみとしよう。
 ね、ぼくって素直な読者でしょう?◆

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