第3690日目 〈歳月の下に記憶は埋もれる ──ミステリ小説再読のタイミング。〉 [日々の思い・独り言]

 個人差があるのは分かっている。これは君、モナミ、あくまで ”わたくしの場合” なんだ。
 一遍読んだミステリ小説は、自分の愉しみとして読んだのなら再読するのは7年後が理想だ。自分を被検体として実証を試みた末の結論である。
 どうして7年後? ──うむ、7年、という具体的歳月に支障あるようなら、もっと短いスパンでもよい。要するに、一年単位で間を置け、ということだ。
 だから、どうして? って訊いてるんだけど? ──急かすな、モナミ。眉間に皺寄せて迫る程のことじゃあないだろう。じゃあ、さっさと答えなさいよ。
 ウィ、マドモアゼル。
 理由は単純だ。それだけの歳月が流れるうちに記憶は薄まり埋[ウズ]もれる。粗筋は勿論、真犯人や動機、アリバイ、トリック、ミスディレクション、ちょっとした台詞や表現の煌めき、そんなもの忘れ果てるにじゅうぶんな時間ではないか、7年とか一年単位の経過なんて。
 覚えていられる作品の方が却って稀少と思うんだ。個人差があるのは分かってる。が、いったい誰が、『そして誰もいなくなった』とか『アクロイド殺し』、『Yの悲劇』の衝撃を忘れられるっていうんだい? 忘れようとしても難しい。でも、そんな作品の方が珍しいんだ。大概は、すこしの間記憶に留まって、やがて消えゆく。
 乱歩の「D坂の殺人事件」(『江戸川乱歩傑作選』 新潮文庫)を先刻一時間ばかし再読したが、いやあ、密室に等しい古本屋で発生した殺人事件の真相を明智小五郎が突き止める話、くらいしか覚えていなかった。犯人、誰だっけ? どうやって殺したんだっけ? 犯人は如何に密室から姿を消したのか? 等々全体の三分の二あたりまで来て、薄々察してきた(思い出してきた)ことである。
 試しに他の作品──鮎川哲也「達也が嗤う」、栗本薫『鬼面の研究』、小森健太朗『コミケ殺人事件』を読み返してみたけれど、前回の読書からおそらく10年から5年近くの歳月を挟んでいることもあり、やはり乱歩同様の事態が生じた……というよりもこちらの作品については肝心の粗筋まで即座には思い出せなかった程なんである(この三作は意図したセレクションに非ず。書架に挿してあったもの、積まれていて偶々背表紙が目についたものを、テキトーに持ってきたのである)。
 歳月の流れに埋もれた記憶は、此度の再読によってようやく甦りけり。とはいえ、またしばらく経ったら、忘却のレイテ河を流れてゆくことになるのだろうなあ。
 おゝ、モナミ。ミステリ小説の再読は7年後が理想、というのは上述のような、わが身を被検体とした実証の結果なのですよ。
 ご理解、ご納得いただけましたでしょうか、わが君?
 ──ううん、全然。今夜、ゆっくり話しましょう。
 ウィ、マドモアゼル。◆

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