第3691日目 〈江戸川乱歩「D坂の殺人事件」(草稿版)を読みました。併、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』読了。〉 [日々の思い・独り言]

 未完、という最大級の難点こそあれ、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』所収江戸川乱歩「D坂の殺人事件」(草稿版)は、如何に推敲して作品のクオリティを高めるか、を考え実行する格好の材料となる。
 あらかじめ新潮文庫『江戸川乱歩傑作選』で決定稿を読んで、両者の相違を目の当たりにして思わず唸ってしまった。名作の成長過程をわずかならが覗き見した気分である。成る程、ふだんわれらが親しむテキストの前段階はこうなっていたのか。草稿版と決定稿の間にある差異と不変の点……なにを改め(消し)、なにを活かした(残した)か。二つのヴァージョンを読み較べると、よくわかる。
 まず、構成が異なる。決定稿では名探偵の登場は数ページを繰ってのことなのだが、こちら草稿版だとのっけから登場しているのだ。しかも、書籍の谷底に埋もれて、崩れてきた本を体の上に乗っけたままよく寝られるな、と感心する寝相で。
 同時に、事件現場と死体の発見が向かいの喫茶店の客によってされるのは変わらないが、明智とその知人が決定稿ではその役を担うのに対して、草稿版では増野なる人物にその役があてがわれている。むろん、警察相手に供述するのも指紋を採られるのも、後者では増野である。
 D坂の古本屋で殺されたのはそこの店主の細君だが、殺害方法が異なる。一方は絞殺だが、一方は射殺なのだ。しかも銃撃音を耳にした者はない、とある。
 寝ている明智を叩き起こして事件について話するのは、決定稿は喫茶店で一緒になり共に殺害現場を発見した知人だが、草稿版は現場を見ている警視庁の、知己である小林刑事である。
 人称も、決定稿が知人の一人称であるのに対し、草稿版は三人称となっている。
 加えて、前述のように草稿版は未完、ミュンスターベルヒ『心理学と犯罪』を読ませたところで筆が擱かれている。
 いったい犯人は誰なんだ、とフラストレーションの溜まる場面だ。ちなみにいま、草稿版を読み返したけれど、決定稿で真犯人として挙がった人物は未登場である。
 ──乱歩が草稿版を、いよいよ……というところで破棄したのは、すこぶるプロットに無理があるのを感じていた折も折、相応しい位置に立つ犯人(それは犯人の性癖の痕跡の追加にも繋がる)を想像し得たことから必然的に為された中断ではなかったか。それをきっかけにプロットの練り直しが行われ、やがて決定稿に繋がっていったのではないか。
 わたくしは乱歩の熱の入った読者ではないし、研究文献なぞ殆ど持たぬ光文社文庫版全集のエッセイや評論の巻を所有するに過ぎないから、識者の発見や研究がどのようにこのあたり結論附けているか知らないけれど、アマチュアながらも自分が実作者の側に立ち、かつ作品を中途で破棄してそのままだったり再生させたりした経験を踏まえて、<乱歩先生草稿版中途で破棄>問題を斯く想像するのである。
 この草稿版は、可読性を優先して適宜編集が施されたヴァージョンだ、と昨日触れた。読み通すことのできるテキストが提供されたことを、喜びたい。冒頭に、判読不明や編者補足の凡例があるので、それが読書にどう影響するか危惧したけれど、該当する箇所はそれぞれ一箇所のみで、読書に際してまったく停滞失速をさせるようなものではなかった。
 《大衆文化》二号に載る翻刻も覗いてみたけれど、同じ箇所を較べたとき、『古書ミステリー倶楽部 Ⅲ』で翻字を担当した落合教幸、構成を担当した新保博久の苦労と健闘を讃えたくなる程件の写真版とその翻刻は、可読性という一点に於いてかなり劣るのだ……。校訂テキストの作成、定本化の作業には、詳細な校異表があれば事足りるわけではない。読書を享受するばかりの人は案外気附けぬそんな単純な事実を、この草稿版が教えてくれる。
 「D坂の殺人事件」(草稿版)は乱歩の創作姿勢の一端を垣間見せる貴重な記録であると共に、より良いテキストを作成して読者に提供せんとする二人の従事者の努力と執念の賜物というてよい。今後、ちょっと深入りしたい乱歩読者は一遍でも、この草稿版に目を通してみるとよい。◆

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