第3694日目 〈日本人のキリスト教文学・導入部。〉 [日々の思い・独り言]

 小山清の随筆「聖書について」にある。曰く、──

 聖書は晦渋な書物ではなく、キリストは難解な人物ではない。「赤と黒」を読めばジュリアン・ソレルが解るように、新約聖書を読めばキリストが解るのである。ジュリアン・ソレルは素晴しい。けれども、それよりもはるかにキリストは素晴しい。聖書をキリストを主人公とした小説として見るならば、古来のどんな小説のどんな劇の主人公も、キリストの前には色褪せてしまうであろう。四福音書の主人公ほど魅力に富んだ、私達の持続的な関心を繋ぐ対象はないのである。(『落穂拾い・雪の宿』P331 旺文社文庫 S50[1975]/12)

──と。
 首肯するよりない。四つの福音書と「使徒言行録」、パウロ書簡、公同書簡を読むと、著者の立場、キリストとの距離や関わりの深度、著者の思想等によって把握できるキリスト像に多少のブレはあっても、虚心に無垢に、されど能動的に新約聖書を読んでゆくと、読者の眼前には朧ろ気にでもナザレのイエスの姿が立ちあがってくることだろう。
 しかし、日本人にとってイエス・キリストは未だ異教の神扱いで得体の知れぬ、歪んだ捉え方をされているように映る。小山が力説するように、新約聖書(ここでは共観福音書と「ヨハネによる福音書」を指すが)はイエスの伝記小説として読むことはけっして邪道でもなんでもない。古典はあらゆる読まれ方を可能にする。信仰の書物としてよりも、歴史文書としてよりも、その方が一般的には親しみやすく、ハードルも低くなるだろう。
 が、あくまで(すくなくとも)四つの福音書を読むことに──それは取りも直さず「新約聖書」という書物を手にすることだ──抵抗のない人に限った話である。信心ある人、興味ある人、好奇心に素直な人、教会に行ったことある人。それくらいではないか。新約聖書を繙き福音書へ向かう人は。
 でも、そうでない人々──潜在的読者──の方が圧倒的に多かろう。そうした層をターゲットにした、福音書をベースにしたフィクションが世に幾らも存在するのは、なかなか一歩を踏み出せずにいる/手を伸ばせずにいる人々がある一証左に他ならぬ。ウォルター・ワンリンゲンやF.W.クロフツ(そうだよ、あのクロフツだよ)の小説が翻訳されて巷に出回っているのは、単に著者のネームバリューや題材の珍しさにばかりあるばかりではない。つまり、心の障壁を(取り除くことはできないまでも)低くするのに一役買っているのだ。
 とはいえ、先程も触れたように、日本人にとってキリスト教は、その本質は、その中核は、イエスについて諸共馴染み薄い外国発祥の宗教であり、捉え難い部分ある、知識の偏った異教でしかない。日本人のなかに染みついて離れぬそんなキリスト教感は、おそらく江戸時代からどれだけ進歩したか怪しいものである。
 うわべの祭事だけ取り入れて実態はネグレクトされてきた〈日本化されたキリスト教〉。非キリスト者が祭事を受容することで〈骨抜きにされたキリスト教〉。日本人とキリスト教の関係は、馴染み深くあるように見えてその実著しく懸け離れている。それはフィクションを例にしても、端的に理解できそうだ。
 日本の小説、戯曲、詩歌でキリスト教をベースにした……いわゆる「キリスト教文学」とカテゴライズされる作物は、果たしてどれだけあるだろうか。日本人の精神風土、魂の領域もあってか、その数はどうしても限られてしまう。まともな形で題材にした作品を探しても、そう多くはない。どうも日本の小説家は(就中1980年代以後にデビューした衆は)宗教的要素・教養を自然な形で作品に落としこみ、昇華させる能力に欠けるようだ。誰何してみて名を挙げられるのは一人としていない。それゆえか、それ以上前の世代の作家となる小川国夫と遠藤周作、高橋たか子、三浦綾子や曾野綾子の存在がやたらクローズアップされて、作品群を無視するのがおよそ不可能なのは。
 そのあたりの事情と背景を推理し、小川や遠藤、髙橋や三浦たちの作品について駆け足ながら述べること可能であればこんなに愉しいこともないのだが、いざ作業に取り掛かろうとして、とてもじゃないがいまの自分の手に余る作業であると気附かされた。
 為、これは後日の宿題とし、その間にかれらの作品やエッセイを改めて読み返したり、これを契機に新しく手にしたりして、メモを作り実際の筆を執りたい。本稿、尻切れトンボの感は否めぬが、無理をして箸にも引っ掛からぬ代物をでっちあげてお目汚しするよりはマシだと思っている。ハレルヤ。◆

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