第3696日目 〈上林暁『命の家』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 家族の前では、人目ある所では、読むこと憚られる短編集だった。
 上林暁『命の家』(山本善行・編 中公文庫 2023/10)である。
 著者の妻は戦前精神を患い戦後すぐに亡くなった。上林は空襲の激しくなる時期にも東京に留まり、入院生活を送る妻を見舞ってそばに居続けた。そんな日々の産物が、代表作「聖ヨハネ病院にて」をはじめとした〈病妻物語〉だ。本書はその病妻物語をまとめた一冊。然れどこのカテゴリーに入る作品はまだまだある、と編者はいう。
 いまでこそ伴侶を得、子宝にも恵まれたわたくしだが、十代の後半に婚約者を病気で亡くした。その傷が、その哀しみが、その喪失感が癒やされることも、他のなにか(だれか)によって埋められることはなかった。からっぽの心を抱えて生きていたのだ。
 そんなじきに、上林の小説を初めて読んだ。講談社文芸文庫の『聖ヨハネ病院にて・大懺悔』である。あのとき以上に病妻物語の諸編はわたくしの心を刺激する。突き刺さってくる。そうして、抉ってくる。血が流れて瘡蓋になるまで時間を要す。奥方様を得た代価のようにしてゆっくり慰撫された哀しみや傷が、その存在を忘れるな、と警告してくる如き痛みを覚える。
 忘却してゆくは咎か? 想い薄れることは罪か? 奥方様と結ばれ子を得たるは万死に値するとかや?
 ──『命の家』は、上林の妻が発症して病院に運びこまれる「林檎汁」で始まり、著者のうら寂しい生活や妻の容態をつぶさに描いた諸篇を経て、妻亡きあとを描いた「弔い鳥」や「聖ヨハネ病院再訪」で閉じられる。
 読み進めてゆくうちに、家族の目を避けて読むようになった。夜更けの片隅で、木枯らしの夕暮れに、鈍痛覚える足を引きずり外を逍遙したりして。──だんだんと追いつめられていったのだ。これまで封印したり、目を背けたり、弱まっていた亡き婚約者への気持ち、思い出、声や姿が、一篇読了するごとに徐々に生々しいものとなってゆき……闘病の末看取る人亡く逝った妻への慟哭に充ちた「嬬恋い」で、遂にこれまでこらえてきたものがみな爆ぜた。これを読んでいることに奥方様が気附いたのは、そのときである。
 ……わたくしには、私小説作家に惹かれる気質があるらしい。花袋も秋江も問答無用で好きになった(むろん、かれらの文業がそこに限定されたものでないことは百も承知)。ここに、上林暁が新しく加わった。文章に猥雑さのないのがよい。吟味された言葉で書かれた、磨き抜かれた文章である。それゆえに著者の思いがじっくりと、さらさらと、読み手の心に染み通ってゆくのだろう。時間がどれだけ経ったとしても、読者の心のどこかで静かに息づくのだろう。
 後年上林は、脳溢血(脳出血)に倒れた。が、様々障害を抱えながらも歿するまで筆を執り続け、幾冊もの作品集を世に送った。脳出血とは、脳梗塞と同じく脳卒中の一病名である。上林は二度目の脳出血で後遺症が残ったそうだ。脳梗塞の再発率は50%と聞く。二度目に怯えるわたくしの琴線に触れた点であるのは、もはや否応なし、である。そういえば小山清は脳血栓が原因で失語症を患った。脳血栓も脳梗塞の一種だ。かれらを好きなのは、まさか再発に備えてのこと? いや、まさか。
 「上林暁は、自分に向かってきた悲惨な出来事を、闘いはしないがそこから逃げないで、その正体を見つめ、できるだけ正直に書こうとした。このことが読むものにとって、大きな救いとなっている」(P380 「編者解説」)
 サウイフフウニ、ワタシモナリタイ。
 戯れ言はともかく、「闘いはしないがそこから逃げないで、その正体を見つめ、できるだけ正直に書こうとした」──この点こそが、上林暁と他の私小説作家を明らかに区分する一線であるかもしれない。この点こそが、編者を上林文学にのめり込ませて、近年は何冊もの上林作品集を編むに至る根源かもしれない。
 病妻物語は『命の家』に収まる以外にもまだある、という。「もしこの『命の家』が多数の読者に受け入れられたら、続篇でもう一冊出して病妻物語完全版を作りたい」(P374 同)とは編者の願い。
 山本さん、中公文庫編集部さん、もう一冊、出してください。買います。握玩・愛読します。◆


命の家-上林曉病妻小説集 (中公文庫 か 95-2)

命の家-上林曉病妻小説集 (中公文庫 か 95-2)

  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2023/10/24
  • メディア: 文庫




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