第3699日目 〈「《シェイクスピア読書ノート》のためのメモ」のメモランダム。〉 [日々の思い・独り言]

 暇を見附けて耽っているのが、シェイクスピアの戯曲の版本、出版に関するメモ作りであります。何事もなければいまくらいの時季から、一ト月に一作程度の進みでシェイクスピアの戯曲を、ほぼ確定した執筆順に読んで、作品の背景や内容、感想、鑑賞ポイント、基にしたオペラや声楽曲の紹介など何回かに分けて書いていたのですが、障り事慶事などいろいろあって未だに取り掛かれていません。現時点では一年先延ばしての実施(なんだか消費税増税みたいですね)が、可能性としてはかなり濃厚……。
 ただ、これを好機と捉えなくてどうするか、という内心の声もある。計画破棄ではなく計画延期なのです。開始は来年の仲秋から晩秋にかけてかしら、ともぼんやり考えている。いずれにせよ、一年の猶予ができた。ならばこの猶予期間を、シェイクスピア作品を読むための準備に充てればよいではないか。そう考えての、暇を見附けてのメモ作りなのであります。
 具体例として、戯曲の版本、出版について触れました。シェイクスピアを読んでいると、たいていは、歴史物であれば作品の時代背景や舞台、人物相関等の話、シェイクスピアの生きた時代の点描・同時代の演劇事情などの話、版本や出版にまつわる話、が出てまいります。最後に挙げた、そうしていまメモを作っている版本に関してはいい換えれば、翻訳の底本や本文批評の話題にもなります。
 わたくしが最初にこの点に取り組んだのは勿論偶然でしかありませんが、一方で「書誌」というものに関心があり、日本のことではありますがそちら方面の知識が多少とはいえあり、西洋書誌については日本のそれ以上にズブの素人ながら三田時代に勉学でも仕事でもわずかばかりの関わりを持った高宮利行先生の著作を始めとして幾人かの専門家の著訳書を好んで読んでいた、まァ一種の親しみがありましたから──と、幾つもの要素が重なって為された必然の運動というてよいかもしれません。
 さりながら、この版本や出版に関しては、知識の獲得も咀嚼も定着も、ましてや自在なアウトプットも、そう簡単にはいきません。『ビブリア古書堂の事件手帖』最終巻はシェイクスピアのファースト・フォリオを巡る一巻でしたが、よくぞここまでわかりやすく説明して物語に落としこめたな、と感心せざるを得ない程に、わたくしは最初このあたりをどうメモにまとめてよいか、わからないでいました。
 が、読書百遍意自ずから通ず、とか、念力岩をも通す、と申しましょうか、数日とはいえ空き時間はずっと資料や文献に目を通したり落書きのような覚書を書いていたら、だんだんと疑問の焦点があきらかになり、回答となるような(信頼してよいであろう)記述に行き合うことができました。回答はずっと目の前にあったけれど他に埋もれて、目を暗まされていたのです。
 そんな立ち止まりこそあれ、シェイクスピア戯曲の版本──クウォートやフォリオの分類、出版エトセトラ──に関しては、わかる部分も増えてきた。定着して活用できるようになるまで時間はかかるでしょうけれど、取り敢えず最初の山は越えられたかな、と、まだ多少とっ散らかったメモを前にして胸を撫でおろしているところであります。
 研究者でも専門家でもないのだから、こうしたメモ作りは本来ならば不要なのかもしれません。が、こうした外堀的知識であっても、直接間接の別なく文章に反映しなくても、或る程度の知識があって書くのとそうでないのとでは、出来上がったそれを較べてみるとちょっと違うように思うのであります。それは正直なところ、聖書の読書ノートを書いていた際、ずっと付きまとい、考え続けた点でもありました。
 もうすこし版本や出版のメモに取り組んで一応のメドが付いたら次は、英国史のお復習いです。まったく抵抗ない分野と雖も、こちらもまたメモの作成には時間を要しそうです。◆

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