第3703日目 〈新たなる聖書読書マラソンに備えた、「ほしい本」の願望。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日ヨセフスのことを書いたあとで書架に詰まった本(溢れて棚前を塞ぐものを含む)と床から隆起した積ん読山脈を見渡して、さて、自分は聖書読書を今後も続けてゆくにあたって他にどんな本を必要とするか、どんな本を揃えておきたいか、考えてしまった。
 幸いなことに邦訳聖書は新共同訳と最新の日本語訳である聖書協会共同訳を始め、新改訳、新改訳2017、フランシスコ会訳、口語訳、岩波訳、文語訳、バルバロ訳、幾つかの個人訳を手許に置くことができている。テキストは当面これで用が足りるはず。読書マラソンのテキストとして携行した新共同訳聖書旧約聖書続編付き(横組み)のように、使い倒してボロボロになれば同じ訳の新しいものを本屋さんで買ってくるだろうが。
 見渡して、神学や研究書の類が然程目立たないことに気附いた。考えるまでもない。わたくしは敬虔なるキリスト者ではない。聖職者でもない。ゆえに神学書を読んでも却ってチンプンカンプンで、豚に真珠も同然の代物である。宝の持ち腐れ、ともいうな。けれども買えばいちおう中身に目を通すから、よくわからんでも或るとき不意にそのなかの一冊、その内の一節がわたくしのなかへ入ってきて、それを突破口に親しむだろうことは否定できぬ未来といえる。神学書や研究書に関しては、本屋さんの棚の前で目に触れた本を取り出しては立ち読みして、また戻すを繰り返すうちに、ピン、と来るものを感じた一冊を懐と相談の上レジへ運ぶなり後日の買い物とすればよい。まぁ、これまでと同じだ、このあたりは。
 聖職者たちの数多ある著書のなかでは、井上洋治神父の著書は、未架蔵のものあらば能う限り積極的に購入してゆきたい(数冊しか所持していないが)。これまで国内外の聖職者たちの本を日本語で読んでみたが、非キリスト者のわたくしでも感銘を受けるような本は誠に少ない。海外ではウィリアム・バークレーとピーター・ミルワード、国内では井上神父、くらいなのである。新刊書店、古書店の別なくその著書を見掛けたらまずは手にして内容を検めて、その時点でほぼ購入が決定している本を書いている聖職者というのは。
 渡部昇一経由で岩下壮一神父の名を知り、ちくま学芸文庫と岩波文庫から再刊された著書を買ってみたが、ぼんやりとわかるような気のする部分もあるけれどそんなのは極々わずかで、他の文章は流し読みしかしていない。名前だけは既知だが著書を手にする機会ないままでいたところ、偶々読んだ本で紹介されていたのを契機に、名前だけは知っていた人の著書を手にしてレジへ運んで一晩で読みあげその後も短い期間で何度も読んだヘンリ・ナウエンのような場合もある。
 今後の読書に備えて揃えたいのは、クムラン教団、死海写本、グノーシス主義の本や、写本・翻訳の解説、聖人の伝記、良質で使い良い複数の註解書シリーズだ。
 旧約時代、新約時代の歴史書は、これまで意識して拾いあげてきた安本で事足りており、それでも埒があかなければ図書館に頼ればいい。歴史に関しては大抵の図書館で、お目当ての資料に辿り着けるから。いい方を換えればその程度の読み方しかしていないのかもしれぬが、それは非キリスト者の限界として笑ってほしい。
 贅沢をいえば註釈書は、これまでの読書マラソンで図書館から借り出して多大な恩恵に浴した註釈書のシリーズは是非にも手許に置きたいが、これを実行すると収蔵スペースばかりか生活エリアまで本の群れが我が物顔で迫ってくるから、これは夢物語で片附けておこう。
 英語の勉強をやり直したら、英訳のコメンタール・バイブルへ手を広げ、日がな一日それの読書に耽るのも悪くないと思うている。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。