第3732日目 〈「〜と思います」はいらない。〉 [日々の思い・独り言]
改めて哲学に関心が向き、倫理の参考書や学生時代に読まされたヤスパースやハイデガーを開く気になったその源を辿れば、平山美希『「自分の意見」ってどうつくるの?』(WAVE出版 2023/04)に行き当たる。別ルートで憲法があるが、これはさておき。
例のリュックへ詰めこんでいつも運搬しているうちの一冊だが、後半にとても突き刺さる指摘があった。実はその指摘こそ、面陳されていた本書をぱらぱら繰っていたら目に飛びこんできた一節でもあったのだ。その一節を以下に引く。曰く、──
結論を述べるとき、ぜひみなさんに心掛けてほしいことがあります。
それは断言すること。
できるだけ、言い切る形で主張してみてください。
これは、前述したような安易な〝決めつけ〟とは、まったく違います。
自分がじっくりと考えて出した結論に自信を持つということです。(P203)
──と。「前述したような安易な〝決めつけ〟」とはP195-6「悪い結論」を指す。「悪い結論」即ち「問いも立てず、疑いもせず、考えを深めもせずに判断を下し」(P196)た結論である。
結論を述べる際はできるだけ、言い切る形で主張(断言)して、その結論に自信を持つ。
フランスの学生はレポートや論述試験、おそらくは日常の会話、議論でも「わたしは〜と思う」式の表現はしない、という。
(きちんと手続を踏んでなされた引用以外は)あなたが思うたことしか書かれていない、話されていないのだから、わざわざ「わたしは〜と思います」なんて書いたり話したりする必要はない。あなたの発言はすべて、あなたが思うていることなのだから。
著者曰く、──
フランスの哲学教育でも、生徒一人ひとりにきちんと「結論」を出すことを求めています。また、哲学の教科書にも、「最終的には自分の出した結論を受け入れ、その結論に責任を持ちなさい」と書かれています。こうした教育を受けているため、フランス人は、自分で考えて出した結論を堂々と主張し、断言できるのでしょう。(P204)
──と。
自分が出した結論を受け入れろ。その結論に責任を持て。なによりも、考えた上での発言なのだから「〜と思います」は不要。
パウロじゃあないが、目から鱗、である。「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」(使徒9:18)
以前にもどこかで、文章に「〜と思う」は使うな、とあるのを読んだ。自分の発言に自信がないことの表れであり、醜い責任回避でしかない、と。
冷水を浴びせられた気分だった。自分がこれまで書いた文章を、手当たり次第に検めた覚えがある。──なんと「〜と思う」で埋め尽くされた文章であったことか。スティーヴン・キングの、副詞を警戒する文章をどうしても思い出してしまう。地獄への道は副詞で舗装されている、とキングはいう。続けて、──
別の言い方をすると、副詞はタンポポである。芝生に一つ咲いている分には目先が変わって彩りもいい。だが、抜かずに放っておくと、次の日は五つ、また次の日は五十、そのまた次は……と切りがない。しまいに芝生は、全面的に、完全に、淫蕩に、タンポポに占領されてしまう。タンポポは雑草だ、と気がついた時は、悲しいかな、もはや手遅れである」(『小説作法』P141-2 池央耿・訳 アーティストハウス 2001/10)
──と。
以来なるべく使わないように、と心掛けてきたが、なにかの拍子にどうしても、ね……。情緒的なものや小説ならば必要最低限の範囲で用いるのは仕方ないとしても、読書感想文や硬質な文章は「〜と思う」を回避する手立ては幾らでもあるはずだ。
ちか頃はだいぶ減って、検めても殆ど見ることは少なくなった推定絶滅語彙だが、やはり油断すると使ってしまう。どう書いてこの原稿──エッセイを〆括ろうか、と考え倦ねているときすぐ思い浮かんで安易に使い、なんとなく〆括れてしまうのが実は、「〜と思うのである」の書き方なのだ。文章がなんとなく形を調えたように映ってしまう。まぁ、錯覚してしまうんですね。──われながら軽薄な解決手段であるなぁ、と嘆息せざるを得ない。
もう「〜と思う」は使わない。
第一稿でこれが使われたら、考え抜いて代替語(※)も見附からぬような本当に必要な場合──考えに考え抜いた挙げ句、これしかない! 「思う」以外はあり得ない! という場合──を除いて、これを徹底的に駆逐、殲滅する。胸に刻みこもう。
平山美希のこの本を読まなかったら、「〜と思う」と縁を着る決心は、まだ先だったかもしれない。◆
※「I think」の直訳としての「わたしは〜と思う」ばかりでなく、feel、suppose、deem、considen、believe などその場により相応しい「〜と思う」の類義語を念頭に置いているが、いずれにせよ日本語のボキャブラリーを試される作業であるのは間違いない。□
例のリュックへ詰めこんでいつも運搬しているうちの一冊だが、後半にとても突き刺さる指摘があった。実はその指摘こそ、面陳されていた本書をぱらぱら繰っていたら目に飛びこんできた一節でもあったのだ。その一節を以下に引く。曰く、──
結論を述べるとき、ぜひみなさんに心掛けてほしいことがあります。
それは断言すること。
できるだけ、言い切る形で主張してみてください。
これは、前述したような安易な〝決めつけ〟とは、まったく違います。
自分がじっくりと考えて出した結論に自信を持つということです。(P203)
──と。「前述したような安易な〝決めつけ〟」とはP195-6「悪い結論」を指す。「悪い結論」即ち「問いも立てず、疑いもせず、考えを深めもせずに判断を下し」(P196)た結論である。
結論を述べる際はできるだけ、言い切る形で主張(断言)して、その結論に自信を持つ。
フランスの学生はレポートや論述試験、おそらくは日常の会話、議論でも「わたしは〜と思う」式の表現はしない、という。
(きちんと手続を踏んでなされた引用以外は)あなたが思うたことしか書かれていない、話されていないのだから、わざわざ「わたしは〜と思います」なんて書いたり話したりする必要はない。あなたの発言はすべて、あなたが思うていることなのだから。
著者曰く、──
フランスの哲学教育でも、生徒一人ひとりにきちんと「結論」を出すことを求めています。また、哲学の教科書にも、「最終的には自分の出した結論を受け入れ、その結論に責任を持ちなさい」と書かれています。こうした教育を受けているため、フランス人は、自分で考えて出した結論を堂々と主張し、断言できるのでしょう。(P204)
──と。
自分が出した結論を受け入れろ。その結論に責任を持て。なによりも、考えた上での発言なのだから「〜と思います」は不要。
パウロじゃあないが、目から鱗、である。「すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった」(使徒9:18)
以前にもどこかで、文章に「〜と思う」は使うな、とあるのを読んだ。自分の発言に自信がないことの表れであり、醜い責任回避でしかない、と。
冷水を浴びせられた気分だった。自分がこれまで書いた文章を、手当たり次第に検めた覚えがある。──なんと「〜と思う」で埋め尽くされた文章であったことか。スティーヴン・キングの、副詞を警戒する文章をどうしても思い出してしまう。地獄への道は副詞で舗装されている、とキングはいう。続けて、──
別の言い方をすると、副詞はタンポポである。芝生に一つ咲いている分には目先が変わって彩りもいい。だが、抜かずに放っておくと、次の日は五つ、また次の日は五十、そのまた次は……と切りがない。しまいに芝生は、全面的に、完全に、淫蕩に、タンポポに占領されてしまう。タンポポは雑草だ、と気がついた時は、悲しいかな、もはや手遅れである」(『小説作法』P141-2 池央耿・訳 アーティストハウス 2001/10)
──と。
以来なるべく使わないように、と心掛けてきたが、なにかの拍子にどうしても、ね……。情緒的なものや小説ならば必要最低限の範囲で用いるのは仕方ないとしても、読書感想文や硬質な文章は「〜と思う」を回避する手立ては幾らでもあるはずだ。
ちか頃はだいぶ減って、検めても殆ど見ることは少なくなった推定絶滅語彙だが、やはり油断すると使ってしまう。どう書いてこの原稿──エッセイを〆括ろうか、と考え倦ねているときすぐ思い浮かんで安易に使い、なんとなく〆括れてしまうのが実は、「〜と思うのである」の書き方なのだ。文章がなんとなく形を調えたように映ってしまう。まぁ、錯覚してしまうんですね。──われながら軽薄な解決手段であるなぁ、と嘆息せざるを得ない。
もう「〜と思う」は使わない。
第一稿でこれが使われたら、考え抜いて代替語(※)も見附からぬような本当に必要な場合──考えに考え抜いた挙げ句、これしかない! 「思う」以外はあり得ない! という場合──を除いて、これを徹底的に駆逐、殲滅する。胸に刻みこもう。
平山美希のこの本を読まなかったら、「〜と思う」と縁を着る決心は、まだ先だったかもしれない。◆
※「I think」の直訳としての「わたしは〜と思う」ばかりでなく、feel、suppose、deem、considen、believe などその場により相応しい「〜と思う」の類義語を念頭に置いているが、いずれにせよ日本語のボキャブラリーを試される作業であるのは間違いない。□