第3733日目 〈ぼんやりしている時間があるなら、〈前夜〉を書け!〉 [日々の思い・独り言]

 聖書についていえば、テキストと註釈書は揃えられたのではないか。むろんそのすべてを購うなんてのはあらゆる意味で不可能だ。ここでいうのはあくまでも自分が必要とする、また過去にお世話になって手許にあれば有益だ心強いと感じる、そんな限定された範囲での「揃えられた」である。
 懐に資金の余裕が生まれたら、あと二、三種類の注釈書は買いたいが、それはもはや来年の話だ。当面は、まずは手許にあるものでよい。
 さて、このような状態にあるいま、(それに全力で取り掛かりさえすれば)以前こうしたものを書きたい、と表明したエッセイ案の半分くらいは一ヵ月に一篇程度のペースであげてゆけるのだろう。が、生来の天邪鬼も手伝って現実的にはなかなか難しい。二十代の頃のように一つの分野へのめり込み、本妻がきちんといてそちらへちゃんと帰って愉しみ悦ぶことある一方で、その時々の興味思考関心に(素直に)従って、あっちに手を出しこっちに唾をつけて、っていうのを重ねているいまは、予定や計画を立ててもすぐ崩れ落ちてしまうのが関の山だ。
 されど……それにもかかわらず……聖書の註解書や研究書などが十数年のうちにゆっくりとしたペースで手許に集まってきて、なにを考え、なにを書くにせよ、蔵書の範囲内でまぁ大概の用事は済ませられるようになった現在、わたくしが早急に取り組む必要がある聖書にまつわるエッセイは、といえば、何年も前から進めている聖書各書物の〈前夜〉の執筆に他ならない。就中棚上げしたままの「エステル記」と、旧約の難所(難書?)の一「ヨブ記」の〈前夜〉である。
 執筆というても既に本ブログではいちどお披露目しているゆえまったくの新規原稿ではない。旧約聖書と旧約聖書続編(旧約外典)の一部については過半が改稿──但し、新稿というてよいくらい書き直しているから、「改稿」という言葉の定義も曖昧だ──、新約聖書の全部と旧約聖書、旧約聖書続編の(残りの)一部は再掲となる。細かな字句、表現の修正或いは加除の筆は入ろうが、それは当然の作業といえないか。
 柱はもう組み上がって上棟もできている(とわたくしの目には映る)「エステル記」〈前夜〉と難所ゆえに手を出しかねて結局本文や解説書、註解書の類を読んでばかりいる「ヨブ記」〈前夜〉。この二編を書きあげてしまえば、道は開けたも同然(あわれな魂は解き放たれた。 わたしの前途にはかぎりない希望と 奇跡にみちた時とがある ※)。そこから先の作業がサクサクスイスイ進むわけでは勿論ないけれど、それでもなお──。
 十数年にわたって蓄積してきた書物を死蔵させないためにも、かねての案を具体的な形にして残さねばならぬ。ぼんやりしていることは、許されない。◆

※カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』P249 九月一日条より(草間平作・大和邦太郎・訳 岩波文庫 1973/05)□

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