第3734日目 〈これの読書ノートも作るんかい。〉 [日々の思い・独り言]

 杉原『憲法読本 第4版』再読は、予定通り年内の了がほぼ確定して安堵している。或る程度の期間、一つの書物に拘泥して様々書込みして向き合ったのは、いったいどれくらいぶりだろう。聖書を終わってから以後は……正直なところ思い出せるものが余りない。強いて挙げれば昨年いま頃の『恋愛名歌集』だろうけれど、こちらが或る程度の期間を要したのは外的要因が専らだから、聖書と『憲法読本』と同列に並べるのは無理がある。
 『憲法読本』の再読が終わったら次はノート──抜き書き、自分のコメント等々の作成になるわけだが、そこでふと、過去の読書を省みた。感想文を書いたりしてきたなかで別個にノートを作っておいた方がよいと考えたものが、たしかあったはずなのだけれど、と。太宰? ノン。ドストエフスキー? ノン。『古事記』と六国史? ノン、ノン。『源氏物語』? 断じてノンですぞ、モナミ! 今後引用しそうな文章を写す? それはよいアイディアだが、別個にノートを作る必要はあるのかな。
 ──ああ、そうだ、と深く呼吸しながらその書物を思い出した。聖書だ。いま、井上洋治『イエスに魅せられた男 ペトロの生涯』といっしょに置いてある。聖書読書ノートの原稿(=本ブログ)を書く際、常に持ち歩いて自宅やカフェで開き、下線を引いたり書込みをした、新共同訳・旧約聖書続編附き。ページの端は丸くなったり手垢で黄ばみ、ノドが割れて修繕し、形崩れした、くたびれた感じの聖書。
 昨日とそれ以前も書いたように、日本語訳聖書で現在流通している訳はその殆どを、時間をかけて手許に揃えた。個人訳は購入をずっと迷っている。代替テキストは新共同訳(引照附きのと、上で述べたのと同じもの)を含めて幾らでもあるのに、この手擦れした聖書を未だ侍らせ、なにかにつけて開くのは、これで読んできた、というノスタルジーと自負に加えて、数多の書込みあるゆえだ。
 下線を引いた箇所、特定の文章や単語へ与えたメモ。それらを一冊のノートに書き写してしまおう。自分の考えや調べたことをアクセスし易くしよう。折につけそう考えていた。
 それを思い出したのだ。時間を見附けて着手したい。時間がかかる。何冊も要る。百も承知だ。なのに、ためらっているのは、なぜ?◆

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