第3744日目 〈その場のノリで「石を投げる」側に立たないようにするには。〉 [日々の思い・独り言]

 「ヨハネによる福音書」にある挿話です。不義密通の罪を犯した女性に投石しようとしている群衆にイエスが曰く、あなた方のうちで罪を犯したことのない者から(この女性に)石を投げよ、と(ヨハ8:7)。誰も、誰ひとりとして石を投げられなかった。群衆は散り散りになって、イエスとその女性だけが残された。彼女に、誰もあなたを罪に定めなかった、わたしもあなたを罪に定めない、行きなさい、そうして二度と罪を犯してはならない、といった(ヨハ8:10-11)。
 とても良い話だ。不倫は赦されない不貞行為でありますが、イエスはそれについて頭ごなしに説教したり、律法を持ち出して群衆と同じように裁こうとはしなかった。むしろ群衆を婉曲な物言いで諫めることでその場の危機を一旦やり過ごし、群衆一人ひとりに己の罪を思い起こさせた。人間誰しも規範に背く行為をしでかしている。それが大きいものであれ小さいものであれ、律法に抵触しようとしなかろうと──。古今東西を通して変わりようのない人間の本質が、ここでは象徴的に描かれていると感じます。
 イエスが最後、女性に投げかける台詞も良い。判決は下された、行って、ゆめ不義を働くことなかれ。命を救い、赦すばかりでなく、今後の行動指針まで与えている。こんにちの裁判の、結審後に裁判長が被告へあたえる言葉を想起します。或いは、刑期を終えて出所する人へ刑務官らがかける言葉を。ステレオ・タイプの域を出ぬ想像でありますが、イエスの姿、言葉がそこにかぶってわたくしのなかにあるのは否めぬ事実であります。
 もしも自分が、不義密通でなくてもなにかしらの罪を犯した人と、それを取り囲んで非難する集団のいる場に出喰わしたら、……時代も国も法も違うのを盾にして(言い訳にして)、群衆にまざって深く考えてもいない正義を声高に叫び、イエスとは真逆の立場に自分を置いているかもしれない。
 そうならないための第一歩──たやすく群集心理に呑みこまれて思考を停止させたりしないための第一歩はやはり、いやちょっと待てよ、そんなに簡単に結論を出してよいのか、一旦冷静になって両方の側からこの問題を検討する必要があるんじゃないか、結論や立場を表明するのはそれからでも遅くはないだろう、っていう〈余裕〉を持つことなんではあるまいか。思考の停止と想像力の欠落は同義だ。想像力を欠いた人、考えるのをやめた人は、どんなに非道いことでも、非道いと思うことなしに平然とやってのける。それこそがいちばんの罪なのでは?
 「ヨハネ伝」のこの挿話を読んでいると、人間一人ひとりが罪を犯しながら生きていることや、長いものに巻かれて自分の考えや意思を置き去りにして行動することの危うさを思わずにはいられないのです。
 ──今年はあと二、三回、聖書に材を取ったエッセイを、クリスマスを含めてお披露目する予定でいます。◆

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