第3747日目 〈徴税人、マタイのこと。〉 [日々の思い・独り言]

 福音書に登場する徴税人マタイ、レビはユダヤ人だった。エルサレムの一角で仕事をしていた。かれらは同胞から忌み嫌われる存在だった。にもかかわらず、イエスはかれらを召して弟子とした。
 エルサレムを含むユダヤ、その北にあるサマリヤ、イエスの故郷ナザレを服むガリラヤ。その周辺地域。そこは当時ローマ帝国の属州だった。小規模の抵抗運動、大きな反乱はあったと雖もそのたび、ローマ軍によって鎮圧された。
 人々は内心でローマを憎んだ。よい感情は持っていなかった。矛先はローマの代理人のようになって働く同胞へも向けられた。マタイ、レビがユダヤ人でありながら忌まれたのは、徴税人というのが、ユダヤ人がローマへ納める税金の取り立て役だったからだ。
 「マタイによる福音書」に曰く、「イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。『(中略)わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マタ9:10-13)と。
 検めてみる。全員の出自や生業があきらかにされているわけではないが、十二使徒のうちペトロとアンデレ兄弟、ヤコブとヨハネ兄弟はガリラヤ湖の漁師だった(マタ4:18-22)。十二人の使徒はマタ10:2-4で判明するが、福音書に出自や生業があかされているのは、ガリラヤの漁師だった四人と徴税人のマタイだけである。シモンは熱心党に属したというが、いずれにせよ出自や生業はさげすまされたり、ふだん省みられることのないようなものであったろう。
 社会的にはさして重んじられていない、何事かがないと存在を認知されないような人々、或いは罪人と一括りにされるような人々とイエスは積極的に関わりを持ち、時に弟子として召した。
 山上の説教(垂訓)に曰く、「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。/悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる」(マタ4:3-4)と。
 そうした人々とは即ち、特別な身分や職業とは無縁な、イエスが進んで交わりを持とうとした人々だ。そんな人々にとって、「疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタ11:28)と手を差し伸べ胸を開いてくれるイエスの存在はどれだけ心強く、安堵できるものであったろうか。ゆえに、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という台詞はいよいよ具体性を増してくる。
 招かれたユダヤ人社会内部の敵、裏切り者と見られ上前をはねるコスい奴と陰口を囁かれる徴税人、マタイは十二使徒の一人としてイエスと行動を共にし、磔刑後は他と同じく宣教に努めて、その活動地域は、ペルシア、パルティア、エジプトなど、ユダヤの南側だったと伝えられる。近代になるまでは福音書記者マタイと同一視された。
 今日12月25日は、マタイを召したナザレのイエスが生まれたと信じられている日である。読者諸兄よ、諸人よ。友人よ、家族よ。メリー・クリスマス。世界は苦しいだけのものではない。◆

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