第2565日目 〈『ザ・ライジング』エピローグ 1/1〉 [小説 ザ・ライジング]

 二〇〇三年十二月二十五日、午後一時二十三分。
 室内は閑散として実際以上に広く見えた。昨夜目が覚めたときにそばにいた看護婦に訊くと、ここは自宅から一キロばかり離れた市道町の千本病院だという。真南に面しているため、冬のやわらかな陽射しが差しこみ、暖房を入れる必要を感じないぐらいだった。眼下には子持川がさざ波をきらめかせて流れている。本来は二人部屋なのだが、いまは希美一人ということもあって、室内を仕切るカーテンは取り外されている。空いていたベッドやテレビも、ロッカーさえも運び出されていた。実際以上に部屋は広く見える。沼津署の計らいということだったが、大げさだな、とそれを聞かされたとき、希美は苦笑しながら思った。この部屋のある病棟の看護婦達からは、どうやら警察の関係者であると思われているらしい。ベッドで眠る希美を訝しげに見る看護婦の視線から、重要人物待遇で慮られているのがよくわかった。さすがに面と向かってはいわないけれど、「あなた、いったい何者なんです?」と問いたげな看護婦の視線がときどき感じられた。
 いま、病室には彼女の他は誰もいない。静かだった。希美は広げていた新聞をたたんで、テーブルに置いた。同じように四分の一の大きさにたたまれた新聞が何紙か、既に積み重ねられている。どれも目覚めてすぐ、看護婦に頼んで揃えてもらったものだ。目的は白井正樹の死亡記事。どの新聞もほぼ似たような扱いでその記事を載せていた。通り一遍の事実だけが綴られ、テレヴィで知った以上の情報はまったく得られなかった。それは即ち、希美が求める情報は欠落していることを意味していた。池本先生はなんで私の大切な人の命を奪ったのだろう。そこに痴情のもつれがあったのか、それとも、たまたま白井がその場に居合わせてしまったのか……。それを希美は知りたがっていた。池本玲子は逮捕されてから何一つ喋ろうとしていないらしい。
 深く長い溜め息がもれた。視線が新聞の山から窓外に向けられた。
 一生忘れられないクリスマスになっちゃったな……。なんだかふしぎ。この半年で両親と死別し、将来を誓った男性と出逢い、永別した。いったい今年ってなんていう年なんだろう。
 扉をノックする音が聞こえた。「はあい?」と返事すると、細く開けられた隙間から美緒が顔を出した。前髪が目にかかり、唇が薄く開いて心配そうな顔つきだった。扉を後ろ手に閉めて所在なげに立つ美緒に、希美は坐るよう促した。小走りに示された丸椅子へ移動する美緒を見て、希美はやすらかであたたかな気持ちを胸の底に覚えた。と、それと共に、なにごとかを隠している表情でもあるのが、気にかかった。しかし、それはあまりいまは気にならなかった。美緒がここにいるというだけで幸せだったからだ。
 「もう起きてるんだね。よかった……」
 「いろいろ心配かけちゃってごめんね」毛布の上で両掌を合わせて希美はいった。「でも、うれしかった。みんなが来てくれて……真里ちゃんや田部井さんまで」
 頷きながら美緒は「みんな、希美ちゃんが好きなんだよ」といった。「警察や消防署の人がたくさんいて、びっくりしちゃった」と笑顔で付け加え。
 それからしばらく二人の間に沈黙が訪れた。が、決して居心地の悪い沈黙ではなかった。むしろ幸せさえ感じられる沈黙だった。彩織や藤葉、真里のときとは異なるそれだった。――沈黙は美緒の「そうだ」という小さな声で破られた。
 「希美ちゃんに渡すものがあったんだ」そういいながら美緒はトートバッグの中を漁った。「それで一人で来たんだよね……」
 「渡すもの?」おおよそ察しはついたが、そうか、あれを美緒ちゃんに渡していたんだっけ……。
 「うん、そう。――あ、これだ。はい」と美緒が差し出したのはA4大の茶封筒だった。中身は死のうと決めた直後に電気のつかない自分の部屋で綴った日記帳だ。美緒ちゃんへ送っておけば安全だ。そう思って封筒に宛名を書いたのは、果たして本当の出来事だったようだ。記憶が混濁していないことに、感謝。
 「日記だね」
 「今朝届いたの」美緒がいった。「ごめんね、――最後の日の日記だけだけど、読んじゃった」
 「謝らくていいよ。読んでもらうつもりで送ったんだから」封筒を受け取りながら希美はいった。
 「希美ちゃん……」美緒は涙のあふれてきた顔を両手で覆いながら、丸椅子からベッドの縁に腰を動かした。そのとき、美緒の頭の片隅を、赤塚さんのことは黙っていよう、という思いがよぎった。それは、また別の機会のお話だ。ややあって、すすり泣く声が病室に響いた。
 「ふーちゃんを責めないでね。私が内緒にして、って頼んだんだから」希美は手を伸ばして優しく美緒を抱き寄せた。気のせいか、泣き声はほんの少しながらやんだような気がする。胸元がやけに熱く感じられる。そういえば、この前は逆だったっけ。希美は数日前をふと思い出した。
 それから何分かして美緒が希美から離れた。涙で濡れた顔をハンカチで拭いた。照れ笑いを浮かべる美緒をこんなに愛しく思ったことはなかった。
 ……ふいに欠伸が出た。時計を見ると――誰かが買ってきてくれたのかしら、この時計?――起きてからもう二時間が経とうとしている。まだ体力が回復したわけでもなく、日常生活を支障なくこなせるレベルではないよ、お金は心配しなくていいから、今年は病院で検査とリハビリに専念しなさい、とさっき検診に来た河井医師がいっていたのを思い出した。長時間起きているのは体に負担をかけるだけ、ってことか。静岡の叔父さんは海外出張中で連絡がつかない、ともいっていたっけ。
 「もう帰るね。希美ちゃん、疲れているみたいだし」そういって美緒は立ちあがった。希美は美緒の気遣いに感謝して、敢えて引き留めようとしなかった。「明日の面会時間にみんなで来るね。……若菜さんも一緒の方がいい?」
 「うーん……」と希美は腕組みをして何秒か考えこんだ。「じゃあ、お願い。着替えを用意しなくちゃならないから」
 美緒は頷いて「それじゃあ」というと、手を振って病室を出て行った。
 希美はそれを見送ると、そのままベッドへ倒れこみ、毛布を顎の下まで引っ張りあげた。天井を仰いでなにとはなしに、来し方へ思いを馳せた。
 ――。
 深町希美は一時間後に寝に就いた。そうして夢を見た。それは大きな海原を望む砂浜を、自分よりも背の高い誰かと一緒になって歩いている夢だった。◆
『ザ・ライジング』完


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