第3344日目 特別編 〈事後報告。〉 [日々の思い・独り言]

呑んだくれてたったいま、帰宅したのだ。
関内から自宅まで約50分、たいしたことないな。
それにしても生物の帰巣本能の凄まじきよ。◆

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第3344日目 〈報告;「エズラ記(ラテン語)」原稿完成、第1回聖書読書完了。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日20時21分を以て「エズラ記(ラテン語)」を、〈前夜〉を含めたPagesへの入力をすべて完了しました。やっと……!!
 一部で「そこしか読んでいない」といわれる最後のエッセイはまだ書いていない。予約投稿直前に書くのが、昨年「一マカ」からの慣例になったかな。
 とりあえず「エズラ記(ラテン語)」再読は、終わり。
 嗚呼、ようやく本当の意味で、聖書読書が完了した。サンキー・サイ。
 2回目の聖書読書がいつからになるか不明だけれど、今度はスタイルを変えて進めてゆくのも一興か、と思うているのであります。◆

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第3343日目 〈庄司浅水『私の聖書コレクション』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 書物研究家、ノンフィクション作家として足跡を残した庄司浅水の、それ以外の顔をわたくしは知らない。本書で初めて知った次第である。
 庄司は「1冊の本を選べ、と訊かれたら躊躇いなく「聖書」を選ぶ」という。浅水文庫に収まった聖書コレクションから、珍品稀品にまずは類する一品を選んで紹介したのが『私の聖書コレクション』(浅水文庫 1981/06 製本は奢灞都館の出版物を引き受けていた神戸・須川製本所である)だ。婚約の前年、奥方様から誕生日プレゼントに頂戴した1冊である。
 〈大聖書展〉の簡易目録が挟みこまれている。神戸三ノ宮そごう新館を会場に開催された〈大聖書展〉(1981年6月)には、浅水コレクションからも出品された由。本書はおそらく、この展覧会にあわせて作成されたのだろう。限定500部。
 浅水文庫の聖書コレクションは、他のキリスト教関係文献と共に立教大学へ収蔵されていると聞く。本書には29点の零葉や写本、複製の解説が載る。幾つかは巻頭に写真が張貼りこまれているので、そちらを見るだけでも印刷、書写された聖書の美しさを堪能することができよう。
 架蔵するのはグーテンベルク聖書の零葉、ティンデル訳新約聖書複製の一巻、ギリシア語シナイ写本の複製、プレーマー・プレス版ルター訳ドイツ語聖書全5巻、樫板装のエチオピア(アムハラ)語聖書一巻、ダウス・プレス版英訳聖書全5巻、などなど。珍しいところでは「英米の盲人のための詩篇」(1837)というものもある。
 グーテンベルク聖書は近代的な意味で印刷術を発明したかのグーテンベルクが、自身の工房で初めて印刷した書目である。貴重書とかレア・ブックスとかアンティークなんていう範疇を超えたところにある、人類の至宝というてよい。このグーテンベルク聖書については様々な研究書が出ているけれど、わたくしが読んだ範囲では高宮利行『グーテンベルクの謎』(岩波書店 1998/12)と富田修二『グーテンベルク聖書の行方』(図書出版社 1992/03)がまとまっていて、文章に難ありと雖も参考になった。
 ウィリアム・ティンデルは欽定訳聖書が公刊される以前、英語に聖書を訳した16世紀イギリスの宗教改革家。ギリシア語やヘブライ語から英語への翻訳を実施した初めての人物であったが時が時ゆえに弾圧され、現在のベルギーで処刑されたという。かれの名を冠した聖書註解書のシリーズが福音派学者を著者に迎えて英国ティンデルハウス聖書研究所から刊行されている。日本ではいのちのことば社が全巻を翻訳、刊行した。こちらは聖書読書でお世話になった叢書である。
 シナイ写本は18世紀にシナイ山で発見されたもので、世界最古の現存聖書の1つに数えられるという。浅水文庫に納まる複製は1865年、ロシア皇帝の命によりチェッシェンドルフ(コンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフ 独 1815-1874)の解説を付して写真石版印刷で200部程が刊行されたそうだ。なおシナイ写本は4世紀後半エジプトで書かれたとされ、新約聖書ほぼ全巻の他旧新約外典などを含むという。ちなみに時のロシア皇帝はアレクサンドル2世であった。
 ダウス・プレスは製本家T.J.コプデン=サンダスンの工房。ここで印刷された欽定訳聖書5巻は、世界三大美書の1つに数えられる(他はケルムスコット・プレスのチョーサー著作集、アシェンデン・プレスのダンテ著作集)。コプデン=サンダスンには『The Ideal Book』(『理想の書物』The Doves Press 1900)というダウス・プレス創設の趣旨を宣言した主著があり、日本語では生田耕作先生の訳で『この世界を見よ』(アスタルテ書房 1987/01、奢灞都館 1991/09 第1部「工芸の理想」、第2部「理想の書物」収載)が読める。
 これらの零葉、複製を手に入れるのは時間も掛かるし費用も掛かる、運を味方につけるテクニックも心掛けておかねばらなぬ。結局のところ、コレクションとは不断の熱意と積み重ねだ。そうして見極めの能力と常識だ。夙に渡部昇一も指摘したところである。浅水文庫聖書コレクションの場合は、庄司自身の言葉で以てその蒐集と成果について語ってもらおう。曰く、──

 私は好きで各種の聖書を蒐めているが、全体からすれば「九牛の一毛」にも足りない。また人に誇るようなものは何一つないが、近年になって、印刷・造本などの点から、自分なりに珍しいと思われるものもに、三入手したので(後略)。

──と。P9-10。
 どのようなきっかけがあって庄司がキリスト教に親近し、聖書の蒐集に努めるようになったのか寡聞にして知らない。が、自分でもふしぎながら聖書は様々なヴァージョン──零葉であろうと古写本であろうと印刷本(揺籃期印刷本)であろうと──を丹念に捜し歩いて、懐具合や家庭事情など加味しながらすこしずつ、ゆっくりと集めてゆくのに相応しい対象であるように思える。コレクションが充実してゆくのを見守るのはうれしい事ながらそれが殊聖書となると、余計に思い入れが深く、強くなるのだ。どうしてかはわからない。もしかすると庄司とて同じだったろうか……。
 読書感想文のつもりが別物に化けてしまったようだ。筆を擱こう。◆

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第3342日目 〈三上延『ビブリア古書堂の事件手帖 Ⅲ 〜扉子と虚ろな夢〜』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 発売日に購入していながら「エズラ記(ラテン語)」再読ノートを優先させたため、読むのが数日遅れたいまになってしまった。まぁ、これでも最速の部類ですけれどね、わたくしには。
 ──三上延『ビブリア古書堂の事件手帖 Ⅲ 〜扉子と虚ろな夢〜』を昨日午前、読了した。
 めでたく栞子さんと大輔くんが結ばれて、智恵子さんとの確執も一応のピリオドが付けられて幕を閉じた第1部完結から5年。2人の間に生まれた一人娘、扉子がメインキャラクター(の1人)となって開幕した第2部も、本巻で早くも第3巻となる(巻数表示は第1部が算用数字であったのに対して第2部はローマ数字を採用)。或る意味で第1部以上に、これまでのどの巻よりもどす黒さの目立つ1巻となった。
 今度の『ビブリア』は藤沢市の百貨店でむかしから開催されている古書市が主舞台。古書店の孫が相続するはずの蔵書約1000冊を頑なに処分するといって譲らない古書店主の、家族の物語、というては余りに綺麗すぎるか。
 ストーリーは書肆HPやファンのブログ等で知ることができるから、本ブログでは紹介を省く。
 3つのエピソードを核に物語は進み、プロローグとエピローグそうして2つの間章で「あの人」が古書に携わる人々の運命の糸を巧みに操ってゆく。まるでギリシア神話のラキシスのように、北欧神話のベルダンディのように。
 なかでも物語の根幹にかかわるのが、「二日目・樋口一葉『通俗書簡文』」と「間章二・半年前」である。そこで提示されたわずかな不安と不協和音が次第に明確になって、「三日目・夢野久作『ドグラ・マグラ』で爆発して、エピローグに於ける「あの人」の計画の一端が露わになって幕を閉じるのだが、ここで読者は誰しもおぞましさと深淵を覗きこんで抱いた言い知れぬ不安を覚えて巻を閉じることにもなる。
 戸塚の古書店主の孫、樋口恭一郎の母の執念と猜疑心と底無しの不安、これは案外と愛書家、読書家を配偶者に持った人が共通して持つ感情なのかもしれない。これをもっと窮極まで突きつめて、カリカチュアライズしたのが生田耕作編訳『愛書狂』(※1)、『書痴談義』(※2)所収諸編やオクターヴ・ユザンヌ『愛書家鏡』(※3)の主人公たちが巻き起こす、滑稽で凄絶かつ物哀しい「conte(短い物語、寸劇)」となる。
 この恭一郎が「自分の膨大な知識をあますところなく伝えられる器」(P269)となるのを期待して巧みに罠を張り巡らせ、誘いこんだのが栞子の母、篠川智恵子だった。それは思い通りの動きを期待できなくなった娘夫婦への。威嚇の意味もこめた計画の端緒であろうか。かつて自分に同じことを期待して掌を返された男の轍を踏まぬよう、周到に巡らせたすこぶる気の長い計画。
 そうして、本能的に自分へ恐怖を抱いて隠しきれない扉子をも自陣へ引き入れる計画の青写真を、智恵子は秘かに描いている。父大輔がそうしたのと同じように自分も〈ビブリア古書堂〉を中心に生じた事件を記録する扉子だが、智恵子は更に詳細な事件記録を自身でも書き綴っていた。それを餌に孫を引き寄せ、自分の側へ引きこもうとする智恵子の本当の目的はなにか。それがなにであるか不明だけれど、これが今後最大級の謎となることは疑い得ないあろう。
 ここまでお読みくださった読者諸兄は薄々お察しかもしれぬがわたくし、本シリーズでいちばん好きで好きでたまらぬのが智恵子さんなのである。
 それゆえに、またもや陰で暗躍する彼女の神出鬼没ぶり、大胆不敵さ、世界を股にかけてシェイクスピアのファースト・フォリオを追い求めた情熱と狂気、どんな名探偵も大泥棒も舌を巻く手際の鮮やかさと人の心理を巧みに操って掌で転がし己の目的はしっかり達成する、そんな一筋縄ではゆかぬ底知れぬ人物なるがゆえに惹かれてやまぬのだ。
 作者が「あとがき」で表明する前日譚、栞子の過去エピソードも楽しみであるが、それ以上にわたくしは智恵子が家庭に入っていた時代も含めて彼女の現在や過去を語った外伝的作品をたっぷりと読んでみたいのである。
 ……さて、触発されたことを素直に認めながら書架の奥より『ドグラ・マグラ』を出そう。◆

※1 白水社 1980/12
※2 白水社 1983/11
※3 奢灞都館 決定訳 1991/01□





樋口一葉 小説集

樋口一葉 小説集

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/10/05
  • メディア: 文庫



樋口一葉日記・書簡集 (ちくま文庫)

樋口一葉日記・書簡集 (ちくま文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/11/10
  • メディア: 文庫



ドグラ・マグラ(上) (角川文庫 緑 366-3)

ドグラ・マグラ(上) (角川文庫 緑 366-3)

  • 作者: 夢野 久作
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 1976/10/13
  • メディア: 文庫



ドグラ・マグラ(下) (角川文庫 緑 366-4)

ドグラ・マグラ(下) (角川文庫 緑 366-4)

  • 作者: 夢野 久作
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 1976/10/13
  • メディア: 文庫




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第3341日目 〈昨日したこと、今日すること。〉 [日々の思い・独り言]

 行動記録は以下の通り、──

 ○昨日(2022年03月27日)したこと。
 01;午前中、「エズラ記(ラテン語)」再読ノート全章分をPageへ入力終了。厳密にいえば〈前夜〉が残っているが、今週中には第一稿を仕上げられるだろう。告知済みスケジュールに変更はない。
 02;昼過ぎ以後、買ったままな小説を読み、録り溜めた映画を観る。
 03;小説、『ビブリア古書堂の事件手帖Ⅲ 〜扉子と虚ろな夢〜』(メディアワークス文庫 2022/03)を読み始め。未だ第1章ながらいつものゆったりとした、居心地の良い空気に満たされた物語空間を懐かしく思いながら、安堵。今日、仕事から帰ってきたら続きを読もう。
 04;午睡、夢→巨大な放水路を跨ぐ橋の歩道から。流れ落ちた水塊が水煙をあげて落ちる様を眺める。わたくし;そこから子供の転落死を目撃したことがある。その子供はわが娘らしい。橋の向こうの中層マンションがわが家。車道沿いの歩道は2つに分かれて、1つはそのまま車道沿いに下がってゆき、もう1つは階段になって倉庫が並ぶ一角へ下る。階段から誰かが来て、並んで立つ。成長した娘か。
 05;夕食の仕度と、家族4人での食卓。
 06;午睡の夢、なんともの悲しく、なんと不吉か。

 ○今日(2022年03月27日)すること。
 01;有休を使って朝から島の倉庫にて、久しぶりの倉庫内軽作業。
 02;上述『ビブリア古書堂の事件手帖Ⅲ 〜扉子と虚ろな夢〜』の続きを読む。
 03;可能であれば、永井荷風の随筆集『冬の蠅』(『全集』第17巻 岩波書店 1964・昭和39/07)に目を通す。

──以上。
 いちど、こういうものを書きたかった。たまにはこんな備忘以外の何物でもない原稿があっても、良い。◆

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第3340日目 〈栄光の記憶の欠片を拾い集めるようにして、わたくしは祈る。──ルカ伝「放蕩息子の帰還」に触発されて、〉 [日々の思い・独り言]

 部屋の片附けの際中に本を落とした。文庫サイズのフランシスコ会訳新約聖書。奥付には1989年06月改訂16刷とある。まだ「イエズス」と表記されていた時代。これは婚約者が没して1年に満たない夏、自分の意思で購入した初めての聖書だ。背表紙の金の箔押しは火事で燻されて、見る影もないけれど、まだ手許にある──開くことは殆どなくなったけれど。
 拾いあげて偶然開いたのがルカ伝「放蕩息子」のページ。腰をおろして読んだ。知己の家族を想いながら。もう修復不可能な亀裂の入った、或る家族のことを想うて嗟嘆し、涙腺がどうになりそうなのを堪えながら。
 放蕩息子のエピソードが好きだ。この喩え話を喩え話でなく、親が子を想う気持ちとは、を考えさせられる格好の題材であると知ったのは、まだそうむかしのことではない。
 放蕩の末に財産を使い果たし、尾羽打ち枯らした姿で帰ってきた息子を迎え入れる父親の気持ちが、よくわかる。どのような境遇でふたたび自分の前に現れようとも、たとえ過去にどのような恩讐があったとしても「受け入れること」ができるのは、生まれたときから出奔するまでの短からざる期間に蓄積された思い出が喚起させる「愛情」の為さしめる行為に他ならない。否定する者有りや無しや。「赦す」ことは「愛する」ことの同義語である。
 赦すこと。そこから(もういちど)始まる関係もある。放蕩息子を持つ親ある家族をわたくしは想う。既に修復不可能な亀裂の入ったかれらだけれど、祈る、かれらが己の所業を顧みて互いを赦しあい、ふたたびかつてのような温かい絆でつながれた家族に復することを。それを、祈る。そこにじっとしゃがみ込んで、栄光の記憶の欠片を拾い集めるようにして。just sitting back trying to recapture a little of the glory of,◆

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第3339日目 〈遠藤周作と文化学院、断章・備忘。〉 [日々の思い・独り言]

 エッセイの仕込みのため、遠藤周作と文化学院の関わりを調べている。
 遠藤周作は1954/昭和29年04月から文化学院の講師を務めた。年譜に照らし合わせれば遠藤の文化学院着任は、第33回芥川賞受賞作となる「白い人」発表前年のこと。
 後年の教え子、山﨑博久に拠れば担当はフランス文学であった由。着任当初から仏文のみであったか、仏語も受け持っていたか、当時の講義目録が手許に揃っていないため未詳である。
 エネルギッシュな講義であったらしい。講義に遅れて教室へ入ってきた学生には「出ていけっ!」と一喝したともいう。現在の料理研究家、平野レミが経験者である(『ド・レミの唄』P25-27 中央公論社 1976/05)。されども遠藤の気さくな人柄と談論風発な講義は遠藤が教壇を去ってだいぶ経ったあとまで、当時を知る教員や事務員たちの話題となっていたことを付記しておく。教え子たちが遠藤を囲む会を20年以上の長きにわたって開催していたことからも、それは裏附けられよう。
 何年まで講師を務めたか、どの資料にあたっても詳らかではない。先程も申しあげたように、当時の講義目録をコンプリートして追ってゆかないとなんともいえない、というのが正直なところだ。この頃から小説執筆の取材やローマ法王謁見等々の理由により、国内外に長期の旅行へ出ていることから察するに、前述の山﨑博久が卒業した1959年度を以て後任講師にその役を委ねたのかもしれない。もしくはその都度休講となったと雖も講師として教壇に立ち続けていたか。が、そうすると再び、いつまでか、という疑問が浮上する。当時を知る人の過半が鬼籍に入ったと思しい現在、それを取材する相手もない。
 疑問といえば、誰が遠藤を、文化学院の講師に誘ったのか、も不明である。遠藤の恩師、慶應義塾大学仏文講師であった佐藤朔を通じて、というのが自然と思えるが、1950年代中葉、エッセイによれば遠藤は中国文学者の奥野信太郎らと親交を持っていたというので、そちらの側から講師の声がかかったのかもしれない。どちらにせよ、文化学院という学校が「リトル・慶應」と呼ばれもした、慶應義塾大学(学部・大学院・女子校など)の教員や卒業生が多く教えていたことからも、遠藤の招聘はこちらの筋から行われた、と考えるのが自然と考える。
 しかし、実は遠藤周作はこの文化学院でのことを、管見し得た限りのエッセイ類のなかでは触れていないのである。山﨑博久が著書『私の文化学院日記 1950年代の神田駿河台』(原書房 1992/02)の参考文献にあげた『試みの自画像-1 遠藤周作による遠藤周作』(青銅社 1980/10)、『落第坊主の履歴書』(日本経済新聞社 1989/12)、『私の愛した小説』(新潮社 1985/07)を繙いてみたが、文化学院に触れた箇所はなかった。唯一、『恋愛とは何か』(角川文庫 2019/01改版)に収められたエッセイの一節にあるのみだ(P98)。それとて、自分はいま文化学院と上智大学で講師をしているのだけれど云々とあるだけである。このエッセイの執筆年代は昭和31/1956年04月から翌年3月までの間だろう。上智大学の講師はこの1年間のみである。
 けっきょく、文化学院での遠藤に触れたのは前述した山崎博久と平野レミの著書ぐらい、というのが現時点での報告となる。同僚講師たちのエッセイも具に点検する必要あり、だな。
 ちなみに文化学院着任前後の遠藤の仕事としては、小説や評論、エッセイだけでなく、サド研究の文字が散見される時代でもあった。◆

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第3338日目 〈こんな夢を見た(その9):〈グリーン版〉世界文学全集第2期と第3期のこと。〉 [日々の思い・独り言]

 河出書房からそのむかし、出ていた世界文学全集がある。いわゆる〈グリーン版〉と呼ばれる、全100巻の全集だ。河出書房、であり現在の、河出書房新社、ではない。
 3期に分けられて刊行されたため、その編集方針の一貫性の欠如が指摘されているらしい。が、愛読した側にそんなことは余り関係ないのだ。
 祖父が遺した第1期の欠落書目を埋めることが、20代のわたくしが古書店を渉猟する目的の1つだった。それは果たされ、満足した。
 集めたあとは読むことが優先事項だ。が、問題は全部を読み終えたあとで、第2期、第3期に出された本は手許に殆どなく、かつては同じように古本屋の店頭で転がっていたのにそちらの蒐集へ意識が向くことも殆どなかった。手許に、読む本はなくなった。
 では、と腰をあげて古書店・新古書店、ネット・オークション、ネット販売のサイト、等々覗いてみても最早それは品薄で、なかなか出物と呼ぶべきはなかった。状態はともかく、月報がない、或いは有無の確認ができない、というのは致命傷以外の何物でもなく。……第2期、第3期の月報附き全巻収拾は、令和の世には難事なのか。
 偶々入った古書店の棚に、別巻も込みで〈グリーン版〉世界文学全集が並ぶ光景を、夢で見た。全巻バラ売り、月報附き、物によっては刊行当時のビニールカバーや帯も付いており。売価は各巻100円(税込み)。叩き売り、である。喜び勇んで手にしてありったけレジへ積み、四次元ポケットのようなリュックに詰めこんで店を出た。そこで夢から覚めた。──咨!!
 まだ目がちゃんと活字を読み取れるうちに、未架蔵書目をすべて手に入れて、飽きるまで読み耽りたいなぁ。◆

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第3337日目 〈Liella! 2nd LoveLive!, 於大阪城ホール。行ってきます!!〉 [『ラブライブ!スーパースター!!』]

 Liella!の2nd LoveLive!、結ヶ丘ガールズバンド(軽音部!!)といっしょに06月04日と05日、大阪城ホールにて。YouTubeにて告知動画、視聴可能。
 ……ちょうど業務の引き継ぎでその頃は大阪にいるな。奥方様と生後2カ月の娘と母には申し訳ないけれど、仕事にかこつけて参戦するか。
 耳が心配だけれど、たぶん最初で最後のLiella!ライヴだろうから、心ゆくまで愉しんでくる!◆

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第3336日目 〈アニガサキまで、あと10日。〉 [日々の思い・独り言]

 公式ツイートがTLに流れてくる。気持ちが弾む。『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』第2期スタートのカウントダウン、放送開始は来月04月02日から。
 あと12日、あと11日、あと10日……。来週27日は直前スペシャルも。新キャラクターが登場して、新たな展開を見せてゆくアニガサキまで、あと10日。特番までは、あと5日。
 公式ツイートをTLで見るたび煽られて、訳もわからずときめいてくる、妖しい気分になってくる。なんだろう、この、抑え難いざわめきは。
 HDDの容量はたっぷり空けた。どんと来い。◆

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第3335日目 〈伊那の土地柄と井月と。〉 [日々の思い・独り言]

 生まれた土地、育った地域、暮らす環境が人にどのような作用を及ぼすのか。長じてどのような影響を与えてゆくのか。とても興味がある。上伊那の俳人、井月はどうか。
 北村哲雄『俳人井月』(岩波現代全書 2015/03)に拠れば井月が定住した<南信>、つまり諏訪、上伊那、下伊那の人間気質について曰く、諏訪は生活風土の厳しさゆえ言葉も気性も荒い、上伊那は温暖な気候と天竜川沿いに開けた耕地の恩恵を受けてか人間が丸くのんびりしていて真面目である、下伊那は三州街道(伊那街道)から静岡や名古屋、関西圏の文化が入りこんで言葉も気質も他にくらべて柔らかい、と。
 井月の出自は未詳だが、30代の頃から伊那を寝床とし、そこに根をおろした。句集を読んでいるとかれの俳諧は、芭蕉のように彫琢を重ねたというよりも、口から自然と零れ出てそのまま形を留めた日常句、と呼ぶ方がはるかに実像に近かろう。のんびりとした里の景観、人の動き、祭りの様子を切り取って五七五に封じこめた、芭蕉たちビッグネームとは異なるおおらかさ、駘蕩ぶりが滲み出てくるようだ。一茶の句と同じ地平にいるように、わたくしには感じられる。
 井月の俳諧はきっと、伊那という場所でなくては生まれぬものであった。伊那の人たちと話しながら井月の<福>を想う。◆


俳人井月――幕末維新 風狂に死す (岩波現代全書)

俳人井月――幕末維新 風狂に死す (岩波現代全書)

  • 作者: 北村 皆雄
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2015/03/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)




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第3334日目 〈『新 もういちど読む山川世界史』で世界史の学び直しをしています。〉 [日々の思い・独り言]

 世界史の知識がわたくしには欠落している。聖書を読み始めてそう痛感した。中高のテスト範囲になるような事柄──四大文明の発生とかコロンブスのアメリカ大陸発見とか、ローマ帝国が最終的に東と西に分裂した、とかね──は覚えていても、まずそれを整理できていない。イコール、必要なときにその知識を取り出すことができない、ということ。
 アカンなぁ、と思い思いしつつ、これまで学び直しの機会を設けることはなかった。イギリスやヴェトナムの歴史の本は、文化史や言語史にまで手を出し何冊となく読み耽り、聖書を読み始めてからは古代オリエント史やローマ史を参考文献に開くことも多くなったのに、である。地域ごとの歴史は或る程度まで把握しても俯瞰した世界史となると、途端に時系列が怪しくなり、事件や出来事についても輪郭さえおぼつかなくなる、という為体なのだ。
 幸いにして、いまは春。雪は解け、ヒバリ囀り梅の花開いて、心地良さげな風の薫る季節だ。わが家ものんびりとした春を迎えられた。お産の準備もあるが、みくら家は春風駘蕩な空気に満たされている。そのなかで来月お披露目予定のブログ原稿を書き進める一方、疲れると手を伸ばすこと最近多いのが、『新 もういちど読む山川世界史』(山川出版社 2017/07)だ。
 人類の発生と農耕・牧畜の起源から冷戦終結後の地域紛争まで綴った、いわゆる<通史>である。中学高校で世界史を習った人は誰しもお世話になったはずな教科書のアップデート版、大人が世界史を学び直す目的で作られたのが、本書だ。これをちかごろは息抜きと称して読み耽っていて、夕飯に呼ばれても気附かないことしばしばな原因となっている。
 抜群に面白い。世界史ってこんなに面白かったのか!? 記憶から欠落していた出来事、そも記憶に入りこむこともなかった事象を、「へぇ、そうなのか」「そんなことがあったのか」「これは記憶違いをしていたな」と思わせられることが続出である。たとえば、──
 アフリカの王朝といえば古代エジプトに勃興した王朝ぐらいしか知らなかったが、11世紀中葉、イベリア半島で起こった小国分立とレコンキスタ(キリスト教徒による国土回復運動)が飛び火して、主に赤道以北のアフリカ大陸で様々な王朝、王国が誕生したことが、これ以上は望めぬぐらい簡潔に書かれている(P96-7)。これなど如何に自分が世界史音痴であったか、思い知らされた数々の項目の最たるものであったよ。
 なお、現在のロシアとウクライナの戦争の背景の1つであるクリミア半島問題も、オスマン帝国以前の歴史から8年前、ロシアのクリミア併合問題まで本書はコラムで取りあげる(P292)。ビジネスパーソンでなくても最低限仕入れておくべき知識と考える。そんな意味でも本書は現代こそ必読の1冊、というてよい。
 それはさておき。斯様にいま、世界史を学び直している。そうして、ただいま反省中……局地的な歴史へ仮に精通していても、こうした俯瞰する歴史を把握していなくてはまるで意味がないよな、と。この春は公私ともに忙しくなるけれど、その隙間を縫って世界史の学び直しも続けてゆこう。◆


新もういちど読む山川世界史

新もういちど読む山川世界史

  • 出版社/メーカー: 山川出版社
  • 発売日: 2021/10/01
  • メディア: Kindle版




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第3333日目 〈旧約聖書続編の面白さを、これからも伝えてゆきたい!〉 [日々の思い・独り言]

 旧約聖書続編の面白さ、正典(旧新約聖書)に負けず劣らずの内容の幅広さ、そこで語られる<はなし>の深さ、思わず笑ってしまったり、もの侘しくなったり、感動してしまうような書物や場面のあることを、どうやって伝えればいいだろう?
 やはりブログで地道に話してゆく他ないか。逸話・挿話の紹介、些細な記述から生まれる疑問、1つの記述の背景となる歴史、などなど……。これまでと同じく気附いたことを書き留め、文章としてゆくのを繰り返すよりないか。
 余りにも──旧約聖書続編にかんして内容紹介、読書の助けとなる本は余りにもすくない。榊原康夫、土岐健治、秦剛平、各氏の著作だけが補助教材となり得るも、あくまで旧約聖書続編として新共同訳聖書(現在は、聖書協会共同訳も、か)に収まる書物、或いは旧約外典・偽典として括られる各書物の概説が中心で、内容の一々へ詳細に立ち入ったものでは残念ながら、ない。
 となると、いま流通しているか否か、という視点を設けても例によって『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』一強となってしまう。これなくして昨年の「マカバイ記 一」、PC入力中の「エズラ記(ラテン語)」の再(々)読はあり得なかった。「はずだ」とか「だろう」ではなく、断定、である。そうして前掲3書のうち、比較的参考になった、役に立った、といえるのは、榊原氏の、もう疾うに絶版となった1冊のみなのであった。
 このスタディ版を入手して今日に至るまで事ある度に開き、続編各書物を時に流し読みし、時に以前よりはすこしく精しく読んだことで、わたくしの旧約聖書続編への親しみ(握玩、という域へ近附きつつある)は増してゆく。
 その度に、「マカバイ記」の歴史がうねり動く様、「トビト記」の結婚観、「ユディト記」の女性の肝の据わりっぷり、「エズラ記(ラテン語)」の黙示文学といいつつその実<預言書>の体裁を整えた希望の書である点、「マナセの祈り」に接したときの深い歓びと感動、などなど己が非才も顧みず、<こんなに面白いんだよ!>という気持ちを誰彼構わず伝えて回りたいのである。
 たとえば生活の知恵や健康にまつわる種々の話題、人間関係の心得やコツなど説いた「シラ書〔集会の書〕」、或いは「ベン・シラの知恵の書」、「知恵の書」など呼ばれますが、これはどこか、わが国近世期の儒学者、貝原益軒『大和俗訓』や『養生訓』を思わせるところがあり、読んでいてかったるくなることも間々あるけれど面白く読んだ覚えがある。そういえば曾野綾子だったかしら、「シラ書」の著者にフォーカスをあてた小説があった、と記憶する。──こんな、平井呈一いうところの「けっして突飛でもなければ。故なきことでもないのであって」(マッケン『恐怖』P599「作品集成解説Ⅱ」 創元推理文庫 2021/05)な発見、感じ方もできる。
 窺ってみたところ(誤変換に非ず)、キリスト者でも──信徒であれ教会の人であれ──この旧約聖書続編を読んでいる人はすくない様子だ。ましてやこれを全巻読んでいる人となると、尚更。いい換えれば続編は、かれらの手垢にまみれることなく、かれらの意見や考えに覆われているわけでもないので、振り回されることもすくない、ということ。これが読書するにあたって、どれだけ気持ちを軽くしてくれることか。むろん、ちょっとした疑問にぶつかったとき、すぐに解決できる手段もすくない、ということでもあるけれど。
 が、そうした引っかかりの先には、調べる楽しみがある。昨年から続く再(々)読でわたくしは、「一マカ」に於いてオリエント世界と地中海世界の衝突から改めてローマ帝国の歴史に──かつてよりは深く興味を抱いて遂にギボンを買い直し、岩波文庫やちくま学芸文庫で翻訳された史料へ目を通す、という愉しみを持った。直近ではエズ・ラ15:29-33に暗喩されたローマ帝国周縁部で発生した戦闘についても先日購入した塩野七生の本で理解(解決)の端緒を摑みもした。斯様に調べる楽しみが、疑問の先にはかならず、ある。
 こうしたことを含めて、旧約聖書続編の面白さ、を伝えてゆきたいなぁ。やはり、「聖書」という名が冠されていること、その一部であることが、読書したことのない人を遠ざけているのだろうか? でも、こればっかりはどうしようもありません。やれやれ、困った、困った。◆

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第3332日目 〈迷いは吹っ切れた。〉 [日々の思い・独り言]

 ずっと迷っていた。
 未来の可能性の様々を、結婚によって奥方様から奪ってしまったのではないか、と。本人へ訊くことは流石にできず、そのまま悶々と、胸中の障りとなってその慚愧の想いは燻り続けていた。
 が、いまは情勢が百八十度、変わってしまった。ロシアのウクライナ侵攻である。激しさは増す一方だ。在職していたら果たして帰国できていたかどうか……。
 もう迷いはない。彼女の選択に間違いはなかった。
 不謹慎かもしれないが、いま隣で、間もなく出産予定の大きなお腹を撫でながら本を読んでいる奥方様を見て、安堵に胸を撫でおろしている、というのが本当である。◆

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第3331日目 〈3月の地震は、他の月の地震よりもゾッとさせられる。〉 [日々の思い・独り言]

 あ、来るな。かすかな地響きが遠くからやって来る。する内、揺れが大きくなり、シャッターが小さな金属音を立てて揺れ、家屋の骨組みが軋んで元に戻ろうとする音が地唸りの向こうに聞こえてくる。本の山が傾ぐが、絶妙なバランスで崩壊する一歩手前で踏み留まっている。
 否応なく11年前を思い出す。どうしてここばかり……という住民の声が新聞で紹介されていた。皆が同じことを思うている。どうして、どうして、と。
 2022/令和4年03月16日(水)23時36分頃。震源地、福島県沖。マグニチュード7.4、最大震度6強。東松島市と仙台市はそれぞれ震度6弱、震度5強。神奈川県西部;震度4。
 揺れは一旦収まり、すぐあとに本震が来た。これは長い時間揺れて、幅も大きかった。関西でも小さいけれど体感できた、という。緊急地震速報は2度とも鳴らなかった。やばいね。
 翌朝。朝刊を読み、ニュースを見、夕刊を読む。東北新幹線が脱線し、東北自動車道に一部ひび割れが発生した。停電と断水が各地域で頻出、復旧作業が進んでいる云々。
 報道に接して、かの地に住まう知己の人たちの安否を想う。どうか無事であってほしい。もう会うこともあるまいかれら、彼女たちだけれど、皆が何事もなく、これまでと同じ生活を続けていてくれることを願う。どうか、どうか、──。◆

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第3330日目 〈「エズラ記(ラテン語)」再読、終了の報告。〉 [日々の思い・独り言]

 「エズラ記(ラテン語)」再読が昨日昼を以て全章、完了した。場所は、所縁あるスターバックス某店。──いまの気持ちは、安堵。否。脱力状態が正しいか。
 第5章以後は未だモレスキンのノートのなかにある。明日は1日休んで聖書のことなぞ考えず過ごそう。明後日からPagesに順次入力、感想を清書して、という作業に取り掛かろう。或る意味でこれがいちばんの憂鬱事であり、いちばんの難所だな。
 が、中途半端のままで終わらせるよりは今後の推敲が、どれだけ果てなきものになろうとも完成させていあるだけでまったく事態は変わってくる。もっとも、初稿があがっているからこその怠惰も考えられよう。まだ気を緩めることはできない。
 とはいえ先日お話ししたお披露目開始のスケジュールは、延期などしなくて済みそうである。まずはホッ、と一息。
 どうにか全章を読了し得たいま、旧約聖書続編に収まる諸書でもこの「エズラ記(ラテン語)」は実に読み応えある深い内容を持った、何度でも読んで考えることのできる書物である、と確信を持っていえる。聖書に収まる外典のなかで三指に入る鍾愛の書物である、とも。
 更なる精読をしたらば、もっと違う楽しみ方、捉え方ができるだろう。◆

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第3329日目 〈パウロの福音伝道の原動力になったもの。〉 [日々の思い・独り言]

 執念が実ったから、歴史が動いた。パウロがユダヤからローマへ福音を宣べ伝える辛苦の旅に挫折することがなかったから、<ユダヤ教ナザレ派>の福音は帝国の中枢へ入りこんで<キリスト教>へ成長してゆき、やがて皇帝の認可の下、世界へ伝播してゆく足掛かりを得た。
 ──初期キリスト教の発展の歴史を極めて大雑把に述べれば、こんな風になると思います。
 この発展の歴史の、扇の要というべきはパウロの、キリストを一心に求め敬う信仰の揺るぎなさ、狡猾さと妥協ぶりに求められましょう。「使徒言行録」を繙いても、エルサレムの使徒集団との対立と妥協、伝道旅行で立ち寄った地での迫害(無理解)とその地の人たちの改宗、ローマ行きの機会が得られるまで牢獄で過ごしたあたりなど、その片鱗が窺えると思います。
 最初パウロはサウロとしてユダヤ教ナザレ派を迫害する側にあった(ステファノ殉教の場にも、かれはいた)。それがゆえにダマスコでの信徒弾圧行きの途上回心したと雖もかつての弾圧者としてユダヤ教ナザレ派の人たちからは胡散臭い目で見られ、時に責め立てられもした。福音の伝道者となってからはエルサレムの使徒集団とその一派から異端視され、その教えに根拠なしと誹謗され、律法軽視を咎められて、宣教活動を妨害されることはしばしばでありました。
 にもかかわらず、パウロがキリストの福音を宣べ伝えることを止めなかったのはなぜか。
 わたくしはそこに、迫害者であった過去の自分への懺悔の気持ちがあった、と考えます。
 「なぜわたしを迫害するのか」(使9:4)とダマスコへの途次、サウロは顕現したイエスに問われました。心からの悔い改めによってサウロは自分のなかに回心の気持ちを確認した──それまで虐げていた信徒たちがゆめ捨てようとしなかった信仰の篤さを窺い知り、それについて想いを巡らせているうち自分のなかにもキリストへの信仰が仄かな灯火となって灯った。その小さな出来事が出発点となり、自分を突き動かす衝動となって、おそらくは使徒の誰も持たなかったローマ市民の特権を最大限に活かした異邦人への宣教──律法ではなく、神の国の福音(ルカ16:16)──を己の務めと思い定めた。そんなところではなかったでしょうか。
 斯様な己の経験を踏まえて出た言葉が、「ガリラヤの信徒への手紙」にある「人は信仰によって義とされる」であります(ガラ2:16)。
 律法を遵守しなくてもいい、割礼をしなくてもよい、というのがパウロのスタンスでした。ただ隣人を愛しなさい、心を尽くし精神を尽くし思いを尽くし力を尽くして神である主を愛しなさい(マコ12:30-31)、というイエスの教えをパウロは、他の使徒たち──生前のイエスを知らぬがゆえに思い出や為人というフィルターに惑わされることなく振り回されることなく、却ってその教えに忠実でいられたからこそ、自信を持って「人は信仰によって義とされる」といい放つことも出来たのでしょう。尤も、その点にこそ使徒集団とその一派との対立の根があったのですが。
 咨、あなたよ、請われて考え、いまは斯様にパウロの福音伝道の原動力について想う次第であります。「エズラ記(ラテン語)」の再読と浄書が終わりましたら(再読はあと1日で終わります。ここ数日は毎日、テキストと睨めっこです)、ペテロの殉教と併せてパウロの教えに関して、もうすこし体系立てて、もうすこし掘りさげて、考えてみるつもりでいます。ただ1つ、備忘としてここに記せば、ガラ2:19「もはやわたしはキリストとともに十字架につけられています」はパウロの<十字架の神学>の出発点、萌芽と考えてよろしいでしょうか……。
 どうぞ皆様によろしくとお伝えください。◆

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第3328日目 〈旅はまだまだ終わらない。〉 [日々の思い・独り言]

 未だ以てペテロ殉教について調べの付かぬ点がある。古来伝えられるところでは使徒ペテロはローマで逆さ十字架の刑に処せられた、という。逆さ十字架の刑を望んだのは、「師イエスと同じ方法で処刑されるに自分は値しない」とペテロ自身の申告があったから。
 成る程、と思い、ペテロへ関心を向けるようになっていちばんに調べたのは、この処刑にまつわるエピソードだった。
 その頃は参考文献と呼ぶべきものも然程架蔵していないし、図書館で繙くのも旧新約聖書及び続編の註解書や概説書、成立史や時代背景を語った本が精々で。そのなかに偶さかペテロ殉教の記述を見出しても、上述エピソードが出典、典拠の記載なく紹介されるばかり。研究者への道を歩みかけたことのある身には片手落ちにしか映らぬ処置だ。これでは納得がいかないのである。
 当時に比べれば参考文献と呼んでよかろう本もすこしずつ手許に揃って来、図書館や書店で神学や聖者列伝、聖書偽典・外典、死海写本、ナグ・ハマディ文書、グノーシス主義、キリスト教史、ユダヤ教史の類を手にして読んだり借りたり、時に買うたりする機会も増えてきた。ではそこに、ペテロ殉教を伝える挿話の典拠はあったか? 答えは、否、である。
 ペテロが逆さ十字架の刑を自ら望んだことは、著者不明の新約外典『ペトロ行伝』とエウセビオス『教会史』に載る。この点に関しての疑問は解決した。が、どこを見渡しても、ペテロがいったとされる「師イエスと同じ方法で処刑されるに自分は値しない」云々の記述はなかった。エウセビオスは『教会史』第Ⅲ巻第1章第2節でこう書く、──

 (ペテロは)最後にはローマに来て、十字架にさかさまにかけられた。彼がそのような仕方で受難を要求したからである。(上巻P142 秦剛平・訳 講談社学術文庫 2010/11)

──と。「そのような仕方で受難を要求した」と「師と同じ方法で処刑されるに自分は値しないから、と説明した」は別物であろう。この件りは『ペトロ行伝』にも、ない。
 では、果たしてこのペテロが口にした理由は、どの文書に載るのか。どの文書の記述を出発点にして後世へ伝承、流布されていったのか。
 実は、聖ヒエロニュムス『初期教父ラテン伝記集 著名家列伝』ペテロの項が逆さ十字架の刑と理由の両方を載せる。曰く、──

 ネロの手により十字架に釘づけされ、頭を地面に向け、両足を空中に高く掲げて、殉教者の花冠で飾られた(=逆さ十字架に架けられた)、自らが主キリストと同じように十字架に架けられるに値しない、と主張したゆえに。(P21 瀬谷幸夫・訳 論創社 2021/10)

──と。
 これが最古の伝承資料であろうか? 『著名家列伝』の執筆年代は392〜3年、という。『教会史』は311年起稿〜315年から325年の間に擱筆、とされる。
 『著名家列伝』以前に書かれたもので、特に逆さ十字架刑の理由を載せる文献はあるか? ペテロの生涯の出来事でいちばん不明瞭なこの点の調査の旅は、まだしばらく終わりそうにない。◆


エウセビオス「教会史」 (上) (講談社学術文庫)

エウセビオス「教会史」 (上) (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2021/03/19
  • メディア: Kindle版



エウセビオス「教会史」 (下) (講談社学術文庫)

エウセビオス「教会史」 (下) (講談社学術文庫)

  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2021/03/19
  • メディア: Kindle版



著名者列伝—初期教父ラテン伝記集

著名者列伝—初期教父ラテン伝記集

  • 出版社/メーカー: 論創社
  • 発売日: 2021/10/13
  • メディア: 単行本




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第3327日目 〈「エズラ記(ラテン語)」再読書ノートのお披露目について。〉 [日々の思い・独り言]

 お知らせ;04月11日(月)もしくは12日(火)の午前02時から、〈「エズラ記(ラテン語)」〈前夜〉〉を以て同書再読書ノートのお披露目を開始する。現時点で第9章1/2までのノートが終わり、中間点を超えて先の見通しがだいぶはっきりとした。このあたりが本書最大の難所であった、と個人的には感じているが、果たしてどうだろうか。
 今後は1日1章の原則でノートを執って然る後Pagesへ入力、本文を改訂しつつメモ状態の感想を仕上げたあと余白のエッセイを綴る。これを繰り返してゆき、全章のノートが終えたあと〈前夜〉を執筆。あとはお披露目を待つのみ、となる。余裕を相当に持たせての上記日程ゆえ、2日3日の余裕は生まれるだろう。そう信じたい。
 前回は途中で音をあげて、しかし中途で放り出すことも出来なかったため、手に余る本書を結構乱暴な手段で終わらせた。全文を引いてノートの労を省き、感想を書き連ねて諒としたのである。今回はそんなお茶濁しでは済まさない──これが事実上の初陣となる。他と同じような意味合いで腰を据えて読んだわけではないのだから。
 色々な人が「エズ・ラ」について発言する。荒唐無稽な代物だ、こんなものが外典とはいえ採用されているのは不快だ、と一刀両断して棄てる者あれば、非常に読み応えある書物で深い内容を持った必読の書である、と正典に負けず劣らぬ価値を見出して主張する者も、ある。
 わたくしは、後者だ。神学的な意味合いとかはさっぱり門外漢だけれど、読んでいて頗る興奮させられる書物であるのに間違いはない。流して読んだらば確かに「なにをいうてはるのか、わて、わかりまへんわ」な世界が展開される。
 が、ノートを執るてふ目的あるとはいえ気持ちを抑えて一行一行読み進めてゆくと、成る程な、とわかってくる部分が多くある。終わるときにはそれまで見えていなかった世界が見えてくる。黙示文学ってこんなに美しく、ネガとポジが引っ繰り返ったように反転した世界を見せてくれもするのか、と或る種の感動さえ覚えるのだ。
 それに、然程難しいことが書かれているわけでもない……「ダニエル書」や「ヨハネの黙示録」に較べたらむしろ本書を「黙示文学」として同列に扱うことに無理があるのではないか、と思いさえある。
 要するに、神なる主は自分の信仰を守り、律法を守ったイエス・マンを<義人>と称して他と選別して救い、自分がかねて用意していた新しい世界へ迎え入れたいだけなのだ。一方でサラティエルの名を持つエズラは人間存在の根源を、そもそもの出発点(アダムが罪を犯したばっかりにその末裔である俺たちまでが、ぶつくさぶつくさ……)を、手を替え品を替え、言葉を換え表現を換えて天使ウリエルに問いかけ、祈り、嘆き、訴える。そのたびウリエルは神なる主の代弁者として、これまた手を替え品を替え、言葉を換え表現を換えてエズラ/サラティエルへ答えるわけだ。
 基本構図は上記に尽き、エズラの問いも一種の変奏曲の様相を呈しているので、構成や変奏に気附ければあとは一瀉千里の如く読み進めることが可能となる。これが、今日まで読み直してきて朧ろ気ながら摑んだ「エズ・ラ」読書の早道である。尤も、ここへ至るまで何日、再読書が停滞し、進んでは戻るてふ足踏み状態を繰り返したことか覚えてないけれど……。
 とまれ、「エズ・ラ」再読書・再ノートの進捗状況は順調である。わが身に余程の事態が出来しない限り、予定は守られるだろう。◆

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第3326日目 〈もういちど観たい海外ドラマは、これ!〉 [日々の思い・独り言]

 スカパー! の番組表を眺めていて、「これはっ!」と思うてチャンネルを選んだらエンドロールが流れていた。こんな経験が何度もある。
 『Xファイル 完全版』が直近の経験となるが……これはまぁ、見逃しても良かったか。だって字幕だもん。やはりわれらの世代に『Xファイル』はテレビ朝日版の吹替しかあり得ない。風間杜夫のモルダー捜査官と戸田恵子のスカリー捜査官でなくてはならぬ。というわけでWOWOW、スターチャンネル、もしくはスーパードラマTV! のいずれかに『Xファイル』全話完全放送をお願いしたい。
 これを機会に(もういちど)観たい海外ドラマを考えた。倩考えた。そうして、納得のリストができあがった。以下、──
 01;シャーロック・ホームズの冒険;NHK綜合初放送版。放送時間の都合でカットされた場面ありのヴァージョン、でもある。吹替保管版は馴れぬうちは「興醒め」の一言。
 02;特攻野郎Aチーム;勿論映画版ではない。土曜日の午後に放送されていた、羽佐間道夫以下の吹替陣が未だに強烈に記憶に残っている。
 03;ファミリータイズ;妹マロリーの「お店は全部、駅のそば」、アレックスの「夜中になるとお金が僕に囁くんだ。アレックス、仲間を集めろ、って」、「そして……切っちゃった」をもう一度聴きたい。マイケル・J・フォックスの出世作、宮川一朗太の出世作。
 04;悪魔の手ざわり;放送は、土曜日夜10時から、であったか? オーストラリア製怪奇ドラマの傑作。ホスト役の男性のいぶし銀の魅力、地味ではあってもツボを押さえた怪奇の演出、10代のわたくしに、或る意味で一、二を争う影響を与えた海外ドラマ。
 05;地球防衛軍テラホークス;『サンダーバード』の生みの親、ジェリー・アンダーソン企画のマリオネット劇。『攻殻機動隊』のタチコマたちの先輩というてよい気もするゼロ軍曹たちの活躍、ゼルダ親子のどうしようもない地球侵略計画をもう一度観たい。
──と、こんな感じであろうか。すべて当時の日本語吹替版であるのは、断るまでもないだろう。そうしてこちらが観たいのは、当時地上波で放送された全話、であって、作品全エピソードではないことをご理解いただきたい。ここ、重要。
 どのような番組であったか、についてはコピペしてWikiで調べるなどしていただきたい。手抜きではない。でも、なにか忘れている気がするんだよな。まぁ、いいか。
 最近、海外ドラマをスカパー! で観ていても、のめりこめないんですよね。『LOST』と『CSI;マイアミ』が最後でしたよ。その後も秀作ドラマに数々接してそのたび「おおっ!」と夢中になったけれど、時間が経つとそれきり忘れてしまうことの方が圧倒的に多くって。大量に、間断なく供給されて洪水状態の環境になってしまっているためかな。
 『ミステリー・ゾーン』と『四次元への招待』を吹替版、字幕版双方で全シーズン、全エピソード放送という快挙を成し遂げてくれたスーパードラマTV! には特に期待。◆

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第3325日目 〈交通費に頼ってはいけない。〉 [日々の思い・独り言]

 通勤時間5分、移動手段;徒歩。「恵まれているなぁ!」と叫ぶ同僚もあるが、こちらにしてみれば「なにをか況んや」である。電車に乗りたい、ではない。本が読めない、でもない。あれ、逆? まぁ、いいか。されどまったく「なにをか況んや」なのだ。
 ギリギリまで家にいられる、という利点こそあれ、公休日に買い物などで出掛けた際、上司同僚部下等々に出喰わすとなっては、いったいなんの休日か。
 交通費が支給されないのも痛いよね。残業代同様、やがて確実になくなる会社支給の1つでもあるこれをわたくしは、不労所得として扱うことにしている。金融機関に預けっぱなしとなる収入──いい換えれば、「実際にはあるけれど、ないものとして考える」支給額の一部、ということだ。
 賞与がない分、本多博士式に雑所得として考えるようにしている1つが、この交通費である。というか交通費(や残業代)を考慮に入れた支給総額に基づいた生活設計って、どうなのだろうか? 遅かれ早かれ破綻したり、マイナス方向で見直しを迫られると思うのだが……。
 付帯支給に頼らず、基本給だけでなんとか出来るようにしたいですね。◆

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第3324日目 〈公共交通機関を使わない通勤の、唯一の恩恵。〉 [日々の思い・独り言]

 昨日の話の続き。
 これまで通勤電車を読書のためのスペース、そのための時間、と捉えてきたから本を読むことが出来た。その、公共交通機関を用いた通勤時間がなくなってしまったことで、読書する時間が著しく減り、消化する数も減った、というのが昨日の要約である。
 ただこれには唯一の恩恵というものがあった。当初は気附かなかったが最近になって「そういえば」と思うようになったのだ。それが、目の疲れの軽減、である。
 寄る年波には勝てない、というとなんだか敗残者めいて厭だが、このところ根を詰めて本や資料を読んだり、或いはすこし長い時間書き物をしていると、どうにも視界がぼやけてならない。痛くなってくる場合もある。
 目がそんな状態になると、文字はかすれて輪郭もはっきりしなくなる。殊最近は「エズ・ラ」を読んでいる関係で、引用や感想などで「節」を記そうと確認すると、小さく印刷された数字がすぐに読み取れないてふ経験が多い。眼鏡を外して裸眼をページへ思いっきり近附けたり、目を細くしたり、本を遠くにしてみたり、というよくある行動はまだ取らずに済んでいるけれど、これもまた遅かれ早かれ、かなぁ。
 斯様に思うことが多くなったこの1年2年の間で眼鏡を2本、視力の検査やレンズの度数確認も含めて新調しているが、それも再びやり直した方が良いのではないか、と思うぐらいに視界がぼやけ、目がかすむことしばしばなのである。
 TVの通販や書店、眼鏡店のポスター、サンプル等でお目にかかる、もしくは類似品で100円ショップに並ぶ眼鏡スタイルの拡大ルーペを使うようになった頃と時期的に同じ、というのは偶然だろうか。肯定する材料も否定する材料も持ち合わせていないが、両者は奇妙なまでに歩を一にしているのである……。
 もし自分がいま、電車で通勤することになっていたら車中で本を読むなんてことはせず、ひたすら窓外の景色を眺めて過ごしていることだろう。それはそれでまた、良い。◆

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第3323日目 〈読書リズムを狂わせるに十分すぎる通勤環境。〉 [日々の思い・独り言]

 読書がまったく捗らなくなった。何年かに一度の由々しき事態到来、である。新調したばかりの布製ブックカバーに収まるのは、吉川英治『新編忠臣蔵』上巻である。読めない本、というのも、これ、なのだ。
 吉川英治といえばかつて令名を馳せた歴史時代小説の巨星、ページタナーとしてはジャンル最上位の人。この人の小説を読み止してそのままなんて、正気の沙汰ではない。いい過ぎだろうか。否、そうは思わぬ。ほぼ等しい、というが譲歩の限界だ。
 読めなくなった原因はわかっている。公共の交通機関を使っての通勤時間がなくなったためだ。そのために、鞄へひそませた文庫を開くことがなくなってしまった。通勤時間5分、移動経路;徒歩。これはねえ、モナミ、読書リズムを狂わせるにじゅうぶんですよ。昼休憩は家に帰ってご飯食べているしね。
 次のコールセンターの現場は、電車を使って片道30分ぐらいの場所にしてもらおう。本を読めないのも辛いが、電車に乗れないのも辛いのだ。電車に乗れるなら、片道1.5時間ぐらいでも構わない。◆

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第3322日目 〈こんな付箋のことなんて、すっかり忘れていた──折口信夫と信州の本。〉 [日々の思い・独り言]

 間もなくやって来るお嬢さんのための家内の片附けを休められない。殆ど作業は終わっているとはいえ、小さな所が気になりだすと自分で修繕している。知る業者さんを呼んでも構わぬがお金がかかる。些少な箇所のためにわざわざ足をお運びいただく必要もあるまい。
 むかし取った杵柄、ともいう。不動産会社に就職したての頃に内覧や引渡し前の小さな修繕を、建設会社の現場監督さんに教わりながらやっていて良かった、といまになって初めて本心から思う。作業中の姿をまだ中学生の奥方様に見られたときは、心なしか恥ずかしかったけれどね。
 閑話休題。作業の手を休めて溢れる本をどうにかしようと部屋へ行き(作業中にまた本が届いた!)、片附けを始めようと最初に手にした本が悪かった。芸能学会・編『折口信夫の世界』(岩崎美術社 1992/07)と今井武志・著/信濃毎日新聞社・編『折口信夫と信濃』(信濃毎日新聞社 1973/10)てふ大判の書籍である。その場へ坐りこんでしばらく読み耽る仕儀と相成った。
 『折口信夫の世界』の天から覗く付箋を頼りにページを開くと第三章「足跡」は「●信州」の項目ヘ辿り着く。花祭見物の前後に貼り付けたと思しい。付箋は概ねページ上部に貼られているが内一箇所、版面のほぼ真ん中に貼った1枚がある。当時のわたくしの筆跡で、「ここにぜったい泊まる!!」とあった。国鉄(当時。現;JR東日本)中央本線と飯田線が乗り入れる辰野駅前、みのわや旅館に泊まる、と息巻いていたのだ。その旅館は折口信夫が上伊那を訪れると、しばしば宿泊先にした旨弟子の中村浩が書いていたからだ(P173 「上伊那の折口先生」)。
 正直なところ、こんな付箋の存在はすっかり忘れていた。申し訳ないがここに泊まった覚えがまるでないから花祭のあと伊那に出て高遠城を<見物>して、蓼科や軽井沢で祖父が持っていた別荘の留守番をした年よりも以後にこの本を入手して、この付箋を貼ったのかもしれない。
 同じページに挟みこまれた紙片の一文や日附から察するに最後に花祭を見学した年以後にこの付箋を貼り、それっきりみのわや旅館のことなどすっかり忘れ果てていたらしい。まぁ、そのあとは色々あったからな。就職もしたし、そんなのんびりした気分にはなれなかったのだろう。
 折口信夫と信州の縁は深い。『折口信夫と信濃』という本が地元の書肆から出されることからも、その縁の深さは明らか。両者のつながりの相当な濃さが想像できる。『古事記』講義の最終日に詠まれた「年ながく古事記講義に来しほどに若かりし人のはげゆくも見つ」なんていう、一読吹き出してしまう短歌が短冊に残っていたり、上伊那辰野町に住まって折口の講義を聴いた人の手許には、「ぬばたまの夜はふけにけり山の村の屋ごとの子らはいねにけらしも」という釈迢空の短歌の半切が残っている(迢空短歌としては並以下、近代短歌としても平均的な詠物だ)。
 折口博士の信州訪問は大正時代に始まるという。その活動域は信州全域に及び、上伊那と下伊那の教育委員会や有志の研究会などへも呼ばれて何度となく講義を行っている。中公文庫の『古事記の研究』は下伊那での講義をまとめた1冊であった。前掲中村の文章には、昭和8(1933)年から最晩年までほぼ毎年1回以上、上伊那を訪って『万葉集』の講演など行っていた、とある。
 折口が信州とそこまで深い縁を結んだのはどうしてか。『折口信夫と信濃』後半部を占める今井のエッセイを熟読しながら、巻末の信州関係年譜を参考にすれば、自ずと見えてくるものもあるだろう。1990年代後半に刊行された新全集を並行して開きながら、すこしく考えてみることを来年度の課題としたい。
 では、お姫さまをお出迎えする準備に戻ろう。夕飯の仕度もしなくてはな。◆

 追記;下記書影、一定時間経過のため削除。2022/03/10 21:12□

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第3321日目 〈Everything is everything, But you're missing.〉 [日々の思い・独り言]

 あの日の夕暮れを覚えている。
 夕暮れのなかの光景を覚えている。
 いちばん大切なものを置き去りにしてきた。
 置き去りにしたせいでいまも彷徨っている。
 ぜんぶ揃っているのに、あなただけがいない。
 あなたがいないのに、ぜんぶ揃っている。◆

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第3320日目 〈まだ命ある間に、近世怪談の現代語訳集をまとめたい。〉 [日々の思い・独り言]

 近頃のえげつないホラー小説と称すものはどうにもムシが好かんので、このジャンルの読書は自ずと実話怪談に転換するか、過去の作物へ向かうことになる。実話怪談はいま隆盛を極めておりますが、むしろ何度目かのブームを迎えて沈静化しつつある時期、と現在を考えてよかろうと思います。だからこそ、いまの群雄割拠から然るべき作家、作品だけが生き残ってゆく熾烈な時代を、これから迎えてゆくことでありましょう。
 30代のとき川崎の古本屋で平井呈一編・訳『屍衣の花嫁』を入手して以来これを貪り読むばかりでなく、当時話題になって映像化もされた『新耳袋』を買ったり同僚から借りたりして夢中になって享受した覚えがあります。たぶんそこが発火点になって、いま実話怪談を読んでいる。
 小説についていえば学生時代に『怪奇小説傑作集』全5巻を皮切りに神保町と高田馬場の古本屋を講義をサボってほっつき歩き、むかしの『ミステリ・マガジン』と『SFマガジン』のお目当ての号を東京泰文社を中心に漁り、銀座のイエナや日本橋の丸善、神保町の北沢書店でアンソロジーを食費を切り詰めて購うたりして渇きを癒やした。
 昨今の出版事情は厳しいとはいえ自費出版物も求めやすくなり、また商業出版でもかつては考えられもしなかった企画が実現している。ヴァーノン・リーやオリヴァー・オニオンズの傑作集、或いは片山廣子の翻訳集が出たり、ダンセイニ卿の作品集ばかりでなくカットナーのクトゥルー小説集やC.A.スミスの作品集が有志の手によって編まれるなど、このジャンルの愛好家には嬉しい悲鳴をあげる時代が訪れています。
 とはいえ、以上はすべて海外の怪奇小説にまつわるわたくしの感慨。では国内は、となると、現代も近代もすっ飛ばして江戸時代へひとっ飛びしてしまうのが本当のところ。内田百閒と中菱一夫の作物にはチト後ろ髪ひかれるものがありますけれどね。
 江戸時代の怪談集でいちばん好きなのはやはり『雨月物語』ですが、それに匹敵するぐらい浅井了意『伽婢子』が好きです。久しく筆を執っていない近世怪談の現代語訳の新しい編はぜひここから、と思うて全編が載る有朋堂文庫と新日本古典文学大系、抄録の岩波文庫を引っ張り出して連休初日の午後、ページを繰っておりました。
 浅井了意は、江戸時代前半に活躍した小説家で浄土真宗の僧侶。現在の大阪府高槻市の出身。
 代表作『伽婢子』は寛文6(1666)年に開板された了意の代表作。中国の志怪小説などを種本とした翻案小説ですが、自分の考えや思想を塗りこめる原典を如何にして探し出すか、そうやって見附けた種本を如何に料理するか、江戸時代の小説家にとってはそこにこそシェフとしての力やセンスが問われる舞台がありました。そうやって書かれた有象無象のうちから一握りが、時代の趨勢・歴史の偶然をも味方につけて<古典>としての地位を確立して、かつ内容の面白さ、読み応えの深さゆえに読み継がれてゆく。近世初期に現れた『伽婢子』はこうした要件の、格好のサンプルであるように思います。
 さて。午後の一刻を費やして通読したところ、こちらの実力も考慮したうえで幾つかの候補作を見附けることができました。過半が岩波文庫に重複して載る作品であったのは偶然でしょうが、『伽婢子』が名編の宝庫であることの一証左であるようにも、わたくしには感じられるのであります。
 現在の最有力候補は巻四ノ五「幽霊逢夫語」ですが、他にも巻三ノ三「牡丹灯籠」、巻三ノ四「梅花屏風」、巻四ノ一「地獄を見て甦」、巻四ノ二「夢のちぎり」、巻六ノ五「白骨の妖怪」、巻六ノ三「遊女宮木野」、巻八ノ三「歌を媒として契る」、巻十二ノ一「早梅花妖精」、巻十二ノ二「幽霊書を父母につかはす」は是非にも自分の手で料理してみたく思います。いずれにしてもどれを訳すにせよ1日分としては分量的にも長いため、数日に分けて載せることとなりましょうが、ゆっくりと手慰みに、されど腰を据えて取り組んでゆきたく思うております。
 もう人生の折り返し点を疾うに過ぎたわたくしはいま、これまで中途半端に書いてそのまま完結もさせずに過ごしてきた作物の完成と、現在進行中の企画を或る程度の数まで揃えて形にしておきたいことばかりを望んでいます。この近世怪談の現代語訳もその1つなのであります。さて、神はわたくしを何歳まで生かしてくれるだろう?◆

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第3319日目 〈この世界が許してくれる間は、あなたと一緒にいたいのです。〉 [日々の思い・独り言]

 もう臨月を迎える奥方様。新米パパは不安でならない。バツイチ子あり、ならこの不安、幾らか軽減されるのだろうが、これまで血を継ぐ者を持ったことがないのだ。
 とはいうてもこの新米パパの不安、とは、初めて子供を持つ父親が等しく抱える不安をいうのではない。不安というよりも、無念という方が正確かもしれぬ。わたくしは恐らくこの子が成人するまで、否、高校卒業の年齢までさえ生きていられないのだろう。花嫁姿を見ること、孫を抱くこと、いずれも夢のまた夢。根拠なき感傷的な話ではない。
 老いてから子供を持つものではない。世間の父親が普通に甘受できる、子供の成長を見守ることが、わたくしには許されていないようである。公王陛下ではないが、まさしく、老いてから子供を持つものではない。そこには淋しさと悲しみしか存在しないのだ。とはいえ、──
 その日が来るまで、父は君のそばにいよう。あなたが育ってゆく姿を見られるのは事実なのだから。お友達のパパよりずぅっと年長で、肩身の狭い思いをする日が来るかもしれない。あなたが疎んじて遠ざけるか否か、わからないけれど、それはそのときになってからの話にしよう。
 この世界の理が許してくれる限り、あなたのいる人生を歩みたい。あなたとママがいる世界で生きていたい。
 娘よ、こんなパパだけれど、それでも安心して生まれておいで。◆

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第3318日目 〈「エズラ記(ラテン語)」は、どうノートしたら良いだろう?〉 [日々の思い・独り言]

 最近思うところあって藤沢周平も立川文庫も脇に置いて、荒俣宏『妖怪少年の日々 アラマタ自伝』と『平井呈一 生涯とその作品』を読み耽っている。「エズラ記(ラテン語)」の再読ノートが早くも暗礁に乗りあげてしまったのが原因だ。
 両者に関係が? 見かけの上ではなにも、ない。ただ、内容のノートを記すにあたってどのように書けばいいかな、どう書けばすっきりするかな、どんな文体ならわかりやすくなるかな、と思案に暮れだしたらド壺に嵌まりこんで、二進も三進もいかなくなったのだ。
 昨夜も遅い時間まで、詰まってしまった章;第4章を睨みつけるようにして、読んでいた。シャープペンで書きこみしたり、フリクションボールで喩え話を囲ってみたりしてね。
 内容はさすがに整理ができてきた(併せて手許の参考文献が殆ど役に立たないことも判明した)。あとは、エズラ/サラティエルと天使ウリエルの神学問答を、どう書けばすっきりするか、わかりやすくなるか・読みやすくなるか、を解決できればしばらくは大きな停滞もなく進めてゆけるかな。
 たぶん聖書が正典とする文書のうち、同じような性質を持つのは「ヨブ記」と思う。旧約聖書の預言書も等しい性格を持つと考えてしまうけれど、読んでいるとなんだか異なる様子である。
 「エズ・ラ」が黙示文学だから、なんて理由ではなく、もっと深いところで決定的な差が生まれているように思うのだ。むろんこれが、ユダヤ教/キリスト教の専門教育を受けたことも、信仰に囲まれて生活したことも教会と関わりを持ったこともない、理解の遅い一読書人の感覚に過ぎないと承知しているけれど、それでもこの感覚は大事にしたいのだ……。
 とまれ、ノートのスタイルを早く確立させないと、先へ進むことはできない。お披露目開始は、新年度を過ぎるかなぁ。◆

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第3317日目 〈アポリクファ附き英訳聖書を買いますよ。〉 [日々の思い・独り言]

 独り語り、問はず語りをさせていただきます。
 ようやく「エズラ記(ラテン語)」の再読を始めたことを、既に本ブログでも、またTwitterでも、一部の人たちには直接お伝えしておりますが、此度読み始めてからずっと心の片隅にあって、なかなか払拭し切れていない悩み、があります。アポリクファ附きの英訳聖書を買うか否か。
 「アポリクファ」を馴染みある日本語に置き換えれば、「旧約聖書続編」。「外典」、「第二正典」の意味でもある。最初に聖書を読み始めたときからアポリクファはあって当然の存在でしたので、外国語訳の聖書も手許に置くならまずはアポリクファ附き、と決めておったのです。
 いや、既に外国語訳聖書というのは持っているのですが、いずれも自分の意思で所有したものではなく、プレゼントであったり拾い物であったり、というのが実際のところ。手許に置くなら云々とは自分の意思で購入を決めて折に触れ繙く聖書、という意味であります。然様、こうした性質を持つ聖書を、わたくしは持っていない。
 大きな洋書店やキリスト教書店の棚を見たり、サイトを覗いてみても、こちらの希望に合うものが見附けられない。できれば──最初に持つならこのヴァージョン、と決めていたこともあり、出来得ればKJVのアポリクファ附きが欲しい。どうせなら英語の勉強も兼ねたいではないですか。古色然としたジェイムズ王版はその役に立つのか、という疑問はありますが、まぁ古典なんてやっているとむかしの英語に心惹かれるところもあるのですよ……。
 話を戻して、じゃぁKJVのアポリクファ附き聖書はないのか、といいますと、これはあります。ちゃんと、ある。中身を確認できないのでタイトルや表紙の記述を信じるよりないが、ハードカヴァーでもペーパーバックでも(なんならKindleでも)売られております。
 中身を確認できないことのネックがあるとすればわたくしの場合はただ1つ、活字の大きさがどれぐらいか、この1点に尽きる。いちど丸善の洋書部でKJVであれ、New Jerusalem Versionであれ他の訳であれ開いてみたことがありますが、うーんどれも活字が細かく、読み続けるには目薬をお伴にせねばならぬぐらいであった。
 かというてハードカヴァーを選んでそのあたりを解決したとしても、今度は所蔵場所や持ち運びに頭を悩ませることになる。よくある話で、帯に短し襷に長し、というところでしょうか。
 どうしても最初の1冊はKJVでなくては都合が悪いわけじゃあないから、妥協策というか解決策は用意してある。白状すれば、本稿を書きはじめる時点で結論は出ている。どの訳を買うか、どのサイズで買うか、どこに置くか、等々……。
 身分不相応の英訳聖書を買いますよ。アポリクファ附きで、註釈や校訂がしっかりしていると評判の英訳聖書を。お値段は、うん、これぐらいはするよね、という価格です。KJVは取り敢えずKindleで購入して、オックスフォード大学出版局のNRSV──『The New Oxford Annotated Bible. New Revised Standard Version with The Apocrypha. An Ecumenical Study Bible』──を手許に置く。
 「エズラ記(ラテン語)」の再読に間に合えば、この箇所はNRSVではこうなっている、とか、当該箇所はこのように註釈されている、など本文に紛れこませることが出来るかな。今後の聖書読書にも活かせるだろう、と企んだりもしております。◆

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第3316日目 〈いまや講談本を読みこなす能力すらなき人が増えたのか。〉 [日々の思い・独り言]

 『用心棒日月抄』から横道にそれた赤穂義士への興味は未だ立川文庫『大石内蔵助』で留まっている。読み倦ねているのでは、ない。面白いからこそ、なのだ。
 むかしの講談本ゆえ読み初め当初はなかなか入りこんでゆけなかった。しかし、それはけっきょく「馴れ」と「忍耐」の問題であって、或る程度まで進んだらば途端に氷解する話であった。
 すべての物語にはやがて終わりが来る。しかも歴史上有名な事件を取り扱った物語が為主要な経緯も顛末もすべてわかっている。それでも、面白い、読み進めるのが勿体なく感じるのは、偏に子供が与えられたお菓子を食べ惜しむが如くこれを読んでいるからに他ならない。
 本書は最近の日本語読解力・書く能力を根本的に欠いたSNS依存の厨房が造作なく読み解けるような類の話では残念ながらないだろう。そもいまや忠臣蔵と赤穂義士もしくは赤穂浪士がまったく別物と思うている人もある程だ(中学高校の日本史の授業でなにをやってきた)。
 受け身に徹した、ページに印刷された活字を<眺める>ことが読書であると思いこむ人には、成る程、わずかでも込み入ったストーリーや史実に立脚した物語、或いは口当たりの軽い表現を感覚でしか受け止めることのできない人には、講談本でさえ読書するのは骨の折れる作業なのかもしれない。とはいえ、──
 たとえばこれを読んで、立川文庫や講談本について調べてみたり、描かれる時代背景がどのようなものであったか、史実と伝承と創作がどれぐらい入り交じった作品なのか、調査目的の楽しい資料漁りに向かってくれる人が1人でも現れてくれたらば、わたくしはうれしい。特定の世代に向けた斯くも挑発的な文章を認めた甲斐があるというものだ。
 わたくしは『大石内蔵助』を読みながら、この出来事は史実であるとか創作であるとか、調べたりしている時間がとっても愉しかった。徳富蘇峰『近世日本国民史』を繙き引用された史料にあたることで読書の桃源郷を味わいもした。前述した『用心棒日月抄』に登場した、上杉家から吉良邸に詰めている人物が講談にも登場して台詞を与えられているのを、ずいぶんと懐かしく思い、また実際のかれは如何な人物であったか、と想像して飽きることがなかった。
 願わくば読書に耐性なき若年層が本稿に触発されて、歯応えある作品に挑んで読書の法悦境へ一歩足を踏み入れてくださらんことを願う。◆

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