第3374日目 〈永井荷風「元八まん」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 永井荷風に「元八まん」という随筆がある。それを教えられたのは御多聞に洩れず平井呈一の文章であった。典拠を確かめるために該書を引っ張り出そうとしたが、あいにくダンボール箱の山の後ろの本棚にそれはあって出してくることができない。ただその文章が牧神社版『アーサー・マッケン作品集成』のどの巻かの解説であったのはまちがいない。創元推理文庫の『恐怖』でたしかめると、その文章は第2巻『三人の詐欺師』所収「赤い手」解説の一節であった。
 かいつまんで申せばマッケン文学の特質の1つとして、世紀末ロンドンを隈なく歩きまわり、目にする風俗を捉えた一種の都市綺譚、の趣を呈すところがある。それが平井翁をして荷風の『濹東綺譚』や『日和下駄』、そうして「元八まん」などを想起させる、というのだ。思い出してみればわたくしが荷風散人の文学へ一歩足を踏み入れ、断続的ながら今日まで読み続けてきているのはこうした指摘に導かれて、そのまま<荷風の沼>の深みに嵌まったものであろうか──それ以前に「来訪者」と「四畳半襖の下張」は読んでいたけれど、あれはまぁ、一種の助平根性からだから。
 マクラはここまで。それでは「元八まん」である。
 本篇は岩波文庫の『荷風随筆集・上』にも収められているが、わたくしが読むのに専ら使っているのは昭和30年代後半に岩波書店から刊行された全集の、第17巻(昭和39/1964年07月)だ。判型も大きくなって読みやすくなった新しい全集が欲しいけれど、おあしに問題があってなかなか手が出せない。
 わたくしはこの随筆の舞台となった土地を、まったくというてよい程歩いたことがない。以前仕事の関係で葛西臨海公園駅と葛西駅の真ん中にある建物に半年ばかり出向していたが、そこは「元八まん」の舞台とは荒川をはさんで対岸である。荷風が歩いたのは現在の南砂町や砂町の界隈だった。
 「元八まん」が書かれたのは昭和9/1934年師走。当時そのあたりはまだ蒹葭生い茂る草生す田舎で、人家もまばらに建つ程度。が、近代化、都市化の波はこの東京外縁にも着実に届いており、既に真新しい幹線道路が敷かれ、元八幡近くには州崎遊郭と錦糸堀を結ぶ城東電車の停留所(ステイション)があった。
 そんなような江戸の名残をどうにか留めていた時代の貴重な証言でもある「元八まん」、執筆は末尾に記され、前述もしたように昭和9(甲戌)12月。『断腸亭日乗』昭和9年条に本稿執筆の字は見出せねども荷風は遡ること昭和6年11月から折あるごとに大川を越えて本所深川方面へしばしば散策するようになるので、或る意味で本篇の執筆は必然といえるやもしれぬ。なお、日記では昭和7年1月8日条に元八幡(砂村八幡宮)の記述が初めて見られる(全集第21巻P70 岩波書店 昭和38・1963/10)。
 本篇は「深川の散歩」、「里の今昔」と併せて翌る昭和10年3月、『中央公論』誌に「残冬雑記」の総題で発表。これが初出となる。ちなみに「元八まん」は原題を「葛西橋」といった。
 この時期の荷風の作物は江戸文化に根ざした創作や『日和下駄』の系統に属する東京散策、地誌考証の随筆が目立つようになる。秋庭太郎も『永井荷風傳』で、「(この時期)既に江戸儒家に関する考証も影をひそめ、随筆雑記の多くも回想記や、そのかみの『日和下駄』に類する東京近郊の散策記のたぐひであった」(P366 春陽堂書店 昭和51・1976/01)と述べている通りだ。また紀田順一郎は『永井荷風 その反抗と復讐』のなかで、「荷風の逍遙癖はむしろその頻度や、マニアックなまでの執着性に特徴を見出すべきかもしれない」(P131 リブロポート 1990/03)と指摘した上でその好例を、「元八まん」に於ける元八幡探訪に求める。
 紀田は荷風の散策のあとを追って経路を丹念に辿り、「当時の東京の新開地と、江戸の廃墟とが交錯する地点に孤独と寂寥感に満ちたおのれの心象風景を重ねあわせていたのである」(P133)と結論附けた。けだし傾聴の価値ある一文と思う。
 さて、先日「元八まん」を読んでフト考えたのだが、戯れに、或いは文章修行でも理由は構わぬのだが、本文をすべて原稿用紙へ書き写して(その際、旧仮名旧漢字は現行のものに改めてもよし)、そこに様々語釈や地勢面からの補注を付けたりしてみたら案外と面白い作業になるのではないか。実地調査の必要もあろうから地図を調べて史跡を訪ねる愉しみばかりでなく、出掛けては徒歩となろうから健康面でも益するところ多々あろう。そんな過程で、破壊し尽くされたように思える東京にも未だ江戸の名残、東京市の面影が残されていることに気附けるだろう。
 本篇には既に述べた如く、「深川の散歩」と「里の今昔」という姉妹篇がある。こちらについても機を改めて、今日と同じように取りあげてみたい取りあげてみたい。◆


荷風随筆集 上: 日和下駄他16篇 (岩波文庫 緑 41-7)

荷風随筆集 上: 日和下駄他16篇 (岩波文庫 緑 41-7)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1986/09/16
  • メディア: 文庫




〓東綺譚(ぼくとうきだん) おもかげ (荷風全集 第17巻)

〓東綺譚(ぼくとうきだん) おもかげ (荷風全集 第17巻)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2010/08/29
  • メディア: 単行本




共通テーマ:日記・雑感

第3373日目 〈東雅夫・編『文藝怪談実話』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『新耳袋』が導火線役を果たした今日の怪談実話ブームは日本各地に埋もれる怪談奇談口承の発掘を活発化させ、いまでは沈静の様子を見せているようだ──というのは見せかけで実際のところは深化と熟成の段階に差しかかっており、と同時に〈温故知新〉の風潮も顕在化してきているようである。
 その風潮の好例が戦前まで文学・芸術・学問に携わる面々を主な出席者として頻繁に行われたという【百物語】や【怪談会】、或いは【怪異体験】の記録の掘り起こしではあるまいか。その音頭を取っているのが斯界にこの人ありと呼ばれるアンソロジスト、東雅夫だ。その氏が編纂した怪談実話アンソロジーとして特に名を挙げたいのが、『日本怪奇実話集 亡者会』と『文藝怪談実話』の2冊である。今回は後者の感想文を以下に稿す。
 本書『文藝怪談実話』(ちくま文庫 2008/07)は、明治大正昭和三代の文豪たちの心霊随筆にサンドウィッチされて開陳されるは田中河内介因縁談にかかわる談話の数々、遠藤周作と三浦朱門の熱海同時心霊体験記録、梨園の名優たちや歌手、民俗学者たちの幽霊見聞記など、古今の、筆に巧みな人物が綴った<こわい話、気味の悪い話、ぶきみな話、ふしぎな話>の逸品を一堂に集めた霊気濃厚、瘴気特濃の1冊と申してよかろう。
 ただ、そろそろ流石に佐藤春夫と稲垣足穂コンビの作品──佐藤の「化物屋敷」と「首くくりの部屋」(こちらは前述の『日本怪奇実話集 亡者会』に載る)、稲垣の「黒猫と女の子」──はこの手のアンソロジーのみでなく個々の全集等で読んできたこともあり、個人的にはもう敬遠したい。ただこれらの作品は怪談実話、怪談集に欠くこと能わざる所謂アンソロジー・ピースであるため、上の敬遠云々は個人の独り言と思うていただきたい。未読の方は名品だから絶対読め。1度しか読んだことのない人は行間や背景を読み解くつもりでもう一遍読め。何度も読んだという人はそれでも読め。
 あだしごとはさておき、怪談好きとしては思わず舌舐めずりしてしまったのが巻頭の遠藤周作・三浦朱門が経験した熱海での怪異遭遇記、遠藤によるその後日談である。初出は『文藝春秋 漫画読本』昭和32(1957)年1月号と『週刊新潮』昭和34(1959)年7月27日号。
 まだ2人が新進作家であった時分、示し合わせて旅に出たかれらは、熱海の山上にある旅屋で夜を明かす。そこで遠藤は怪異に遭い、三浦はそれを間近で目撃する。慌てふためいてかの旅屋から逃れたけれど、遠藤に拠ればソレはしっかり(定石通り?)付いてきた由。
 このあと遠藤は、自分が経験した恐怖の源を解明せんとして2年後、サイキック・リポーターの如く同行2人を伴って件の旅屋へ赴くのだが、そのときの作物が併載される「私は見た」であった。再訪の定石に則って何事もなく朝を迎えられたが実際は……。ゾワリ、とさせられる1編だ。
 申すまでもなく最初の同伴者なる三浦の「遠藤の布団の中に……」は併読必須。本編なくして<複数人による同一現象の目撃>てふ珍しい現象は確かめられないからだ。もっとも、遠藤の2編を読んで間に挟みこまれた三浦の文章を読み飛ばすなんて器用な芸当のできる読書人も、そうなかなか居らぬだろうけれど。
 この遠藤の遭遇記「僕はハッキリと感じた」は夜更け、寝られぬままに手にして読んでいるうち、淡々とした筆致で、特に作為も感じられぬ風に綴られているのが却って怖さを強く感じさせて、うん、この時間に読んだことを後悔したね。電気を消しても闇の片隅になにかいるような気がしたり、トイレに行っても何物かの黒い影が上から覆いかぶさっているような気がしてならなかったよ。
 ついでながら遠藤「私は見た」に、「その後一度、ふたたび熱海に行ったが」とある(P28)。これは遠藤の短編集『怪奇小説集』(講談社文庫 1973/11→『怪奇小説集 「恐」の巻』、『怪奇小説集 「怖」の巻』として2分冊・新装版 2000/02,06→角川文庫『怪奇小説集 蜘蛛』2021/08)に収められる「三つの幽霊」に再訪記事があるので、是が非の併読をお奨めしたい。
 田中河内介にまつわる因縁談のことは本稿では語らぬこととする。その因果の輪のなかに取りこまれることを恐れてではない。既に別に先行する形で書いていることに気附いたためだ。
 上記を除けばわたくしの好みはどうやら、第4部「学芸と怪談と──芸術家・学者篇」に集中している。わたくしがフリーランスのライター時代、行き詰まりを感じて芸能ライターの仕事を請け負っていた時分、劇場やスタジオ絡みの怪談をよく聞いていたせいもあろう。芸事の世界に籍を置く人たちの怪談奇談の類にを書き留めて馴染みを持っていたからでもあろう。
 読んでいると梨園の役者たち──六代目尾上梅幸と六代目尾上菊五郎──が語るここへ収められた怪談は、「死に行く人たちの思いが幻となって、暇乞に来る」(P249 鈴木棠三「怪異を訪ねて」)類の話が幅を占める。これが最も人の口に上りやすい種類の怪談といえるし、また体験談としてもこの種の話が多く採取できるようで、わたくし自身も体験がある”怪談”だ(しかし、会いたいと願う相手の訪問でないことが無念である)。
 菊五郎の父、というのはつまり五代目尾上菊五郎で、六代目梅幸は六代目菊五郎の義兄にあたる。菊五郎が語るのは五代目が経験した幽霊の話で、菊五郎は生前こそ会うことなかったが出生に際して縁あった女性の話。五代目と相思相愛であった吉原の船屋の娘、お若さんが懐妊したがお産のときに落命して生まれた赤子も一緒に死んでしまった。その後五代目は六代目の母と結婚したが、そこにたびたびお若さんの幽霊が現れる。やがて新妻は懐妊。お若さんは六代目が生まれるのを見届けるようにしてその後は姿を現さなくなった、という。
 良い話ではないか。いじましい、というよりも、死して後まで家の継承が果たされるか心配でたびたび姿を現すもけっして五代目の寵を被った女に手出しはせず、じっと見守る、そうしてぶじ男児が生まれると姿を消してもう二度と夫婦の前に姿をみせない、というのがなんともいえず好ましい。六代目も語るように、「死んだ後までも私達のことを心配してくれていた」(P209-10)のだろうが、なんだか雲泥の差だな……。泣かせられるよ。
 その対極にあって思わず身震いさせられたのが、〈ブルースの女王〉淡谷のり子の「私の幽霊ブルース」だ。幼き頃より他にくらべて”カン”が鋭い方だったそうだが、昭和24(1949)年頃というから40代に差しかかった淡谷がと或る会社の慰安会に出演するため、山口県宇部市の旅館に泊まったときの挿話が殊に怖い。
 宿の離れで寝ていると、自分の首まわりが妙に苦しい。目を開けてみると、蚊帳の上からなのか、なかからなのか、わからないが確かに自分の首に手をあてがって絞めつける者がいる。その姿を見て彼女はびっくりした、むかし結婚の約束をしてご破算にした相手の男だったのだ。明らかに殺意のある絞め方だったそうである。どうにかそれから逃れたが、なぜ宇部の宿の離れに男が現れたのか。宿の女将がサインを請うて差し出したサイン帳を見て、淡谷は愕然とした。その男──画家だったのだが、かれのサインがそこにあり、離れは男が宿泊するたび使っていた場所だというのだ。その後かれの描いた小品を人伝に入手して飾っていたが、それを見た占い師が良くないものだから仕舞ってしまえ、と忠告した。それは画家が淡谷を想うて描いた作品であったが、強烈な恨みの念が籠もっているのだそうである。
 本書随一の最恐実話、であるまいか。読んでいる最中もだが、読み終えた後も思い出すとゾワゾワする。なんというか、奈落の底へ突き落とされて全身を冷たい風が通り抜けてゆくような気分がしてくる。絵画であれ文章であれ音楽であれ、とかく文芸のジャンルに於いては、誰かを想うて作られた作品には良くも悪くも念が籠もって、引き金役を担うなにかと触れ合うことでその想いが作品から流れ出て時に悪意という形で牙を剥き想う相手に取り憑く、という作品がある。淡谷のり子が経験したこの画家の挿話はそんな一例にして好例であるように思う。
 他にも鈴木棠三「怪異をたずねて」が面白かった。早川孝太郎の逝去に際して、遠くにいてなお異変を感じて手紙を寄越した「三河の某氏」とは、加藤守雄のことであるまいか。また、片山廣子の「うちのお稲荷さん」も好ましい。わたくしの家にも長くお稲荷様を祀ってあったせいか。わが家に居られたお稲荷様も、もしかするとこんな可愛らしいお狐様だったのかもしれない、と思うと本篇への愛着は一入なのだ。
 本書と、『日本怪奇実話集 亡者会』や『文豪たちの怪談ライブ』、『百物語怪談会』、ひびきはじめ氏の『野辺おくり』など怪談実話を意図せずまとめて読んだこともあってか、自分もこれまで幾つか怪談奇談というべきものを聞いたり見たりしたことを思い出している。そのうち書いてみましょう。
 長くなってしまったので、ここらで筆を擱く。◆


文藝怪談実話―文豪怪談傑作選・特別篇 (ちくま文庫)

文藝怪談実話―文豪怪談傑作選・特別篇 (ちくま文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/07/09
  • メディア: 文庫




共通テーマ:日記・雑感

第3372日目 〈ヒルティの言葉を、悪役を演じる心の支えとして。〉 [日々の思い・独り言]

 いつもながらの私事を話させてください。
 ──
 このたびわたくしはふたたび、手酷い裏切り役を演じました。事実を伝えられぬ歯がゆさが残るとはいえ、正直なところを申せば悔いはまったくありません。あらかじめ周到な用意の下に準備された新規部署への道筋を付けるためには必要な通過儀礼だったのだ、と思うことにします。
 ヒルティの言葉を引用して、きっと碌でもない老年期を過ごすに相違ない自分への慰めとし、いまは決起するための燃料投下としよう。曰く、──

 神の怒りはとけ──戸は開かれた──
 あわれな魂は解き放たれた。
 わたしの前途にはかぎりない希望と
 奇跡にみちた時とがある。

──と。ヒルティ『眠られぬ夜のために 第一部』九月一日の条(P248 草間平作/大和邦太郎・訳 1973/05)より。◆


眠られぬ夜のために 1 (岩波文庫)

眠られぬ夜のために 1 (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1973/05/16
  • メディア: 文庫




共通テーマ:日記・雑感

第3371日目 〈いまは04月11日。5月中旬までの原稿を完成させておきたいなぁ。〉 [日々の思い・独り言]

 「エズラ記(ラテン語)」再読ノートは全章完成させたあとで、ブログへの予約投稿を済ませました。そのためか、なんだか気持ちにゆとりが生まれたのです。
 本稿は04月11日に書いておりますが、お披露目は2週間後ぐらいになっている筈。「エズ・ラ」最終章がお披露目される頃には、5月中旬あたりまでの分の原稿を書きあげ、同じように予約投稿を完了できるようにいま、スキマ時間を縫って執筆に励んでおります。
 文章を書きあげるためにはまず書き始めよ。書いたものはそれずべて貯えとし、然る後は天に富を積め、ならぬ、cloudに富を積め。──至言ではありませんか、と自画自賛。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3370日目 〈これからも書いてゆけるもの、もう書くことはできないもの。〉 [日々の思い・独り言]

 これからはいままで書こうと企んで(望んで)放置していたものを、資料を蒐めて検討し、メモを取り、書いては直しを繰り返して一編の文章を完成させてゆきたい、と思います。ずっと机上に辞書類と並んで置いてある『新潮日本美術文庫6 岩佐又兵衛』(新潮社 1997/03)を目繰っていて、そんな心を固めました。又兵衛絵画との出会いやド嵌まりぶりについては後日に、また。
 もう書くことは不可能であろうジャンルやテーマもあるけれど、それでも少しずつ、残滓の如く澱の底へあり続けてふとした拍子にそれあることを意識する事柄に関しては、ゆっくりした歩みになろうとも一編一編、重ねて最終的に相応の量になることを期待したいのです。顧みるまでもなくそれが自分の生きた、唯一の証しとなるがために。
 ちなみに書くことを諦めているテーマとは、H.P.Lovecraft論であります──10代の終わりからのテーマですが、いまのわたくしは余りにHPLには批判的となり過ぎましたよ。August Derlethについては未だ後ろ髪ひかれる部分多々ありますので、地方小説やエッセイを中心にもう少し買い集めてみてから判断します。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3369日目 〈YouTubeで懐かしい洋楽を視聴しよう!(その6)〜GO-GO'S"Vacation"〉 [日々の思い・独り言]

 GO-GO'Sからどの曲にするかと悩んだが、最初に聴いたアルバムの1曲目を飾るこの曲を選んだ。既に第3354日目ベリンダ・カーライルの回で簡単に触れたけれど、これを聴いたのは1990年代前半、都内のと或る区役所の視聴覚室から殆ど傷のないLPを借りて貸出期間1週間、たっぷり聴き耽った。
 改めて書いておくと、1982年発表の2ndアルバム《Vacation》の1曲目を飾ったのが、今回の〈Vacation〉だ。これのオフィシャルMVがあるとは知らなかった。洋楽番組で観ていたかもしれないが、残念ながら当然の如く記憶にない。当時アメリカ在住だった親戚からの情報があと数年早ければ、ベリンダ・カーライルに気附いたと同じタイミングでGO-GO’Sにも関心を向けられたのかもしれないが……。
 動いているGO-GO’S時代のベリンダを観たとき──スッゲーぽっちゃりさんだったことに吃驚!! まぁGO-GO’S結成当時の彼女は数えで20歳ですからね。その年代の女の子ってこんな風だよね。他のメンバーは年齢を重ねてもあまり変わらぬ方もあれば、まるで別人のように変貌を遂げた方もおられる、人生、いろいろです。
 空港の待合にタクシーで乗り付けるベリンダから始まるMVは、ヴァケーションに出発するメンバーの搭乗前の退屈な表情を巧みに捉えていつしか楽器をつま弾くシーンに変わり、一転、メンバー5人が水上スキーを満喫する映像に切り替わる。この場面が観ていてなかなかに気持ち良いのだ。カラクリがわかっていたとしても、彼女たちの表情が本当に楽しそうで、観ているこちらまでそれに感化されるのだ。
 真面目な話をすればこのシーン、嵌めこみ画像が専らとなり、ロングショットで水上スキーを楽しむ彼女たちの姿は別撮り、もしくはスタントであろう。幾ら初心者とて早ければ1日で板に立てると雖も、MVで観られるアクロバティックな演技は難しいでしょう。やはりスタントと思われるが正確なところは知らないし、知ったからとてこのMVが好きだ、という気持ちが変わることはないのだ。
 〈Vacation〉のMVを観たとき、理由もわからず涙腺がゆるんでしまった。しばらく音楽というものから離れて努めて遠ざけていた頃だったせいかな、YouTubeでこれをたまたま見附けて音量絞って視聴したのは。もうね、ぶわっ、とあの時代の感情が甦ってきましたよ。バブルは崩壊したとはいえまだまだこの国の経済事情は、庶民層が未来を夢見ることを許してくれていた。確かにバブルは弾けて就職も年度末に内定取消を喰らったりしたけれど──肉体労働にまで手を染めてどうにか今日や明日を生きていたけれど、まだまだどうにかなる、という気分が漂っていた。
 GO-GO’Sを初めて聴いて、計3枚出されたアルバムを中古レコード店や秋葉原の輸入盤を扱うレコード店を回って買い集めて繰り返し聴き耽ったのは、そうした時代だったのだ。あれから……30年近い歳月が経巡ったのか。いろいろな夢や希望を置きっぱなしにしてきた気がする。平生忘れていることまでも途端に、鮮明に思い出せたGO-GO’Sの〈Vacation〉。いや、罪なオフィシャルMVでありますよ。
 勿論、これに懲りる気なんて毛頭なく、そのうち3rdアルバム《Talk Show》のこれも冒頭を飾る〈Head Over Heels〉あたりをYouTubeで視聴して懐かしい気持ちを文字に移し替えるのは、咨、もはや決定事項なのである。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3368日目 〈エズラ記(ラテン語)第16章;〈エズラの哀歌〉、〈終末への主の僕の準備〉with「エズ・ラ」読了のご挨拶。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第16章、「付録の諸預言」2/2です。

 「付録の諸預言」2/2
 エズ・ラ16:1-35〈エズラの哀歌〉
 おお、アジアばかりか、バビロンもエジプトもシリアも、総じて不幸だ。神なる主の怒りがお前たちに突きつけられる。それから逃れる術はない。この災いが取り消されることも、また。
 「見よ、飢えの打撃が襲って来る。その苦しみは鞭のようだ。それは戒めのための懲らしめ。それにもかかわらず、人々は不正を改めず、これらの懲らしめにもかかわらず、その懲らしめを永久に思い起こすことはない。」(エズ・ラ16:20-21)
 平穏が訪れたかのような時が来る。が、それこそ始まりなのだ。飢えが多くの人々を苦しめて死なせ、剣が残った人たちを狩って屠る。自分以外に誰か生き残った者はいないだろうか、と捜すのは無駄なこと。町は滅び、地は荒廃の一途を辿ってゆくばかり。

 エズ・ラ16:36-78〈終末への主の僕の準備〉
 主の僕たちよ。私エズラが告げる。主の言葉を信じよ。これを疑うな。
 善き人々よ。私エズラが告げる。あなた方の日々の労苦が不敬虔な者たちに掠め取られる覚悟をしておけ。
 だがやがて、正義が不正を告発する日が来る。為、あなた方は不正に手を染めることも真似ることも、思うこともしてはならない。「間もなく不正が地から取り去られ、わたしたちの間で正義が支配するからである。」(エズ・ラ16:53)
 不正をした者が神の御前でそれをごまかそうとしたら、怒りの火がその者に降る。
 主は、すべてを計画して、実行する。主は、人のすべての業と計画と思いと心を知っている。
 「主はすべてを造られ、隠れた所の隠れたものをくまなく調べられる。確かに主は、あなたたちの計画とあなたたちが心に思うことをすべて、ご存じである。罪を犯し罪を隠そうとする者は不幸である。確かに主は、彼らのすべての業をくまなくお調べになり、あなたたち皆を引き出されるからである。あなたたちの罪が人々の前に並べられるとき、あなたたちは、慌てふためくであろう。その日には不正の数々が告発者として立つであろう。主とその栄光の前に、あなたたちに何ができるというのか。どのように自分の罪を隠すことができるというのか。」(エズ・ラ16:63-67)
 神は裁き手。あなた方は罪と縁を切って、命ある限り不正を行わぬよう努めなさい。そうすれば神はあなた方を導いてくれる。すべての苦しみから救ってくれる。
 これからたくさんの試みが為される。その結果、神が選んだ人々が残り、かれらは正しい人である、と証明される。近附きつつある苦しみから、かれら──あなた方は救われる。
 恐れるな、疑うな。神が指導者である。神は、ではない。神の戒めと掟を守ったあなた方に罪が重くのしかかったり、不正が正義を凌ぐようなことがあってはならない。断じて、ならない。
 「自分の罪に圧倒され、自分の不正に覆われてしまう者は不幸である。」(エズ・ラ16:78)

 「第6エズラ記」の終わり。

 メインとなる〈終末への主の僕の準備〉は専ら「罪」の問題について説いております。力点が置かれたのは、罪から心身を遠ざけて不正に手を染めることなく暮らすこと、いい換えれば健やかに、正直に、憎まず恨まず妬まず裏切らず、神を畏れ敬いその教えと掟を守って暮らすこと、が即ち神の目に正しいと映る行いの重要事であり、選ばれるため、救われるための資格であるからでありましょう。
 〈終末への主の僕の準備〉、就中エズ・ラ16:66「その日には不正の数々が告発者として立つであろう」は殊更自分のなかへ突き刺さる言葉でありました。なにやら自分の行き着く最終場面のように思えたからです。わたくしも罪を犯した者なので。
 それがさておき。この罪の問題が敢えて現「エズ・ラ」の最後に置かれたのは、なにやら非常に象徴的なことのように思えます。先行した数々の預言書、黙示文学、或いは口伝されたなかでの課題を承けて考え抜かれた、3世紀後半から4世紀初頭を生きたキリスト者、信徒集団、教会からの(当時時点での)回答のように読めるのは独りわたくしだけでしょうか。
 前回本書を読んだときも感じたことですが、やけに唐突で知り切れトンボな、放り出された感満載な終わり方であるのはどうしてなのでしょう。「第4エズラ記」のように他言語へ訳された際続く部分があったのか、あってもそれは加筆の類でありますが、そうしたものがあったのか、ちょっと小首を傾げてしまうのであります。
 とはいえ、「エズ・ラ」第1章から通して読み読み、考えたりしておりますと、一点の疑問が揺るぎなく自分のなかへ根を張ってゆくのがわかります。それは、果たして人はこうまでして自分たちが神によって救われるに値する存在だと、本気で思うているのか、ということであります。これは幾ら悩んでみても解決の曙光だに見えそうにない問題でありますが、それゆえにこそウンウン唸ったり、仕事の手空きの偶さかにでも、想いを馳せてしばし黙考してみるにじゅうぶんな宿題であるのではないでしょうか。キリスト者であろうとそうでなかろうと、であります。果たして人は、救われるに値する生物なのか、と──。



 本日を以て「エズラ記(ラテン語)」の再読を終わります。いや、長かった! 再読を決めてから今日「読了」の言葉を書くまで、本当に長い時間を費やしてしまいました。検めれば今回の再読ノートも様々瑕疵があろうけれど、なによりも孤独に耐えながらちゃんと読んで、ここまで辿り着いたことを自画自賛しよう。
 取り敢えずこれで、約8年来の懸案事項は解消されました。年経る毎にじわじわと自らへ課した課題が重荷となってゆき、昨年「一マカ」再々読を済ませてからは更に重くのしかかってきた「エズラ記(ラテン語)」再読。それをどうにか今日、本文に関しては終わらせることができた。
 調べてみましたら前回、「エズラ記(ラテン語)」を読んだのは2014年12月13日から同月25日。途中で余りの手に負えなさから匙を投げて全文引用プラス簡単な感想、という方式を採ったことも含めて、〈前夜〉も含めて意に満たない部分は多々あった──というよりも、あり過ぎた。それを多少なりとも解決できた点でも、今回も多少強行スケジュールではあったが思い切って始めてしまった良かった、と胸を撫でおろして、ぼうっ、としている現在であります。
 ようやく本当の意味で、1回目の聖書読書は完了しました。2008年09月から2022年03月までですから、ずいぶんと時間が掛かりましたな。もっとも、それだけに拘っていたのでもありませんが、約14年という歳月を聖書と一緒に過ごしてきたのですねぇ。なんだか感慨深いです。
 さて、それでは予定している2回目の聖書読書に備えて、新しい聖書を用意しましょうか。新共同訳をそのまま使うか、聖書協会共同訳を新しく採用するか、まだ決めておりませんが。勿論、旧約聖書続編を含んだ聖書、とは譲れぬ条件であります。まぁ、いつから読み始めるか、でどちらの聖書を用いるか、決めるのでしょうね。
 おっと、2回目の聖書読書よりも先に、旧約聖書の幾つかの書物の〈前夜〉を書き直して(未だ作業継続中!)、順次「創世記」から「ヨハネの黙示録」まで再掲するてふ約束がありましたな。一部の書物については再読を要す、ともいいましたが、こちらは2回目の読書に組みこめばいいか……。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3367日目 〈エズラ記(ラテン語)第15章:〈近づく災難〉、〈恐るべき幻〉&〈アジアに対して〉with悪党との縁切りなった歓喜の日に綴る希望と栄光の歌。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記第15章、「付録の諸預言」1/2、「第6エズラ記」の最初です。

 「付録の諸預言」1/2
 エズ・ラ15:1-28〈近づく災難〉
 主がいった。
 わたしが送りこんだ預言の言葉を民へ伝えなさい。その言葉を記録させなさい。預言の言葉は真実で、信頼できるものだから。
 これからあなたは多くの、あなたをよく思わぬ衆から嫌がらせをされ、誹謗中傷を受け、痛めつけられるだろう。が、恐れるな。揺らぐな。かれらは不敬虔ゆえに滅びる。盗人を赦さない。仲間外れを赦さない。嘘つきを赦さない。わたしは、断じて連衆を赦さない。ゆえに滅ぼす、かならず。
 わたしはかれらを赦さない。談じて、赦したりはしない。かれらの不正は既に行き着くところまで来ているから。「彼らが行う不敬虔に対して、わたしはもう黙ってはいない。わたしは、彼らの不正なふるまいを忍耐しないだろう。見よ、潔白で正しい者の血が、わたしに向かって叫んでいる。正しい人々の魂が、絶え間なく叫び続けている。」(エズ・ラ15:8)
 自分の民が捕囚の地、使役させられる地にいるのを、わたしはもう見ていられない。為に、「わたしは確かに不敬虔な者たちに報復しよう。そして彼らの中のすべての潔白な人々の血を、わたしのところに受け入れよう。」(エズ・ラ15:9)
 主がいった。
 「わたしの右手は、罪を行う者たちを赦さず、剣は、地上で罪なき人々の血を流した者たちを、見逃しはしない。(中略)わたしは彼らを赦さない。主に背いた者たちよ、立ち去れ。わたしの聖所を汚してはならない。」(エズ・ラ15:22, 25)
 ──神は自身に対して企てられる罪の行為を知っている。それを行う者のことも知っている。神はかれらを死と殺害に渡して、救うことはけっしてない。

 エズ・ラ15:29-45〈恐るべき幻〉
 主が、見よ世界のあちこちで動乱が始まろうとしている、といった。続けて、──
 見よ、怒りと嵐を孕んだ雲が東と北から起こり、南まで広がってゆく。雲は互いにぶつかり合い、地上は凄まじい嵐に見舞われる。剣によって流される血はおびただしい量になろう。地上は恐怖と不安に覆われる。
 見よ、南と北から大きな嵐が近附いてくる。嵐は西からもやって来る。が、東からの風が強くなり、嵐のなかの怒りを抑えつける。滅びをもたらさんとしていた嵐は、その東からの風に押されて、南と西に散る。
 そうして風はいまや地上を滅ぼす嵐と化した。嵐は地上で営まれる生きとし生けるものすべての暮らしと生命を呑みこみ、バビロンにまで達してこれも同じく壊滅させたのである。わずかな生き残りは、滅びの嵐の奴隷となる。

 エズ・ラ15:46-63〈アジアに対して〉
 バビロンの繁栄と権勢、暴利と退廃のおこぼれに与るアジアよ、やがてお前の上にも破滅と死がもたらされる。
 主がいった。
 「わたしが、これほどまでお前を憎むのは、お前が、わたしの選んだ人々をいつも殺害したからではないのか。お前は酔いしれて、手をたたいて喜び、彼らのしかばねをののしった。『お前の顔を美しく装うがよい』と。売春婦への報酬は、お前のふところにある。それゆえお前は報いを受ける。」(エズ・ラ15:52-55)
 アジアよ、しかしお前が被る災難はそれだけで終わらない。終わらせない。バビロンを滅ぼした者たちはその撤収の最中、残された、憎まれた町を見附けるやこれを討ち、お前の栄華と領土の一部を削ぎ取ってゆく。
 そこは草木一本生えず、人っ子一人住む者なき荒廃した、人跡途絶えた地となるだろう。

 引用が目立つのみならず、自分の解釈、思うことを反映させた文章になった。ご興味ある向きは新共同訳旧約聖書続編を開いて逐一確認されるがよろしいでしょう。オンライン読書会の方々も、どうぞ。
 本章は久しく感じてこなかった旧約聖書の神の怖さ、容赦無さ、呵責のなさ、意固地ぶりを欠片程度ながらも堪能させられたところとなりました。就中エズ・ラ15:26-27が、ですね。語り手による地文ではありますが、旧約の荒ぶる神、裁きの神、怒りの神の心境へ畏れ多くも触れた気分であります。そこにはこう書かれている、──
 「神は御自身に対して罪を犯す者を知っておられる。だからこそ、神は、彼らを死と殺害に渡されるのである。災いは既に地上に来ており、人々の中に居座るだろう。しかし神はお前たちを救われない。お前たちが神に対して罪を犯したからである。」(エズ・ラ15:26-27)
 煩雑になるてふ理由1点を以て故意にノートを省いた箇所がございました。アラビアの竜の民とカルモニア人の戦いのくだりであります(エズ・ラ15:29-33)。スタディ版脚注に従えばこれは3世紀中葉、現イラク北東部旧アッシリア領を出自とするカルモニア人と、シリアにあったパルミラ国のオダエナトゥスの間で勃発した戦争の描写である由。このオダエナトゥス──セプティミウス・オダエナトゥスは通商国家パルミラ国の武人で、皇帝ヴァレリアヌスによってローマ帝国正規司令官に任命された。
 軍人皇帝時代に帝位へ就いた1人、ヴァレリアヌスがササン朝ペルシア;シャプール1世によって捕虜になるという前代未聞の出来事が出来した260年当時のローマ帝国は、俗に〈3世紀の危機〉と称されることからも明らかなように、帝国存亡の危機の時代を迎えておりました。といいますのも余りに拡大した版図の維持を武力で行うことが継続できなくなり、北方からはゲルマン人やゴート族他諸部族が、東からはペルシアが侵入してきたのを防ぐための戦闘に明け暮れて国力は低下、財政面でも疲弊していた時代であったのです。日本に則していえば、卑弥呼が魏に、倭の女王が西晋にそれぞれ遣使した時代、前方後円墳が登場した時代であります。
 この時代に活躍した帝国の武人の1人がオダエナトゥスだったわけですが、帝国の主力が北方蛮族の食い止めに投入されていたせいで手薄になった東方守備の役を担った。そのかれとカルモニア人の戦闘をエズ・ラ15:29-33は記録しているのであります。カルモニア人は調べを尽くしてもいまのわたくしには判明しなかったけれど、おそらくアッシリア帝国を形成していた諸民族の一、その裔なのでありましょうか。
 また、それに伴ってのお話ですが、〈恐るべき幻〉で語られる風、嵐の描写はそのままローマ帝国が当時置かれていた状況を暗喩した箇所でもあります。帝国が外敵からの侵略を受けてだんだんと疲弊してゆく、まさしく「終わりの始まり」が示されたすこぶる重要な箇所である、と考えます。
 これらを以て「第6エズラ記」の成立時期を推察できるのですが、それについては既に〈前夜〉で述べておりますのでここでは繰り返しません。もっと詳しく知りたい方は、『興亡の世界史04 地中海世界とローマ帝国』(木村凌二 講談社 2007/08)や『世界の歴史05 ギリシアとローマ』(桜井万里子/木村凌二 中央公論社 1997/10)、塩野七生『ローマ人の物語 12 迷走する帝国』(新潮社 2003/12 ※新潮文庫[第32-34巻] 2008/09)、ギボン/中野好夫・訳『ローマ帝国衰亡史』第1巻(筑摩書房 1976/11 ※ちくま学芸文庫 1995/12)と第2巻(同 1978/05 ※同 1996/01)を繙き、それを取っ掛かりに詳細な研究書や紀要などにあたってみると良いと思います。
 最後に、ギボンから一節、引いて本章を擱筆したく思います。曰く、──
 「重要辺境は失われるし、忠実な盟邦は没落する。さらに日増しにつのるシャプール王の野心達成を見ては、さすがのローマも深い危機感と屈辱感を抱かざるを得なかった。」(衰亡史第1巻 P310)
──と。まぁ、要するにローマ帝国にしてみればこの時代、踏んだり蹴ったり、の時代だったわけですね。



 諸人よ、勝利の宴を開こう。われらを阻む闇は今宵の宵刻吹き払われた。前途に開けたるは輝かしき場所、輝かしき時間、そこにあるは栄光の玉座と愛と平穏で満たされた家。
 これはけっして裏切りではない。逃亡でもない。未来を摑むための代償なのだ。いまはただ、シラーのように歓喜を歌うのみとしよう。もう忘れてしまえ、悪党に心やるのは無益だ。
 諸人よ、支えてくれた人たちに感謝を捧ごう。呪縛は断ち切られて、われらは自由になったのだ。これからもあるだろう艱難辛苦は、これまでにくらべれば苦しいことではない。
 顔をあげて足を踏みしめ確かな足取りで大地を進み、いと大切な人たちと一緒に門の扉を開けよう。われらはいつの世も共にあるのだから。
 われらの前にあるのは輝かしき場所、輝かしき時間、輝かしき業。そこにあるは栄光不滅の玉座と愛と平穏と信仰と希望のみあふれた家。
 歌おう、感電する程の歓びを!◆

共通テーマ:日記・雑感

第3366日目 〈エズラ記(ラテン語)第14章;〈序文〉、〈啓示の記録について〉with生前の誹り、死後の誉れはわが本懐。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第14章、「第七の幻」です。

 第七の幻
 エズ・ラ14:1-17〈序文〉
 3日が経った。灌木の茂みで炎が燃え盛っている。そのなかから私を呼ばわる声がした。はい、私はここにおります。そう返事した。
 主がいった。曰く、──
 私はかつてモーセに民のための戒めとふしぎな御業と、時の終わりと時の秘密を明かした。その際、公にして構わぬ言葉と秘匿しておくべき言葉を分けて与えた。モーセは民に別れを告げるとき、公にして構わぬ言葉(のみ)をかれらへ伝えた。
 あなたも、あなたが見た夢、幻とその説きあかしを心へ留めておくように。わたしが示すことを書き留め、或るものは公にし、或るものは限られた相手にのみ読ませるように。
 あなたは人々のなかからひときわ高くあげられる。時の終わりまで、あなたと同じように民のなかから一段高くあげられた人々と、わたしの子と、一緒に暮らす。
 「世は既に若さを失い、時は老年期に近づいている。この世は十二の時期に分かれ、既に九つの時期と、更に第十の時期の半分が過ぎている。残っているのは、第十の時期の半分と、あと二つの時期だけである。
 だから今、あなたの家を整え、あなたの民を戒めなさい。卑しめられている人々を慰め、既に腐り切った生活を返上しなさい。はかない考えを追い払い、人間的な重荷を捨て、弱い本性を脱ぎ捨てなさい。そして、あなたにとって何とも煩わしい思いを打ち捨て、急いでこの時代から逃げ出しなさい。
 あなたは今、いろいろな災いが起こるのを見たが、これよりももっと悪いことが起こるだろう。この世が年老いて弱くなればなるほど、世に住む人々の上に悪が増し加わる。真理はますます遠ざかり、偽りが近づいている。」(エズ・ラ14:10-17)
 というのも、幻のなかに現れたあの鷲がものすごい速度と勢いで近附きつつあるからだ。
──と。

 エズ・ラ14:18-47〈啓示の記録について〉
 私は、民をかならずや諫めよう、と約束した。だが、しかし、──
 しかし、後の世に来る人々には誰がその諫め役を担うのでしょう。この世は暗闇のなかにあります。人々には光がありません。世の始まりから以後のことも、様々な機会に為されたあなたの御業のことも、律法が焼かれて灰となってしまった以上知る人は1人としていないのです。
 もし許されるならば、私のなかに聖なる霊を送りこんでください──世の始まりから以後に起きたすべてのことと、あなたの律法に記されていたすべてのことを書き留めますから。「そうすることによって、人々は道を見いだすことができ、生命を望む人は終わりの時に生きるのです。」(エズ・ラ14:22)
 主がいった。
 5人の筆記者(速記者)を募って再たここに来よ。そのときあなたに聖なる霊を与える。自分の語ることすべてをかれらに書き留めさせよ。そうやって成った記録は、或るものは公にして、或るものは限られた相手にのみ読ませるように。
 40日の間、何人と雖もここへ近附くことまかりならぬ。行って、かれらにそういえ。
 そう主がいったので、私はそれに従い、行って民に語りかけた。
 イスラエルよ、われらの祖先はエジプトを脱出して、モーセを介して律法を授けられた。が、祖先も、いまを生きるわれらもこれに背き、道を守ろうとしなかった。主なる神は公正な裁判官なるがゆえ、時が来るとイスラエルを敵の手に渡した。
 しかし、「あなたたちは今、ここにいる。そしてあなたたちの兄弟は、あなたたちの内にいる。」(エズ・ラ14:33)
 知性を制御して心を培うならば、生きている間は守られ、死して後には憐れみが与えられるだろう。裁きの時が来たらば、正しい人々の名が明らかとなり、不敬虔な連衆の行いが露わになる。
 イスラエルよ、あなた方にお願いする。これからの40日間、私を訪ねてくることも、私がいる所を覗うことも厳禁である。私が連れてゆくかれらの様子を見に来たり、言伝を渡しに来ることも同様である。
 そう、私はいった。
 5人の筆記者を連れて、私は野原へ戻った。翌る日、私を呼ばわる主の声がした。はい、主よ、私はここにおります。そう返事した、
 主がいった。
 口を開けて、わたしが飲ませるものを飲みなさい。
 私はそれを見た。水のようだが、色は炎に似る。飲むと、心に悟りが満ち、胸は知恵で漲った。世の始まりからの森羅万象の記憶が宿った。また、5人の筆記者たちの心にも悟りが満ちた。
 私の口は疲れることなく淀みなく、世の始まりからの森羅万象を途切れることなく語った。筆記者たちは疲れた様子を見せることなく、語る端からそれを書き留めてゆく。自分たちが知らない言葉で、それを書き留めたのである。
 かれらは、昼は書いて、夜は休んだ。私は昼も夜も語り通した。そうして94巻から成る記録が完成した。
 主がいった。内24巻を聖書として公にし、ふさわしい人にもふさわしくない者にも読んで聞かせなさい。が、残る70巻については隠しておいて、民のなかでも敬虔で知恵ある人にのみこれを開示し、回覧し、渡すように。
 「これらの書物の中には、悟りの源と知恵の泉と知識の川があるからである」(エズ・ラ14:47)と、主がいった。
 私はいわれた通りのことを実行した。
 ──
 エズ・ラ14:48-50 オリエント語諸訳
 「創造の五千年後第六週の第七年に、三月と十二日。それからエズラは、すべてこれらの事どもを書き終えた後、彼と同じような人々のもとへと取り去られ連れ上られた。彼はとこしえに、いと高き方の知識の書記と呼ばれている。」

 感想
 「幻」とはいいつつ実際は、語り手エズラ/サラティエルがこれまで視た幻の記録の指示、記録の閲覧制限の指示、の2つを柱とする。それは、聖書の構築、を意味しましょう。ではなぜ、ここで主なる神は──紀元1世紀前後のユダヤ教徒に対して、聖書の記録を命じるのか。
 そこには本書が執筆された時代の雰囲気を濃く反映している、と考えます。「第4エズラ記」が書かれたとされるのは、紀元1世紀前後のことでした。つまり、第一次ユダヤ戦争がユダヤ側の敗戦に終わってまだその余韻が、記憶が、人々のなかに残っていた時期であります。
 第二神殿は焼け落ちていました。エルサレムはローマ軍に占領されていました。ユダヤ人はエルサレムを離れて各地に離散していました。なぜ神は自分の民が苦しんでいるのになにもしようとしないのか、とユダヤ教徒の誰もが(なんなら原始キリスト教団の誰彼も)疑問を抱いていました。そういう時代だったのです。
 本章で主が、エズラ/サラティエルを聖なる霊で満たして世の始まりからの森羅万象を記録させたのか。いい換えれば、第一次ユダヤ戦争によってユダヤ人の遺産というべき聖書が、律法が消失して誰も、読みたくても読めない状況が生まれていたことを、本章は図らずも暗に語っているようであります。
 主に命じられた聖書/律法の再構築作業は、逆にいえば、(旧約)聖書の構成書物の制定に大きな一歩を刻んだ作業でもあったように思われてくるのです。
 この時点ではまだ(旧約)聖書の構成書物が決定したわけではない──最終的に94巻の書物が成り、内24巻は誰にでも公開可能、残り70巻には閲覧制限を設ける、とは収載書目の未決定状態をいい換えているに他ならないでしょう。
 では、24巻が聖書であるならば、残り70巻はどのような受け取られ方になるか。旧約聖書外典、偽典、として知られる書物がこれに相当する、と考えられます。「語られざるもの」という位置附けになりましょう。
 『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』P538のコラム「ユダヤ教の正典と非正典」もこれを、ユダヤ人が伝統的に受け継いできた正典以外の書物、即ち旧約聖書外典/偽典にカテゴライズされる書物が、この70巻には含まれるのでは、としております。
 ただ留意すべきは、語り手は昼も夜も語ったけれど、書き手は昼書いて夜休んだ、なる件。最初に読んだ際も疑問に感じたところではありますが、書き手は皆斯様なスケジュールで行動したのか、交代制で語り手の語ることを書き留めたのか。後者であれば、語り手が語ったことは94巻に収まったことになりますし、前者であれば最終的に94巻となったけれど実際はそれ以上の分量が語り手の口から語られたことになりましょう──つまり、書き漏らした内容が相当にあった可能性がある、ということであります。
 然様、主の与えた聖なる霊は、語り手のみならず筆記者5人のなかにも満ちた。それゆえにかれらは自分たちが知らない言葉で記録することができた。語り手の語ることを諸国の言葉に置き換えて書いたのか、まさかとは思いますが語り手が1つのことを複数の言語で書き留めたのか、それはともかくとして、筆記者たちはそれぞれ自分たちには未知の言語、精通していない言語でそれを書き取った。それが何語であったのか、いまの研究はそのあたりをどのように説明しているのか寡聞にして存じませんが、ただこの場面を読んでいて「使徒言行録」のペスタコンテ、聖霊降臨の場面(使2:1-4)を想起させられたことをお伝えしても、一笑に付されることはないと思うのであります。
 最後に脱落部分として紹介した引用について、お話をさせてください。脱落とは正解から離れた語でありますが……。
 今日まで読んできたラテン語で訳された「エズラ記」が所謂「エズラ記(ラテン語)」ですが、これにはシリア語やエチオピア語、アラビア語、アルメニア語など「オリエント語諸訳」と一括して称されるものがあります。
 どうしてそうなったかは不明ですがそのオリエント語諸訳は「エズラ記(ラテン語)」第14章にはない第48-50節が存在する。そのくだりは「エズラ記(ラテン語)」を〆括るに相応しいのみならず、エズ・ラ14:9「あなたは人々の中から挙げられて、わたしの子と、あなたのような人々と共に、時が終わるまで暮らす」や、主なる神に認められた存在であることを願い、そうしてそれが受け入れられたことの回答になっているように読めるのです(エズ・ラ6:31-32、12:9,14:22)。この3節の有無で「第4エズラ記」の読後感や印象は大きく変わるように思えます。
 なお、上述の引用は、榊原康夫『旧約聖書続編を読む』(P302 聖恵授産所出版部 1999/04)より行いました。
 本章を以て「第4エズラ記」は終わります。明日と明後日はキリスト教文書化の際の付加部分、「第6エズラ記」になります。



 さる事あり、覚悟を固めた。わたくしは悪漢に身をやつして裏切り者の汚名を着よう。ヒトデナシになり、ロクデナシを演じよう。それがすべてを守るためゆえに。宣戦布告。「生前の誹り、死後の誉れ」はわが本懐なり。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3365日目 〈エズラ記(ラテン語)第13章;〈海から昇る人〉、〈幻の説明〉他with夢野久作「悪魔祈祷書」が最初だった。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第13章、「第六の幻」です。

 「第六の幻」
 エズ・ラ13:1-13〈海から昇る人〉
 7日目の夜であった。私はこんな夢を見た、──
 嵐によって海は荒れている。その海のなかから、天の霊と共に人が現れた。かれに見つめられた者は皆、震えあがった。かれの声を聞いた者は皆、蠟のように熔けた。
 多くの者が習合してかれに戦いを挑んだ。かれは武器も武具も持たずにかれらを撃破した。口からは火の流れのようなものを、唇からは炎の息を、舌からは稲妻の嵐を発した。それは混じりあって、かれに戦いを挑んだ者は皆、焼き滅ぼされた。灰の粉と煙の匂いだけがあとに残った。
 そのあと、様々な表情を面に浮かべた人々が、かれの許へやって来た。山から降りてきたかれが、その人たち平和な群衆を招いたのである。
 私はそら恐ろしくなって、いと高き方に祈った。曰く、──

 エズ・ラ13:14-56〈幻の説明〉
 私が倩思うに、その日まで残された人々は不孝だが、残されなかった人々はもっと不孝なのではあるまいか、と。
 「残されなかった人々は、終わりの日に備えられているものを知りながら、それに達しえないと分かって悲しみを味わうからです。しかし残された人々も、不幸なのです。というのも、この夢が示しているように、大きな危険と多くの苦しみに遭うのですから。それでも、雲のようにこの世から去って行き、終わりの日に起こることを見ないよりは、危険に遭いながらも、終わりの日に至る方が、まだましです。」(エズ・ラ13:17-20)
 これを聞いて主が、幻の解き明かしの前に私の疑問に答えてくれた。曰く、「 その時に危険をもたらす方こそ、危険に陥る人々を守り、彼らは全能者のために働き、信仰を保つ者となるだろう。だから、死んだ人々より、残された人々の方が、はるかに幸せであることを知るがよい。」(エズ・ラ13:23-24)と。
 続けて主が幻の解き証しをしてくれた。
 海のなかから天の霊と共に現れた人とは即ち、<このとき>まで取っておかれたわたしの子である。かれは、メシア、と呼ばれる。わが子はシオンの山の頂に立つ。多くの、悪しき民が徒党を組んでわが子に立ち向かうが、却って不敬虔を立証され(口からの火の流れ)、邪な思いや企ては咎められ懲らしめを与えられ(唇からの炎の息)、律法によって難なく滅ぼされてしまう(舌からの稲妻の嵐)ばかりだ。
 そのあと、様々な表情を面に浮かべた人々が、わが子の許へやって来た。かれらはアッシリアによって散らされた9の部族と半部族である。かれらは捕囚の地から離れて(「多くの異邦の民を離れて」エズ・ラ13:41」)、「人がまだだれも住んだことのないほかの地方に行こうと決心した。彼らは、それまでいた地方では守ることのできなかった掟を、そこで守りたかったのである。」(エズ・ラ13:41-42)
 かれらがユーフラテス川の向こうへ渡るとき、また渡河してこちらの岸へ戻ってくるとき、川の流れは堰き止められた。平和な群衆とは即ち、かれらのことである。
 あなたの民のなかで残された者とこの平和な群衆はやがて1つの場所に集まり、わが子によって守られる。
 ……主は、そういった。
 私は主なる神に尋ねた。
 どうして私は、海のなかから登ってきたあなたの子を見ることができたのでしょう。
 主が答えた。
 海の深いところになにがあるのか、なにが隠されているのか、誰も知ることはできない。地上の誰であろうと、海のなかのわが子と、それに付き従う者たちの姿を見ることもできない。
 しかし、聞け。これはあなたにだけ示されたのである。というのも、──
 「あなたは、自分のことを捨てて、わたしのことに専念し、わたしの律法を追い求めたからである。あなたは、自分の人生を知恵に従って整え、あなたの知性を母と呼んだ。それゆえ、わたしは、いと高き方からの報いとしてこのことを示したのである。」(エズ・ラ13:54-56)
 3日後、わたしはあなたに大切な、驚くべきことを語ろう。それが最後の、第七の幻となる。ここに留まっていよ。

 エズ・ラ13:57-58〈結び〉
 ──私はそうした。時と、時のなかで起こることすべてを支配するいと高き方を誉め讃えながら3日間、そこに留まった。

 引っ掛かるところがございます。引用した、エズ・ラ13:17-20とエズ・ラ13:23-24であります。要約すれば、残された者は不孝、残されなかった者はもっと不孝、ということ。些かなりとも引っ掛かりを覚えてしまうのです。
 では、その時(終わりの火)に偶々生きていた人々にだけ、主のいう「守り」が為されるのか。ならば寿命が尽きて疾うのむかしにこの世を去り、<その時>に出合うことができなかった人々、或いは偶然にもその直前に世を去った人々は、<その時>に居合わせること叶わなかったがゆえに守られない、その恩恵に浴すことができない、救われない、招かれない、という意味になりはしないか。
 それともそうした人々──の魂──はすべて、「陰府の部屋の中」(エズ・ラ7:95)で待機しているから特に問題ありません、ちゃんと守られるので安心してくださいね、というのか?
 いと高き方の側からすれば至極当然な、良いことを語っている、道理に則った発言でもあるのだろうが、いま一つ納得できるものではありません。首肯できぬ、腑に落ちぬ、そんな思いを抱いて読み終わる。
 さて、メシアの許に、アッシリアによって散らされたイスラエルの9部族と半部族が、集まってきたとありました。スタディ版脚注に拠るとこの失われた9の部族と半部族の伝説は、「エズラ記(ラテン語)」のこの箇所でのみ触れられており、他にこれを伝えるものはない由。
 なお、旧北王国に住まっていた氏族名を、煩を厭わずあげれば、ルベン族、シメオン族、イサカル族、ゼブルン族、マナセ族(半)、エフライム族、ダン族、アシェル族、ガド族、ナフタリ族、以上10部族。ユダ族とベニヤミン族は南王国ユダを構成する氏族であります。レビ族がないのは、元々かれらは嗣業の地を与えられず、南北の各地に散って祭祀を司る役目を担ったためでありました。
 引用はしませんでしたが、エズ・ラ13:40にはこんな文章があります。曰く、「これはかの九つの部族のことである。彼らははかつてヨシヤ王の時代に、捕囚となって祖国から連れ去られた民である」と。
 古代オリエント史文献や旧約聖書「列王記・下」、「歴代誌・下」の当該箇所を開くと、史実から外れた文章であることがすぐに確認できる。南王国ヨシヤ王の御代、既に北王国は滅亡しているのです。そのため、どうして「第4エズラ記」の著者が斯様な書き方をしたのか、どんな思惑や企図があって「ヨシヤ王の時代に」云々なる文言を綴ったのか、まるで不明であります。
 ただ、この消えた北王国の部族は今日に至るまで追跡調査されている問題でありまして、民間の調査機関に籍を置いた人による調査報告も1冊の本となり、また翻訳もされて読めるようになっております(ラビ・エリヤフ・アビハイル/鵬一輝・訳『失われたイスラエル10部族 知られざるユダヤの特務機関「アミシャーブ」の調査報告』学研 2005/08)。
 搔い摘まんで申せば、過半はシリアやインド、エジプトなど周辺地域に散らばったようですが、一部はそのまま東に進んで当時はまだ民族混成国家であった日本や、或いは中国に土着した人もあったろう、ということであります。
 こちらの勉強はまったくというてよい程着手できておりませんので、聖書再読や日々の徒然を綴る合間を縫って該書を読んだりしてみる考えでおります。



 たまには聖書にまつわるエッセイを、ここに書こうと思う。が、例によってネタがない。マダイはあるがワダイがない、という奴だ。
 それはさておき(ムリヤリ!!)、そういえば夢野久作に「悪魔祈祷書」という短編がある。古書店主が語る、聖書に見せかけた悪魔崇拝書にまつわる因縁譚だ(ぷぷ)。夢野久作初体験がこれだったのは、椎名誠・編『素敵な活字中毒者』(集英社文庫 1983/09)に収められていたから。
 ネタばらしは出来ないが、これが抜群の雰囲気を持った作品で、古書店主が語る祈祷書も描写が実に現実的で、もしかすると実物を手許に置いて書いているのでは、と疑うてしまう程なのだ。それに翻弄される客人の心理描写やオチも含めて、古書ミステリの雄編として、<書痴の楽園>物として、古今に比肩するもの極めて少なし、と担がれて宜しかろう一編というてよいと思う。
 だが、どうにも困ったことに、初めて読んだということも手伝ってか、どうも本作に限っては久作の作品集で読むよりも件のアンソロジーで読む方がしっくりするのである。そういえばこの文庫、見当たらないな。売っちゃったのかな……。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3364日目 〈エズラ記(ラテン語)第10章2/2-第12章;〈鷲の幻〉他with趣味の怪談読み。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第10章2/2、第11章、第12章、「第五の幻」です。

 エズ・ラ10:60-12:3 1/2〈鷲の幻〉
 2日目の夜である。こんな夢を見た、──
 1羽の荒鷲が海から昇ってきて、瞬く間に全地をその翼の支配下に置いた。鷲には頭が3つあって微動だにせず、うち真ん中の頭は他にくらべて一際大きかったのである。また、羽の生えた翼が12,あった。その鷲が翼の下に全地を支配したのである。
 「わたしは、天の下のものすべてが、鷲に従っている有様を見た。だれも、地上にある被造物のうち一つとしてこれに逆らうものがなかった。」(エズ・ラ11:6)
 見ていると、右側から順番に羽が起きあがってきて、それぞれ全地を支配していった。1つの羽が消え失せるとすぐに次の羽が起きあがり、次々に地上の主権を行使していった。12枚の羽が消えたらば、羽と羽の間に生えた小さな逆毛の、8枚の羽がそれに代わった。しかし、その主権は長くは続かなかった。
 真ん中の一際大きな頭が、そのとき動いた。この頭は全地を制圧し、地上の人々を蹂躙したのである。が、その頭もやがて消え失せてしまい、残った頭のうち左側は右側に喰われてしまったので、地上の支配は右側にあった頭が担った──。
 そのとき、私に話しかける声がした。目の前のものをよく見、見えるものについてよく考えよ。声はそういった。私はそうした。
 すると、森のなかから1頭の獅子が現れて、中空の鷲へ咆吼して、いった。曰く、──
 「いと高き方はお前にこう言われる。『お前は、わたしが世を支配させ、わたしの時の終わりを来させるために造った四つの獣の生き残りではないか』と。お前は四番目にやって来て、それまでの獣をすべて征服し、権力を振るって世を大いに震え上がらせ、全世界をひどく苦しめ、またこれほど長い間、世に住み着いて欺いた。お前は地を裁いたが、真理によってではなかった。お前は柔和な人を苦しめ、黙している人を傷つけ、真実を語る人を憎み、うそつきを愛し、栄える者の住居を壊し、お前に何の害も及ぼさなかった人の城壁を打ち倒した。お前の非道はいと高き方に、お前の傲慢は力ある者に達した。そこでいと高き方は、御自分の定めた時を顧みられた。すると、時は終わり、世は完了していた。それゆえ、鷲よ、お前は消えうせるのだ。」(エズ・ラ11:38-45)
 お前が消え失せたらば全地は解放されて力を取り戻し、裁きと憐れみを待つことができるようになるだろう。
──と。
 見ていると、残っていた頭は消え、2枚の翼が全地を支配した。短い期間ではあったものの争乱はその間も絶えなかった。しかしやがてその翼も消えた。鷲の体全体が燃え、地はその光景に恐れ戦いた。
──そんな夢を、見た。

 エズ・ラ12:4 2/2-12:40 1/2〈幻の説明〉
 私はいと高き方へ祈った。
 私の祈りを聞いて主が、いった。曰く、──
 いまあなたが見たのは、かつてダニエルの幻に現れた第4の帝国である。ダニエルのときよりもいまの方がよりはっきりと幻は具体化している。
 翼に生えた12枚の羽根と8枚の逆毛の羽根、3つの頭がそれぞれ代わって地上の支配者となって君臨する。併せていっておくと、あの3つの頭こそが「不敬虔を繰り返し、世の終末をもたらすものである。」(エズ・ラ12:25)
 森のなかから現れた獅子について話そう。「この獅子とは、いと高き方が王たちとその不敬虔のために、終わりまで取って置かれたメシアである。彼は、王たちの不正を論証し、王たちの前に、その侮辱に満ちた行いを指摘する。
 メシアはまず、彼らを生きたまま裁きの座に立たせ、彼らの非を論証してから滅ぼす。彼は、残ったわたしの民を憐れみをもって解放する。彼らはわたしの領土で救われた者であり、メシアは終末、すなわち、裁きの日が来るまで、彼らに喜びを味わわせるであろう。」(エズ・ラ12:32-34)
 この秘密を知るに相応しいものはあなたのみ、あなた独りだけ。為、あなたはいま見たことを本に書き留め、誰もわからない場所に隠しなさい。必要あらばそれを、求める人へ教えなさい。
 あなたはあと7日間、この野原へ留まるように。あなたに示そうと考えることをそのとき、あなたに示そう。
──と、主はいった。

 エズ・ラ12:12:40 2/2-12:51〈結び〉
 ……都に帰らぬのを心配した人々が野原へやって来た。かれらは、どうして都を離れたままでいるのか、われらを見棄てるおつもりか、あなたなしでわれらはどう生きてゆけばいいのか、と口々に嘆くのであった。あなたに見棄てられるぐらいなら、シオンの大火に巻きこまれて死んだ方がマシだった、という人までいた。
 私はかれらを諫めて、こういった。曰く、──
 「イスラエルよ、信頼しなさい。ヤコブの家よ、悲しんではならない。いと高き方はあなたたちのことを覚え、力ある方は戦いの中にあるあなたたちを忘れられることはないのだ。わたしは、あなたたちを見捨てたわけでもなく、あなたたちから離れたわけでもない。わたしがここに来たのは、シオンの荒廃の赦しを願い、また、あなたたちの聖所がさげすまれたことへの憐れみを求めるためなのです。」(エズ・ラ12:46-48)
──と。だからいまは都に帰りなさい、私もじきに帰るから。
 そうしてかれらは都へ帰った。私はなお7日間、そこに留まり、野の花を食べて過ごした。

 「鷲」は本文中にもあるように、既に「ダニエル書」で啓示された幻でもあります。当該箇所の冒頭に曰く、「この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった」(ダニ7:7)と。
 但し、その「鷲」が象徴する帝国が異なる。「ダニエル書」では啓示の最後に登場した第4の獣、即ちユダヤを脅かす第4の帝国は、シリア、とも考えられましたが、本書ではそれがローマに、正式に取って代わる。「ダニエル書」はセレコウス朝シリアの台頭、就中アンティオコス・エピファネスの登場を予期して終わった。一方、本書「エズラ記(ラテン語)」はその成立を西暦100年前後とし(エズ・ラ3:1「都の陥落後三十年目のこと、わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた。」)、当然のことながらそこで槍玉にあがる、もとい、暗喩される帝国も、時代の推移に従って変化した。即ち、成立当時ユダヤを統治していた帝政ローマがそれだ。
 時代が移って列強国の興亡が明らかとなってシリアは滅び、これまで以上の脅威として帝政ローマがイスラエル(ローマと信仰を異にするユダヤ人共同体)の前に立ちはだかった、その脅威はこれまでのなににも優るものとイスラエルには映った、というのがシリアからローアヘ上書きされた経緯であったでありましょう。
 その鷲について、描写が細かくなされます。幻ですからその形は或る程度荒唐無稽でも構わないのですが、こんな描写を読んでいると、久しぶりに黙示文学を読んでいるなぁ、と実感もするところであります。まァ、読みながらふとした拍子に、「鷲」が「キングギドラ」に脳内映像変換されて困りもしましたが。
 この鷲の、翼も羽も頭も皆すべて、アウグストゥス以下のローマ皇帝12人を指しますが、どれが誰、と照らし合わせてゆく紙幅はありませんので割愛します。3つの頭と大きな翼……。
 ただ、エズ・ラ11:13b-17がアウグストゥス帝のことであり、この初代皇帝は前39-後14年まで、実に半世紀以上にわたって共和政から帝政へ移行したローマを指揮した人物でありました(※1)。そうしてエズ・ラ11:20-21はネロ皇帝自殺後のローマ内戦(事実上の後継者争い)を、同29「じっとしていた頭のうちの一つで、真ん中のものが目を覚ました。これは他の二つよりも大きかった」は66-70年、ユダヤとローマの間で勃発した第1次ユダヤ戦争の指揮官を務めて後に第9代皇帝となったウェスパシアヌスのことを語っている。これをまずは抑えておけばじゅうぶん、と考えます。第一次ユダヤ戦争については追々、筆を新しく執ることもあるでしょう。
 ただ1つだけ疑問なのは、此度のテキストに用い、かつ同時に参考ともした『スタディ版』P535皇帝一覧にユリウス・カエサルの名があり、これを初代皇帝の如くに記述している点でありました。これについてはなんの註釈も説明書きもありません。不審であります。なお、これに関して質問のメールを投げておりますが、現時点で何の回答もないことを書き添えておきます。
 本章で他、特記しておきたいのは、エズ・ラ12:8-9に於いてサラティエル(エズラ)がようやくここで、自分がいと高き方(イスラエルの神)により、その御前に立つことが許されている人物なのであることに納得し、それゆえなのでもありましょう、かれがこのあとで呼びかけるのはもはや天使ではなく主なる神となる(※2)。これを自覚、と申さずになんといいましょう。ずっと読書を続けていると、こうした些細な変化に一喜一憂するのであります。

※1 そして次の羽が起き上がって支配し、その時代は長く続いた。しかしこの羽も支配しているうちに終わりが来て、前の羽と同様に姿を消そうとしていた。すると、見よ、声が聞こえてきて、その羽に言った。「長い間地を支配していた羽よ、聞くがよい。お前が消えうせる前に、言っておくことがある。お前の後だれも、お前ほど長い間、いや、その半分すらも支配する者はいないだろう。」
※2 あなたの僕であるわたしに、この恐ろしい幻のはっきりとした解き明かしをして、わたしの魂を十分に慰めてください。あなたはわたしを、時の終わりと終末のことを示すのに、ふさわしい者と見なしてくださったからです。



 読書嗜好の針が右から左へ、左から右へ、極端に振り切れるときがある。集中して読むことに倦いたらまるで正反対の読み物へ手を出すのは自然であろうか。他人の、そのあたりの事情を知らないからなんともいえないけれど、少なくともわたくしにはそういうことがしばしばある。
 藤沢周平から忠臣蔵は自然な流れで、聖書から流れて遠藤周作の本を寝しなに読むのもゆめ不思議なことではない。そうした読書が続くと、浮気のように別ジャンルの作物へ手を伸ばしたくなるのだ……気分転換、といえば聞こえは良いけれど。
 最近は──そう、怪談ばかりですな。通勤時の吉川英治を除けば。遠藤は最後の数ページがなかなか読めない。腰を据えて読むべき部分であるからだ。その代わりのように寝しなの読書、隙間時間の読書には、むかしのように怪談ばかり読んでいる。実話、創作、どちらも拒まず。
 先達て『猫のまぼろし、猫のまどわし』に触れたけれど、これが奥方様の目に留まるところにあったのは最近書架の中身を(一部)入れ替えたせいである。隣には『屍衣の花嫁』と『亡者会』があったはず。『文豪怪談実話』や『ゴシック名作選』、綺堂の『世界怪談名作集』もあったはずだ。多くが書架の奥から引っ張り出してきたものである。
 怪談はね、わたくしにはホームだ。聖書を読んでいようがローマ帝国史に溺れていようが、時代小説へ熱中していようと柏木如亭はじめ江戸時代の漢詩人を摘まみ読みしていようと、怪談──こわい話、気味の悪い話、ゾッとする話はわが好物、嗜好のいちばん根っこにある。つまり、義務とか世過ぎの一助ではない、趣味で読む以外の何物でもないわけだ。
 むかし読んでずっと今日まで途切れることなく継続された趣味の読書の根幹を成すのが、怪談なのだった。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3363日目 〈エズラ記(ラテン語)第9章2/2&第10章1/2;〈エズラの祈り〉他猫は嫌いだ、あっち行け。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第9章2/2と第10章1/2、「第四の幻」です。

 第四の幻
 エズ・ラ9:26-9:37〈エズラの祈り〉
 天使に命じられた通り、私は、まだ人の手が入ったことのない野原へ行き、花を食べて7日を過ごした。7日目の夜、心がまた騒いだので、いと高き方へ祈って曰く、──
 われらが祖先がエジプトを出てカナン目指して荒れ野を彷徨っているとき、主よ、あなたはかれらの前に御姿を現しました。そうして律法をお授けになった。
 が、律法を受け取ったわれらの多くは滅びた。それを守ることがなかったからです。
 その一方で律法それ自体は滅びることなく今日まで伝えられてきました。なぜか。当たり前です。それはあなたの律法なのですから。
 「律法は滅びることなく、その栄光を保ち続けるのです。」(エズ・ラ9:37)
──と。

 エズ・ラ9:38-10:24〈泣く女の幻〉
 目をあげて右手の方を見やると、女が1人、うずくまって泣いていた。
 なぜ泣いているのか、と私は訊いた。
 女が答えた。
 わたしは結婚して30年間、子供を産めない体でした。しかし或るとき妊娠し、男の子を授かりました。息子は成長して嫁をもらう年齢となり、婚姻の仕度も調いました。なのに、いよいよ寝室に入ったとき息子は倒れて、そのまま息を引き取りました。町の人々が来て慰めてくれましたが、どうにも居たたまれなくなって遂に、家を抜け出してこの野原へ来たのです。この先一生わたしはなにも食べず、なにも飲まず、死ぬまでここで嘆き、祈り続けるつもりです。
 それを聞いて、私は怒った。
 この、すっとこどっこい奴が! あンたは女のなかでいちばんの愚か者だ。われらイスラエル皆の母、シオンの嘆きを聞け。彼女は自分の子供たちを全員失った。それゆえに嘆き、悲しみ、子供たちを想うて祈っている。なのにあなたは1人の子供を亡くしたぐらいでそうまで慟哭するか。
 「初めからすべての者は大地から生じ、これからも更に生ずるであろう。しかし、見よ、ほとんどすべての者は、滅びに向かって歩み、多くの者が滅びる。そうすると、どちらの方が深く悲しまねばならないのだろうか。一人のために嘆いているあなたよりも、このように多くの人々を失った大地ではないのか。」(エズ・ラ10:10-11)
 あンたは抗弁するだろう。しかしわたしは陣痛の苦しみを耐え、出産の痛みに耐えて、わが子をこの世へ送り出したのです。その子を失ったのです。これをどうして嘆き悲しまずにいられるのか、と。大地が多くの人々を失ったのは大地の法則に則ったまでではありませんか、と。
 私は答えた。
 そうだろうか? ならば私はこういおう。「あなたが苦しみながら子を産んだように、大地もそのようにして、初めからその実である人間を、大地の創造者のために産んだのだ。それゆえ今、あなたの嘆きを自分の中に納めて、あなたにふりかかった災いを力強く受け止めなさい。もしあなたが、神の定めを正しいと認めるなら、やがて時が来て再び子を与えられ、あなたは女の中でたたえられることになるだろう。」(エズ・ラ10:14-16)
 それでもあンたは、いいえわたしはここで死にます、と抗うに違いない。私はいおう。私の言葉を聞きなさい、私のいうことに耳を傾けなさい、と。シオンの失墜に思いを馳せ、エルサレムの痛みを思ってあンたの心の慰みとなさい。
 あンたも知っているだろう。エルサレムが如何に荒れ果てた都となったかを。至聖所は汚され、祭壇は打ち砕かれ、神殿は破壊された。神殿に満ちていた音楽、人の声、芳香、いずれも耐えてしまった。レビ人は捕虜となり、祭司は殺され、義人は連行されていった。幼子は捨てられ、若者は奴隷となり、強き者は弱き者となった。
 それ以上に最悪なのは、シオンに与えられていた証印のことである。神の栄光はシオンから取り除かれ、われらを憎む者の手に委ねられてしまった。
 こうした次第であるから、あンたは自分1人の悲しみをそれ程大きなものとは考えず、あンたの心からその悲しみを取り除くが良い。そうすれば神は再びあンたを顧みて、苦労をねぎらい、祝福をお授けくださることだろうよ。
 私は泣く女に、そういった。

 エズ・ラ10:25-10:59〈幻の説明〉
 すると、どうしたことか。うずくまって泣いていた女の顔が輝きはじめ、その姿は建設中の都の土台へ変貌した。私はすっかり怖くなって、天使ウリエルの名を呼んだ。
 すると、どうだろう。果たして天使ウリエルが私の前に現れて、いま見た光景の説き明かしをしてくれた。曰く、──
 お前が見て叱責して諭した女性こそがシオンである。女性は30年間子供を産めなかった、といったが、それはシオンに人が入植するまでの3,000年を意味するものである。ソロモン王が神殿を建設して奉献したことを以て子供が生まれたという。成長して子供が死んだ、とは、シオンが、エルサレムが、陥落したことを意味している。
 いと高き方はいま、お前にシオンの輝かしき姿を見せた。お前がシオンを想って泣き、祈ったからに他ならない。「いと高き方はあなたに多くの奥義を示されたのだ」(エズ・ラ10:38)
 お前はいま、幸いだ。他の多くの人々よりも、幸いである。お前は御許に呼ばれている人なのだから。
 ──明日の夜までここに留まっていなさい。そうすれば、いと高き方がこの世の終わりにしようと計画していることを、夢のなかの幻に見るだろう。

 信仰と律法は相対立する。〈エズラの祈り〉就中エズ・ラ9:32-37を読んでいると、そう強く感じます。
 主の律法なるがゆえにそれは不滅で、律法を与えられた人々の側に律法を守る心がなかったために却ってその人たちの方が滅びてしまった。それが「理」である。件の箇所が述べるのは、そういうことであります。
 では律法を守り、神の目に正しいと映る行いをして、生活をしてきた人みなが(終わりの時/裁きの日に)救われれるのか? 律法を守って義人とされる人でも救われない場合があるのなら、それに背を向けて現世の享楽、欲望充足に走る者が出てもふしぎではないのでは?
 ならば律法とは何物か。なぜ律法は神の定めたものであるのに、強制ともいえる立ち帰りの機能を有しないのか。
 このことは特にここでのみの問題提起ではなく、「創世記」の時代からイエスの処刑、その後の使徒やパウロたちの活動を経て、今日に至るまで教会や信徒たちの信仰の土壌に根ざして今後もゆめ解決することなき問題であろう、と思います。
 思い起こすべきは旧約聖書の神は<怒りの神>、<非情の神>である、ということであります。けっしてサラティエルがいうような憐れみの神、慈しみの神などではあるまいに……。



 猫嫌いの夫の蔵書に猫怪談アンソロジーがあるのを、奥方様がふしぎそうに見ている。東雅夫編『猫のまぼろし、猫のまどわし』(創元推理文庫 2018/08)、どうして買ったのか、わたくしもわからん。だって猫だぜ、猫。天敵じゃ。
 猫。鍋島の化猫騒動、TVドラマにも映画にも、アニメにもなった。彷徨いこんだ旅人が化猫にお湯をかけられて、かかった部分が猫になってしまうのは、なんというタイトルのものであったか。ちょっと思い出せない。耳まで裂けた口、つり上がったあの独特の目! 夜中に思い出したら眠れない。
 それが結構怖い作品だった記憶はしっかり残っている。猫嫌いの原因は他にもあるが、わが<アンチ・猫>のいちばんの根っこはおそらく、映像で観た化猫のおぞましさ、執念深さ、であったろう。否、猫は化けてあろうがなかろうが、執念深くておぞましい生き物だ。思い出しただけでも背筋が震える。若者よ、猫を苛めることなかれ。猫と遊ぶな、子供たち。
 まァ、いろいろな経緯があり、わたくしの猫嫌いは筋金入りである。道ですれ違うのも厭だ。ちょっとでも目が合ったら小さく叫んでしまう。夜中にどこからか猫の甘える声が聞こえても、卒倒しそうになる。猫をテーマにしたアンソロジーなど手にするのも怖い。いや、以ての外だ。
 それでいて、ポオも朔太郎も好みなんだから救い難い。上述のアンソロジーを柄にもなく購入したのは、朔太郎「猫町」に因んでブラックウッドと乱歩、珍しいところでつげ義春の作品が目次に並べ立てられていたことが、たぶん原因なのではないかな、と思う。池田蕉園「ああしんど」と上原虎重「佐賀の夜桜怪猫伝とその渡英」が初めての作家で、これらの作品も読んでいて面白かった。
 奥方様のご実家では猫を飼っている。で、この猫がわたくしに懐いたらしく覗うたびにすり寄ってくるのだ。膝のうえで丸くなって寝始められた日には、どうにかしてこれを遠島に追っ払いたくてソワソワしてしまう。が、奴は気持ちよさそうに眠っている。どうにかしてくれ、この生物。
 ボクハケッシテ猫ニ踊ラサレタリシナイ。猫ハ天敵ダ。犬の方がずっと好い。大型犬なら尚。◆


猫のまぼろし、猫のまどわし (創元推理文庫)

猫のまぼろし、猫のまどわし (創元推理文庫)

  • 出版社/メーカー: 東京創元社
  • 発売日: 2018/08/10
  • メディア: 文庫




共通テーマ:日記・雑感

第3362日目 〈エズラ記(ラテン語)第7章2/2-第9章1/2;〈代願の不可能なこと〉他withBrand new days, (つぶやき・なう)〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第7章2/2、第8章並びに第9章1/2、「第三の幻」2/2です。

 エズ・ラ7:102-115〈代願の不可能なこと〉
 私は問うた、代願は可能か、と。
 裁きの日、その日のために義人は、不敬虔な者たちのために執り成しをすることができるでしょか。かれらに代わって、かれらが救われる道が用意されるよう祈り、願うことはできるでしょうか。
 天使が答えてそれに曰く、否、と。
 誰かが誰かのために赦しを請うことは、けっしてできない。誰もが己の不正な行い、正しい行いの責任を持たねばならぬからだ。
 私は問うた。
 モーセ以来預言者や為政者は皆、自分のためではなく、他の者たちのために祈ってきました。「滅びる者がはびこり、不正が増し加わっている今、義人たちが不敬虔な人たちのため祈っているのに、どうしてあの裁きの日には、それができないのでしょうか。」(エズ・ラ7:111)
 天使が答えた。
 いまの世はいまを生きる人たちのためにあり、従って到達点に非ざるためである。神の栄光はいまの世にのみ留まるものではない。モーセ以来の預言者や為政者はいまの世を生きる弱き者らのために祈ったのである。
 「裁きの日はこの世の終わりであり、来るべき不死の時代の始まりとなる。その時には、腐敗はもはやなくなる。放縦は解消し、不信仰は断たれ、正義が成長し、真理が現れる。だからその時、だれも、裁きに敗れた者を憐れむことはないし、勝った者を滅ぼすこともできないのである。」(エズ・ラ7:113-115)

 エズ・ラ7:116-8:14〈救われる人は少ない〉
 私はいった。神よ、焉んぞアダムをば造り給ふや、と。
 アダムの堕落は即ちわれらの堕落。アダムが罪を犯したばかりにわれらも罪を纏う者となってしまった。われらが背負うのは、生きていれば悲しみ、死ねば刑罰。不死の世の約束がどれ程の慰めとなりましょう。われらは最も邪悪な道を歩み、楽園へ辿り着くことも叶わない。この世に生きて不正を働き不義に明け暮れているときは、死後に待ち構える苦しみのことなどなにも考えなかった……。
 天使がいった。
 地上に生きる人間は人生の戦いについてとく心を留めよ。戦いに負ける者は苦しみを受ける。戦いに勝つ者は神から恩寵を授けられる。
 私は訴えた。
 私は、神なる主が「裁き主」と呼ばれることを知っている。「もし、御言葉によって造られた人々を赦さず、多くの罪を消してくださらなかったら、恐らく、数えきれないほどの人の群れの中で、ごくわずかの人々しか生き残れないでしょう。」(エズ・ラ7:139)
 天使が答えた。
 いと高き方はこの世を多くの人々のために造った。しかし来たるべき世はわずかな人のために造られている。この世に生きるため造られた人は余りに多く、来たるべき世へ入るため造られた人は実に少ない。
 ──
 私は嘆願した。
 「どうか、わたしたちに心の種を与え、そしてわたしたちの知性を耕して実を結ばせてください。そうすれば、朽ちるべきすべての者が人としての場を得て、生きることができるでしょう。」(エズ・ラ8:6)
 神よ、あなたは母となる女の胎に人を与えて、これを守らせた。産声をあげて後は母の乳によって育てられる。「その後あなたは、その子に憐れみをかけ、あなたの正しさではぐくみ、あなたの律法で教育し、あなたの知恵で戒められました。
 それをあなたは、御自分が造られたものであるがゆえに死なせたり、御自分の作品であるがゆえに生かしたりされるのです。あなたの命令に従い、これほどの苦労によって形づくられたものを、簡単なひと言で滅ぼされるなら、何のためにそれをお造りになったのでしょうか。」(エズ・ラ8:11-14)
 私は自分のために、イスラエルのために、祈った。
 「主よ、この僕の祈りを聞き入れてください。あなたがお造りになった者の祈りに耳を傾け、わたしの言葉に御心を向けてください。わたしは生きるかぎりあなたに語り、わたしに分かるかぎりお答えします。」(エズ・ラ8:24-25)
 「わたしたちもわたしたちの父祖たちも死をもたらす生き方をしてきましたが、あなたは、罪人であるわたしたちのゆえに憐れみ深い方と呼ばれるのです。もし、あなたがわたしたちを憐れむことを望まれるのでしたら、正しい業を行わないわたしたちを憐れんでこそ、あなたは憐れみ深い方と呼ばれるでしょう。正しい人たちは、あなたのもとにたくさんの業を蓄えており、自分たちの業のゆえに報いを受けるからです。」(エズ・ラ8:31-33)
 「実際には、生まれてきた人の中で不敬虔なふるまいをしなかった者は一人もいません。信仰を告白する人の中にさえ、罪を犯さなかった人はいません。主よ、よい業を蓄えていない人々をあなたが憐れまれてこそ、あなたの正しさと善良さとが、宣べ伝えられるでしょう。」(エズ・ラ8:35-36)

 エズ・ラ8:37-9:13〈終末について〉
 天使がいった。
 わたしは義人あることを喜ぶとしよう。農夫が畑に蒔いた種のすべてが実を結ばないのと同じように、この世の人々すべてが救われるわけでもないのだからな。
 私はいった。
 農夫が畑に蒔く種と神が御自分の似姿として造った人間を一緒にしますか。あなたの民を惜しみ、あなたの世継ぎの民を憐れんだりはしないのですか。
 天使が答えた。
 いま在るものはいまの世の人のためにあり、将来のものは将来の人のために在る。お前は「私たち」というが、自分を不正不義を働く衆の一員と思うてはならない。
 「この世に住む人々は、おごり高ぶって歩んでいたので、終わりの時には、多くの悲惨な目に遭うであろう。しかしあなたは自分のことをよく考え、自分と同じような人々の受ける栄光について思い巡らしなさい。あなたたちには楽園が開かれており、生命の木が植えられ、来るべき時が備えられて、豊かな富が用意されており、都が建てられ、安らぎが保障されており、恵みが全きものとなり、完全な知恵が与えられる。
 悪の根は、あなたたちに近づかないように封じられ、病は消え去り、死は姿を隠し、地獄は遠ざかり、腐敗は忘れ去られる。悲しみは過ぎ去って、最後に不滅の宝が示される。
 それゆえ、滅びる者が多いことについて尋ねるのは、もうやめなさい。
 彼らは自由を与えられていながら、いと高き方を侮り、律法を軽蔑し、その道を捨てたのである。その上、彼らは義人を踏みにじった。そして心の中で、神はいないと言った。こんなことをすれば死ぬと知っていながらである。前もって話しておいたことがあなたたちを待ち受けているように、彼らには、用意された渇きと懲らしめが待ち構えている。いと高き方が人の滅びを望まれたのではなく、造られた人々自らが、自分たちをお造りになった方の名を汚し、今の命を与えてくださった方の恩を忘れたのである。それゆえ、わたしの裁きは間近い。
 わたしはこのことをすべての人に示すのではなく、あなたとあなたと同じようなわずかの人々にだけ示したのである。」(エズ・ラ8:50-62)
 ──
 私は尋ねた。
 終わりの時はいつ訪れるか。
 天使が答えた。
 いつも自分のまわりに目を向け、注意を払っていなさい。変化の兆しがあるのを見逃さないようにしていなさい。
 「この世の出来事はすべて、始まりは終わりによって明らかになり、終わりがすべてを明らかにするが、いと高き方の時もこれと同じであって、その始まりは前兆と力ある業において明らかにされ、終わりは行いとしるしにおいて明らかになる。」(エズ・ラ9:5-6)
 そのとき、救われた者、神の怒りから逃れ得た人々は皆、危難を免れて、「永遠の昔から聖別しておいたわたしの血と領域で救いを見るだろう」(エズ・ラ9:8)
 勿論、神を蔑ろにし、律法を蔑んだ者は懲らしめられ、救いに与ることも聖別された地を見ることもできない。

 エズ・ラ9:14-25〈結び〉
 私はいった。
 何度でも申しあげます。しかし、救われる人の方が滅びる者よりも遙かに少ないのだ、という明白な事実を。
 天使が答えた。
 この世界に人間が造られたとき、なにが不足するわけでもない食卓と究め難い法則が整えられていたが、人々は堕落した。いと高き方は嘆き悲しまれた;この世は滅び、イスラエルは危険に曝されていた。それゆえに正しい人たちが救われる策を講じた。神はブドウの房から1粒の実を救い、大きな森から1本の木を救うだけである。
 「だから、理由もなく生まれてきた多くの人々は滅びるがよい。わたしの一粒のぶどうの実とわたしの一本の木が救われればよいのだ。わたしが大変な苦労をしてこれを完成させたのであるから。」(エズ・ラ9:22)
 ──
 天使が私に、続けていった。
 これより後7日間、花咲き乱れる未開の野原で花を食べて過ごし、絶えずいと高き方へ祈れ。そのときわたしはまた、お前と語らおう。

 「第三の幻」はここで終わる。しかし、このあと、天使/いと高き方が視せる幻はだんだんと具体的な姿を想起させるそれになってゆきます。これは昔からいわれているように、至高の存在がサラティエルに段階を踏んでだんだんと幻の核心に迫って行ってみせている、と受け取ってよろしかろうと思います。
 ここで申しあげておきたいのは、もし読者諸兄が本ブログを契機に「エズラ記(ラテン語)」を読むことがあれば、その際は是非続けて「ダニエル書」にも(改めて)目を通してほしい、という願いであります。「エズラ記(ラテン語)」で至高の存在が視せる幻は「ダニエル書」でダニエルが視せられた幻と重なる部分があり、またそれが時代を下った「エズラ記(ラテン語)」とくらべるとまだ輪郭の模糊とした幻であることを知っていただきたい、確認していただきたい一念からに他なりません。再読を要することになった「一マカ」と「エズ・ラ」がいずれも「ダニエル書」と関わりを持つ書物であったことは、面白い暗合であるな、と感じ入る次第であります。
 さて、今日読んだ第7章2/2、第8章、第9章1/2で重視すべきであろう点は、やはり最初の〈代願の不可能なこと〉でしょうか。しかしわたくしはむしろ、そのあとに続くアダムの犯した罪について述べた箇所で立ち止まって、考えてしまう。
 正直なところ、〈代願の不可能なこと〉はきちんと読めばすぐに納得できよう部分でありましょう……。ただ1つだけ、お話すべきことあるとすれば、かつてカトリック教会が使っておりその後も10世紀の長きにわたって用いられた「エズラ記(ラテン語)」(9世紀のサンゲルマネンシス写本)には、〈代願の不可能なこと〉を含む第7章第36節から同106節までが脱落していたこと、でありましょうか。ここに欠落した部分があったことは1874年に、同じ9世紀に書き写されたアムビアネンシス写本が発見されるまで知られていなかったそうであります。どうしてサンゲルマネンシス写本に斯様な脱落があったか、といえば、脱落部分に中世のカトリック教会が認めていた「代願の肯定」がはっきりと否定されていたからだろう、とは榊原康夫『旧約聖書続編を読む』にある指摘であります(P305-306 聖恵授産所出版部 1999/04)。
 知恵の実を食べたことでアダムは罪人として裁かれ、エデンから追放されて地を彷徨った。額に汗して労働せねば生きられぬ身ともなった。ゆえにアダムの子孫である人間は皆、母の胎より産まれる前から罪を負った存在として生きることを運命附けられている──。「性悪説」とは古代中国は荀子の唱えた倫理思想の根幹であります。これをキリスト教で正確になんというのか、不勉強もあってわたくしは知りませんが、ユダヤ教、キリスト教が、人は皆アダムの罪を背負って生まれてくるのだ、と考えているならば、やはりこれも性悪説というべきでありましょう。
 となれば人は不正不義を働くことが飾り気のない、そのままの姿であり、却って律法に従って生きたり神の目に正しいと映ることに勤しんで生きることは<意思>の力を必要とする、けっして自然とは言い難い姿なのだ、ということもできようかと思います。為、繰り返し繰り返し、背くな、従え/守れ、と善き人は叫び続けたのでありましょう。性悪説はやはりアダムの罪に始まり、それは敬虔なるユダヤ教徒やキリスト者にしてみれば、われらには想像できない程の重荷として課せられた罪であったのだろう、と想像できます。この罪の意識が強固になってかれらの、メシアを期待する気持ち、思想へつながっていったのかもしれません。そんな風にわたくしは考えております。
 ただ、人間の側から罪の意識を伴って考えればそうなるのでしょうが、考え様によっては、神があのとき知恵の実あることをアダムに伝えなければ、このようなことにはならなかったのではないか。アダムが罪を犯したから人は罪の存在になったのだ、ではなく、神が知恵の実のことを語ってしまったからこんな事態が出来したのだ、という方が事実に余程近いと思うのですが……まぁ、それをいい始めたらキリがありませんね。
 引用もしたエズ・ラ9:22は一言でまとめれば、義人を残して他は滅ぼしますね、という意味です。もう少しミもフタもないいい方をすると、いと高き方、神がウリエルに託したのは、もはや世も世界も人も自分の手に負えなくなったから/自分でコントロールできなくなったから/自分が望む姿でなくなってきているから、イエス・マンの義人だけ残してそうでない人たちは滅ぼしてしまおう、という神の、神による、神のための強制リセット、然る後の再起動、であります。これを責任逃れ、一切合財をチャラにする、というても然程間違ってはいないでしょう。「創世記」でノアたちが経験した一斉粛正がもっと大きな規模で再び実行されるのが、ここでいう「理由もなく生まれてきた多くの人々は滅びるがよい。わたしの一粒のぶどうの実とわたしの一本の木が救われればよい」であります……。なんと、まぁ。言葉が過ぎたかもしれません。が、とどのつまりそういうことですよね、サラティエルの神様?
 本書は黙示文学でありますが、だからというて深刻にその幻に囚われて読む必要はない、寧ろ至高の存在が、要するになにをしようとしているのか、を摑むことの方が大事である、とわたくしは考えます。幻の内容について云々するのは、そのあとで良いと思います。むろん、これがユダヤ教徒、キリスト者であれば話は別の方向へ行くのでしょうが、わたくしはそうではありませんので。
 これで「第三の幻」は終わります。



 昨日のこと;おかえり、お姫さま。おかえり、奥方様。さぁ、新しい生活の始まりだ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3361日目 〈エズラ記(ラテン語)第6章2/2、第7章1/2;〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉他withあなたといっしょに暮らす夢を見た。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第6章2/2と第7章1/2、「第三の幻」1/2です。

 第三の幻
 エズ・ラ6:35-59〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉
 7日の断食が終わって8日目の夜、私は問いかけた。
 神よ、あなたは7日にわたって天地を想像し、闇と光を分け、陸と海を分け、生物を造り、人間を創造した。いずれもあなたが選んだ民のため、という。
 ならばどうして取るに足りぬ存在であるはずの諸国民にあなたの民の命運を握らせたのか。われらはこの世を相続することはできないのでしょうか。こんな状況が果たしていつまで続くのでしょう。

 エズ・ラ7:1-44〈天使の答え──裁きと相応の報い〉
 以前と同じように天使ウリエルが現れて、こういった。
 この世の出入り口は狭く、険しく、悲しみにあふれ、労苦の満ちたものである。が、大いなる世の入口は広く、安全だ。生きている者はこの狭い門を通らないとあらかじめ備えられていたものを受け取ることができない。
 なぜお前は心を痛めるのか。なぜ動揺するのか。「なぜ、今あるものにだけ心を留めて将来のものに心を留めないのか。」(エズ・ラ7:16)
 私は答えた。
 律法では、不敬虔な者は滅びる、と定められています。敬虔な人、つまり正しい人は絶えず広い所を希望しながら、狭い場所で耐えています。一方で不敬虔な人は狭さに苦しみ、広い所を見ることはどんなに希望しても叶えられません。
 天使がいった。
 お前は主に優る裁き手でもなければ、賢くもない。そうして、──
 「人々に与えられた神の律法が軽んじられるくらいなら、今いる多くの人々が滅びる方がましである。主は、人々がこの世に生まれて来る度に、どうしたら生き永らえるか、何を守れば罰せられないで済むかを、諭された。しかし人々は言うことを聞かず、主に逆らい、自分勝手にむなしいことを考え出し、邪悪な欺きを企てた。そしていと高き方は存在しないと豪語し、その道を認めなかった。また、律法を軽んじ、契約を拒み、その戒めに忠実でなく、いと高き方の御業を行わなかった。このゆえに、エズラよ、むなしい者にはむなしいものが与えられ、豊かな人々には豊かなものが与えられるのである。」(エズ・ラ7:20-25)
 終わりの時が来たらそのとき、悪から救われた人々は新しい世界の訪れを見ることができる。
 「すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、生き残った人々に四百年の間喜びを与える。その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ。そして世は、初めのときのように、七日間、太古の静寂に戻り、一人も生き残ってはいない。七日間が過ぎたとき、まだ目覚めていない世は揺り起こされて、朽ちるべき世界は滅びる。大地は地中に眠る人々を地上に返し、塵はその中に黙して住んでいる人々を戻し、陰府の部屋はそこに預けられていた魂を外に出す。そしていと高き方が、裁きの座に姿を現す。もはや憐れみはなく、寛大さは跡形もない。そこには裁きあるのみである。真理は立ち、信仰は力を得る。」(エズ・ラ7:28-34)
 「(裁きの日には)太陽も月も星もなく、雲も雷も稲妻もなく、風も水も大気もなく、闇も夕暮れも朝もない。また、夏も春も暑さもなく、冬も霜も寒さもなく、雹も雨も露もない。真昼も夜も夜明けもなく、きらめきも、明るさも、光もない。ただあるのはいと高き方の栄光の輝きのみであり、この輝きによって、人は皆、自分の目の前にあるものを見る。その期間は七年である。」(エズ・ラ7:39-43)
 これが神による裁きである。わたしはお前にだけこれを伝える。

 エズ・ラ7:45-61〈救われる人の多少について〉
 わたしは尋ねた。
 いったいどれだけの人が罪を犯さず、契約を守り通せるのでしょうか。来たるべき世に喜びを感じるのはごく一握りの人々だけで、その他大勢には懲らしめが用意されています。基本的にわれらの心のなかには悪の種子が芽吹き、成長し、いつしか腐敗してしまう。われらには死への旅路、滅びへの道が用意されています。これが圧倒多数の人の行く末です。
 天使が答えた。
 手に入れにくい価値あるものを持つ人は、いつでもすぐ手に入るものを持つ者よりも大きな喜びに与る。神は御自分の創造した世界に、たとい数は少なくとも救われる人のあることを喜ぶ。かれらは神の栄光を優先し、その御名を讃えるからである。神は滅びに至る多くの者のことを顧みたり、嘆いたりはしない。

 エズ・ラ7:62-77〈裁きの必然性〉
 私は嘆いた。
 もし他の被造物同様、知性が塵から生まれたのならば、塵が生まれぬ方が良かったのではないか。塵から生まれた知性が成長するにつれてわれらの苦しみも増し、やがて滅びることを定められたのだから。救いの約束がいったい、なにになるというのか。生まれた人々は皆、過ちを犯し、その重荷を背負って生きてゆくのだから。
 天使が答えた。
 神はアダムを造る前から裁きとそれにかかわる事柄を定めていた。人は懲らしめられる。戒めを守らず、律法を蔑ろにしたためではないか。神が長い時間、不義の人々の行いに耐えていたのは、あらかじめ定められた時が満ちるまで待つためなのだ。
 私は尋ねた。
 どんなタイミングであってもわれらが魂を返したらば、裁きの日までその魂は安らぎのなかで守られるのでしょうか。
 天使がいった。
 お前は自分が不義の人々であるかのように感じているが、そのようなことはない。お前の行いは天に蓄えられている。が、終末の時にならぬとお前は天に積んだその宝を見ることができない。

 エズ・ラ7:78-101〈死後の霊のたどる道〉
 死についての話をしよう、と天使がいった。
 死者の霊は造った方の許へ帰る。その霊がいと高き方の道を軽んじたか、守ったかで、辿る道は異なる。わかりやすく説明しよう。
 いと高き方の道を軽んじた者とは、律法を軽蔑し、神を畏れ敬う人を憎み、神の目に悪と映る行いに耽り、神の定めた道から外れて生きた者たちのことである。かれらは安らぎの場所を見附けることも、そこへ辿り着くこともできず、ただ苦しみのなかで嘆き悲しむことになる。かれらは7つの道を彷徨い歩くことになる。即ち、──
 第1の道;律法を軽視した者のために準備された道。
 第2の道;生きるための悔い改めが不可能な者のための道。
 第3の道;契約を善く守った人が報われる様子を見せつけられる道。
 第4の道;終わりの時に受ける懲らしめを想起させる道。
 第5の道;「他の人々の住まいが天使たちによって守られて深い静けさに包まれているのを見せつけられる」(エズ・ラ7:85)道。
 第6の道;自分たちのお仲間の誰かが奈落へ突き落とされる道。
 第7の道;神の栄光の前に衰え、萎えてしまう道。「彼らは生きていたときには、この方の前で罪を犯したのであり、終わりの時には、この方の前で裁かれるのである。」(エズ・ラ7:87)これはどの道よりも、不義者には辛い道となる。
──以上。
 では、いと高き方の契約を善く守った人とは、どのような人か。いうまでもない。神の目に正しいと映る振る舞いをし、生活を守り、神へ至る道を一歩も踏み外すことなく歩んだ人である。
 かれらの体からも、死んだ際は霊が離れる。生前のかれらは苦労して神に仕え、これを敬い、律法を守るためあらゆる危険を冒した(危険に見舞われた)。神はかれらを見ていた。かれらは7つの段階を経て安らぎを得る。
 第1段階;悪に抗い、悪に打ち克つための戦いの末、苦労して摑んだ勝利。
 第2段階;不敬虔な人の魂が行き処なく彷徨う様を見、用意された罰を眺める。
 第3段階;生前、律法を遵守したことが証言される。
 第4段階;「陰府の部屋の中で、天使たちに守られて、深い静けさの中に集まって味わう安らぎと、終わりの時に自分たちを待ち受けている栄光とを知る。」(エズ・ラ7:95)
 第5段階;不義の者、不敬虔な者らとは違って朽ちゆくものから逃れ、相続財産を受け継ぐことが決まったことを喜ぶ。また、窮屈で労苦に満ちた浮世から救い出され、いまや不死となったことを喜び、ゆとりを得る。
 第6段階;太陽の如く顔が輝き、星の光の如き存在となったことを知る。
 第7段階;これまでのどの段階にも優って偉大な段階、「ここでは、人は安心して喜び、信頼して迷うことなく、恐れることなく喜びを味わう。彼らは、生前に仕えた方、やがてその栄光にあずかり、報いをいただくその方の御顔を見に急ぐ。」(エズ・ラ7:98)
 ──
 これらのことを聞いて私は天使に、確認の意味を込めて尋ねた。
 では人の魂は体を離れたあと、いま仰ったような道を歩くなり段階を踏んでゆくなりするのですね?
 天使が答えた。
 然様、かれらには7日間の猶予が与えられる。先程の道もしくは段階をその7日の間に見て後、それぞれの住まいへ集められることになる。

 エズ・ラ6:35にふしぎな一説が出てまいります。曰く、「以前と同じように七日間の断食を行った。言われたとおり三週間続けるつもりだった」と。断食期間として設けられた7日間はまだわかるのです、エズ・ラ6:31で天使がそう命じておりますから。しかし、3週間続けるつもりであった、とは、はて面妖な。いったい誰に、そういわれたのか。「エズラ記(ラテン語)」本文をどう探しても、どう読んでも、該当する文言は見附けられません。
 では、なにか典拠があるのか。参考になりそうな本を何冊か開いてみましたが、解答はありませんでした。そもそれに触れた本すらなかった。既になにかしらの見解が出た一件であるのか、そんな重箱の隅を突くような件は取りあげる価値もないと捨て置かれているのか……。
 直前に脱落した文章があったのかもしれない、経緯はどうあれ当該部分は加筆されたのかもしれない、など考えてしまいますが、どうにも解決の糸口が見附けられない状態でこの問題は脇に押しやるより他なさそうです。
 ここでいちばん問題になるのは寧ろ、エズ・ラ7:28-29「すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、生き残った人々に四百年の間喜びを与える。その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ」でありましょう。イエスとキリスト、という固有名詞がユダヤ教文書のなかにある点に疑問を感じるのです。いずれもキリスト教の呼び名であり、ユダヤ教文書である「エズラ記(ラテン語)」本文にそれがあるのは可笑しい、ということであります。
 〈前夜〉でわたくしは、本書の最初の2章と最後の2章は「エズラ記(ラテン語)」がキリスト教文書として取りこまれる際、キリスト教者が加えた部分とされている旨申しあげました。これは推測の域を出ませんが第7章の件の箇所もその折、斯く書き換えられたのではないか、といわれております。正直なところ、わたくしもその意見に異を唱えることなく与する者であります。おそらくそこには本来、「メシア」と書かれていたのではないでしょうか。ユダヤ教もメシア到来を信じる土壌がありましたから、それを記した文章が「エズラ記(ラテン語)」にあってもなんのふしぎはない。
 固有名詞がもし本当にキリスト者によって書き換えられたならば、他の本文にも多少なりとも加筆や書き換えがあった、と考えてしまうのは無理からぬところでありましょう。
 エズ・ラ7:12-14の「狭い門から」云々はその伝で行けば、マタ7:13とルカ13:24に載る有名な一節に辿り着きましょう(マタ「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々としてそこから入る者が多い」、ルカ「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」)。
 ほかの部分でも本書と新約聖書文書の内容や思想が響き合うところは散見され、実際、パウロ神学との関係を見なくてはならぬ箇所も出てまいります(エズ・ラ5:41など)。改めて旧約聖書の名を冠する続編(外典、偽典)だからとて新約聖書に収まる文書よりも以前に成立しているわけではない、という最大の前提を忘れてはならない、と思います。
 「エズラ記(ラテン語)」──第4エズラ記の成立は第一次ユダヤ戦争が集結した70年から30年が経過した西暦100年前後とされます。この頃には共観福音書も完成が視野に入ってきた時分とされますから、両者の影響関係がこのような形で現れたとしても可笑しくはないでしょう。
 いずれにせよこの時代、既にどれだけローマ帝国内へキリスト教が浸透して、後の国教化を実現させる下準備が為されていたか、を考える切り口になる筈であります。



 昨夜、あなたの夢を見た。いっしょに暮らしている夢だ。
 そこにはもう1人、いた。誰なのかわからない。しかし、皆そこにいた。
 どうか現実の光景となりますように。未来をください。いつまでも一緒にいられる未来を。
 もう痛めつけられて苦しむのは終わりにしたい。独りぼっちは厭ですよ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3360日目 〈エズラ記(ラテン語)第5章;〈終末のしるし〉、〈エズラの問い──選びと苦悩について〉他with140字で宇宙を作り出すのは難しい。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第5章と第6章1/2、「第一の幻」3/3及び「第二の幻」です。

 エズ・ラ5:1-13〈終末のしるし〉
 その日が来たら、と天使がいった。
 その日が来たら、人々の心は恐怖に囚われ、真実は隠され、不義が全地にはびこる。お前が見る国々はいまでこそ世界の覇者の地位にあるが、やがて乱れて町は廃墟となり、終いにはその国土は荒れ野となる。
 しかし、神がお許しになりお前が生き永らえられるならば、その3日後に天変地異が起こるのを見るだろう。誰も望まぬ者が支配者となり、口を開いた深淵から炎が湧きあがる。身重の女はこの世のものならざるを生み、人々はいがみあって殺しあう。星は軌道を外れてゆく。分別は隠れる、知性は姿をくらます。何人もそれを探し出せない。
 「人々は望んでも得られず、働いても道は整えられない。」(エズ・ラ5:12)
 いまのお前に見せられるのはここまでだ。もし7日間の断食をお前が実行したらばその暁には、もっと別の、もう一段進んだしるしを見せることもできるだろう。
 天使ウリエルは私にそういった。

 エズ・ラ5:14-20〈結び〉
 目覚めると、全身がすっかり萎えていた。魂もひどく怯えていた。私の魂はこれ程に怯懦であったろうか。それでも天使は私のところへ来て、私を励ましてくれたのである。
 2日目の夜。ファルティエル、という民のリーダーが来て、いった。どこに居られたのですか、なぜそんな悲しそうな顔をしているのですか、と。この強制移住の地でわれらイスラエルの民はあなたに委ねられているのですよ。そのことをお忘れか。
 私はかれにいった。これから7日間、私に近寄ってはならない、と。
 ファルティエルは去った。
 私は泣きながら、7日間の断食を実行した。

 第二の幻
 エズ・ラ5:21-30〈エズラの問い──選びと苦悩について〉
 7日が経った。私は再びひどく悩んでいた。わが魂は理解力を取り戻していたので、天使ウリエルに再度尋ねた。
 どうして主なる神は御自分が選んだ民を、御自分の約束に背を向けた蛮族どもに渡したのでしょうか。主はイスラエルを憎んでおられるのか、ならば御自分の民として、地上の数多の民から1つの民を選んだのはなぜなのか、それが私にはわからないのです。

 エズ・ラ5:31-40〈天使の答え〉
 天使がいった。
 お前が主よりもイスラエルを想い、来し方行く末に悩むのか。
 私は答えた。
 否、悲しみのあまり申しあげた次第です。主の道を想い、その裁きの一端なりとも究めようとするといつも、私の魂は痛み、怯懦になるのです。
 天使が問うた。
 未だこの世に生まれて来ぬ人の数を数え、枯れ野に緑を育て、陰府の扉を開けてみよ。お前はこれらのどれ1つとして成し遂げることができない。「同じように、わたしの裁きや、わたしが自分の民に約束した愛の目的をも究めることはできないのだ。」(エズラ5:40)

 エズ・ラ5:41-49〈被造物の継起性と終末の裁き〉
 私は尋ねた。
 私以前の人々は勿論、私や、私のすぐあとに生まれる人々は、時の終わりに居合わせることができません。どうしたらよいでしょう。
 天使がこう答えた。
 皆が時の終わりに居合わせることができる。最初の者が終わりの者となり、終わりの者が最初の者となるからだ。つまり、こういうことである、──
 「わたしの裁きを輪のようにしよう。後の者たちが遅れるわけでもなく、先頭の者たちが早くなるわけでもない。」(エズ・ラ5:42)
 わたしは尋ねた。
 過失に生きた人々、現在を生きる人々、未来に生きる人々;(神が)かれらを1度に、同じ時に作らなかったのはなぜですか。
 天使が答えた。
 女の胎は相応しい時に、相応しい種を宿して、子供をこの世に送り出す。神もそれと同じように人がそれぞれの時に従って生まれるように、生きるように、定めてこの世界を造ったからである。

 エズ・ラ5:50-55〈老年期を迎える被造世界〉
 わたしは尋ねた。
 人々の生まれる順番についてあなたはいま、女の胎に喩えてお答えになりました。教えてください。その女は、われらの母は、まだ若いのでしょうか、それとももう年老いているのでしょうか。
 天使が答えた。
 被造物は老いてゆき、若い時の力を失ってゆくのだ。

 エズ・ラ5:55-6:28〈被造世界に直接かかわる神〉
 わたしは尋ねた。
 あなたを誰を用いてわれらの前に姿を現すのか。
 天使が答えた。
 天地未だ固められざる頃、信仰ある者がまだしるしを受ける前に、すべては成った。他の者ではなく、わたしによって成ったのである。従って終わりの時もまたわたしによって来るのだ。
 時の区分について、わたしは尋ねた。
 前の時が終わるのはいつか。次の時はいつ始まるのか。
 天使が答えた。
 アブラハムに始まりアブラハムに終わる。前の時の終わりはエサク、次の時の始まりはヤコブが担う。人の終わりは踵であり、人の始まりは手である。踵と手の間に隔たりはない。

 エズ・ラ6:11-28〈終末のしるし〉
 天使がいった。
 しっかりと自分の足で立ち、響きわたる声を聞け。その声は終末についての言葉である。
 わたしは大地にしっかりと立ち、耳を澄ました。すると、大地が震えた。語りかける声が聞こえた。それは洪水の轟きのようだった。
 見よ、その日がやってくる。その声がいった。それは地に住む人々の許を訪ねようとしているわが足音である。
 「それは不義によって害を及ぼした者どもの追及を始める時であり、シオンの屈辱が終わる時である。そして、過ぎ去っていく世が封印されるとき、わたしは次のしるしを行おう。」(エズ・ラ6:19-20)
 「(わたしが予告したすべてのことを免れた人たちは)皆救われ、わたしの救いと、世の終わりとを見るだろう。そして地に住む人々の心は変えられて、新しい感覚を身に付ける。悪はぬぐい去られ、欺きは消え去るからである。そして信仰が花開き、腐敗は克服され、長い間実らなかった真理が明らかになるだろう。」(エズ・ラ6:25-28)

 エズ・ラ6:29-31〈結び〉
 その声が語りかけているとき、足許の大地が徐々に動き出した。私はおののいた。
 その姿を見て、天使がいった。
 わたしが今夜、お前に示そうとしていたのは、つまりこういうことである。このあと、7日間の断食を行ったらば、今度は日中に、更に大いなることを告げてあげよう。
 「(というのも)あなたの声がいと高き方に確かに達したからである。力ある神は、あなたの正しさを見て、あなたが若いときから守ってきた貞節を顧みられたからである。」(エズ・ラ6:32)
 神は天使に、私宛の言葉を託した。信頼せよ、恐れるな、焦って虚しいことを考えるな。そうすれば終末の時が訪れても慌てることはない。

 本章、というよりも「第二の幻」はユダヤ人のアイデンティティである「神に選ばれた民」について、根本的な疑問を投げかけてきます。そうしてこれは、おそらく聖書を読む者ならば誰しも一度は抱いた疑問でもありましょう。
 どうして神は自分の民が苦しみ、贖いを求める声を無視して傍観したままでいるのか。どうして神は自分の民を、自分の掟に背を向けた蛮族どもの手に渡したのか。どうして神は自分の民を蛮族の手に渡し、かれらの地で使役させ、見えない未来を前に絶望を味わわせるのか。──
 エズラ(サラティエル)もまた、同じ疑問に囚われて悩む1人でした。しかし、天使はそれを分不相応な行いだ、として一喝します。人智を越えた、神の領域を侵犯するなかれ、神の配慮、計画に疑問を呈するなかれ。簡単にまとめてしまえば、天使からの回答はそんな意味になります。エズラの問い、天使の答え、いずれも話題を変えて「第七の幻」まで続くのですが、基調低音を為すのは、「それはどうして、そうなったのか?」、「あらかじめ定められた計画に従ってのことである」とうことに尽きるような思いがいたします。
 このエズラの問い──自分たちの苦難になぜ神は沈黙を守ったままなのか──は、新約時代まで形を変えて持ち越されました。他ならぬイエスの死に接した使徒たちが抱いた疑問であります。
 使徒たちの疑問がやがてキリストについて深く考え、宣教へつながっていったのと同じように、エズラの疑問はそのままユダヤ人が幾世代にもわたって抱き続けた疑問の代弁でもありました。自分たちが<選民>であるてふ強烈なアイデンティティと常にべったり貼りついた疑問であり、それなるがゆえに却って自分たちの<選民>意識、自負を強固なものにする要因となった、とわたくしは考えております。
 正直なところ、読みながら、ノートしながら、時折立ち止まって考えてしまったことに、エズラの台詞/地文と天使の台詞に現れる「いと高き方」があります。
 なぜ、天使は自分の台詞として発するなかで、まるで第三者が存在するかのように「いと高き方」を連発するのか。エズラが「いと高き方」というとき、指しているのは天使ウリエルのはずなのになぜそれ以外の存在を示唆するようないい方をしているのか。ずっと考えこみながら、解決を時間に任せて読み進んで、ようやく、そうか、と気附き、納得することができました。
 そのきっかけはよう覚えておりませんが、要するに「いと高き方」とはかれらのいう「主なる神」であり、最上位におられる存在;つまりエズラが「いと高き方」というときかれは、天使を通してその向こうに坐す神に語りかけるのであり、また、天使が「いと高き方」というときそれは自分が神の言葉の代弁者であることを仄めかしているわけなのであります。
 抄が進むにつれて天使はいつしかエズラの前から姿を消し、かれは直接「いと高き方」と会話するようになる。それは神がエズラを認めたためでありました。既にエズ・ラ6:32にて神は、エズラを認めた旨ウリエルを通して述べております。
 いや、これがわかったら読むのが速くなったこと、早くなったこと。左は誤変換ではありません。
 ここで「創世記」のエピソードが出てまいりました。最後にそれを紹介して、感想の筆を擱きます。エサウとヤコブの話、であります。
 エサウとヤコブはイサクの双子の息子、アブラハムの孫にあたります。イサクの妻、〜から生まれてくるとき、エサウは先に生まれ出ようとするヤコブの踵を摑んで、生まれてまいりました。「踵」「手」とはこれを示すのであります。なお、創27にてヤコブは兄エサウに与えられる筈だった祝福を掠めとり、エサウはヤコブに復讐心を持ちながら、離れてゆきました。エサウはエドム人の祖。エドム人がその後、たびたびイスラエルに対して攻撃を加えるようになった根っこが、ここにありました。



 Twitterの文字数は理想的だ。140字でもじゅうぶん、奥行きと深みのある文章が書ける。そのためにはテクニックと語彙、構成力が必須だけれど。
 本ブログも140字で収まるよう意識して書くときがある。「簡素にして豊か」てふブラームスの音楽を評した言葉が脳裏を過ぎる。しかし、これがなかなか難しい。
 大岡信や竹内政明には敵わない。(139字)◆

共通テーマ:日記・雑感

第3359日目 〈エズラ記(ラテン語)第4章:〈天使の答え〉、〈人の思いと神の計画〉with労働とはなおざりにするべからざる<義>である。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第4章、「第一の幻」2/3です。

 エズ・ラ4:1-21〈天使の答え〉
 この世の罪についてのわが問いに答えたのは、天使ウリエル(神の前に仕える4大天使の1人)であった。
 天使が曰く、これから3つの譬えを、お前の前に提示する。1つでも解き明かせたら、お前が見たい道を示そう。邪な心についても教えよう。これが譬えである、──
 炎の重さを量れ。
 風の大きさを測れ
 過ぎ去った歳月を取り戻せ。 
──どうだ、お前が解き明かせる譬えはあるか。
 頭を振るよりなかった。それは無理です、と私は答える。斯様なことが人間に出来ましょうか。 
 それを聞いて天使がいった。曰く、──
 「あなたは、生涯自分にかかわりをもつ事柄さえ知ることができないのだ。それなのにどうしてあなたの力量で、いと高き方の道を理解できよう。腐敗した世にさえ恐れおののく者が、どうして不滅なものを理解することができようか。」(エズ・ラ4:10-11)
 わたしはその言葉を聞いて、ひれ伏した。そうして、いった。即ち、──
 神を畏れぬ不信心な者たちのなかで、私は生きています。それが為に苦しんでいるのです。しかし、私にはわかりません、この苦しみがどこから来るのか、と。こうも答えなき悩みに苦しむならば、いっそのこと、生まれてこなければよかったのだ、と思うのです。(※)
──と、私は天使に嗟嘆した。
 天使が海と山が争う譬え話をした。その最後に、天使がこういった。曰く、地上に住む者は地上のことだけを理解し、天上のものは天上のことを理解する、と。咨、人智の及ばぬ領域に汝、立ち入るを欲する勿れ。

 エズ・ラ4:22-52〈人の思いと神の計画〉
 高遠な道について尋ねたわけではないのです、と私はいった。なぜ神はイスラエルを見捨てたのか、どうして自分を敬い畏れもしない民に御自分の民を渡されたのか、どうして先祖の律法は滅び、書き表された契約は失われたのか、それを知りたいだけなのです。われらへ与えられた御名のゆえに、神はなにをなさるおつもりなのでしょうか。
 天使がいった。曰く、──
 正しい者たちに約束されたことをこの世は実現できないだろう。既に悪の種は蒔かれている。刈り取りの時期はまだ訪れていない。悪の種は世々にあまたの不信仰を実らせた。しかし、まだ刈り取りの時期は訪れていない。脱穀の時が来るまで、悪の種は不信仰を実らせ続けるだろう。
 不安になって、わたしは尋ねた。地上の者たちの悪ゆえに、義人の収穫が妨げられているのでしょうか。
 これを聞くと、天使がこう答えた。曰く、──
 陰府の魂が住まう場所がある。そこは審判を受けた魂が、死に至るまでの間待たされる場所。義人もそこにいる。世の始まりから預けられていた人たちが返されるとき、お前が見たいと望んだことが示される。
 それはいつのことになりますか、と私は尋ねた。まだまだ先でしょうか、或いは間もなくでしょうか。その日まで私は生き永らえられるでしょうか。
 天使が答えた。それはまだ先のことである。その徴について答えることはできる。が、お前の寿命についてはなにも知らない。為に答えることができない。

 途端に黙示文学らしい内容へ入ってきました。
 「エズラ記(ラテン語)」は1つのテーマに関して行きつ戻りつする傾向を持ち、この天使とエズラの問答も以後、変奏曲となって論点をずらしたうえで繰り返されてゆく。だんだんと奥義に近附いてゆく興奮と伴って高まりゆく敬虔さが、本書にはあります。
 この点に関しては心の隅に留めて、今後しばらく続く「エズ・ラ」読書のなかで確認、更なる理解に努めたく存じます。
 なお、内輪話めきますが、本章のノートをお披露目できる状態(いまお読みいただいているものです)へ持ってゆくまでに、ずいぶんと時間を要してしまった。といいますのも、<読書百遍、意おのずから通ず>を、結果的には実践したが為です。
 というよりも、何度も何度も読まないと、「いったいなにを仰っているのか?」がわからんからです。ここが正念場と思い、聖書を読み返し、参考文献を開き(余り役立つものはなかった)、文章を細々弄って時間を過ごし、1日で片附く仕事を5日かけて、いまお読みいただいた本文を作成した次第であります。やれやれ。
 また、過去に何度もあったことですが、新共同訳で読んでてさっぱり文意の通じぬ箇所が本章にもあり、その理解のために、現時点で最新の翻訳となる聖書協会共同訳に頼ってようやっと合点がいった箇所があったことを、告白しておきます。文中、※の箇所がそうであります。



 人間よ、労働せよ。父よ、労働せよ。夫よ、労働せよ。労働によって血の回りは良くなり、隅々まで注意が行き届き、肉体と精神と知力が鍛えられ、人は豊かになれるのだ。労働は等しく与えられた<義>である。この賜物を等閑(なおざり)にすること勿れ。汗せぬ者に災いあれかし。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3358日目 〈エズラ記(ラテン語)第3章;〈第一の幻〉、〈エズラの問い──この世の罪について〉withはっきりいう、続編を──〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第3章、「第一の幻」1/3です。

 「第4エズラ記」
 エズ・ラ:1-2〈第一の幻〉
 都が陥落して30年が経った頃、エズラこと私サラティエルは独りしバビロンに在った。胸騒ぎに怯える夜、種々の思いが心のなかを通ってゆく。シオンは荒廃し、バビロンは繁栄している。

 エズ・ラ3:3-36〈エズラの問い──この世の罪について〉
 私はおそるおそる主なる神に問いかけた。曰く、──
 自らに形を擬してアダムを作り、それに命を吹きこみ、あなたは人間を作った。アダムはあなたの掟を破り、楽園を追放されて、人間は罪を負う者、罪を犯す存在となった。
 あなたは地上に増えすぎた人間を、義人ノアとかれの家族を残して他は洪水の犠牲とした。ノアの系譜から幾人かの義人現ると雖も人々は変わることなく罪を犯し、重ね、あなたを顧みることもなくなった。
 やがてあなたはアブラハムを選び、愛し、慈しんだ。永遠の契約を結び、かれにイサクを与え、イサクにヤコブを与え、これにイスラエルという名を与えた。そうしてヤコブ/イスラエルの子孫は全地に満ちた。海辺の真砂の如く、その数は増えた。
 1人の指導者に導かれてヤコブの子孫がエジプトからシナイ山へ逃れた。そこであなたは民と契約を結んだ。「あなたは天を傾け、地を固め、世界を揺り動かし、深淵をおののかせ、世を震え上がらせました。あなたの栄光は火と地震と風と氷の四つの門を通り過ぎ、ヤコブの子孫に律法を、イスラエルの子らに掟をお与えになりました。」(エズ・ラ3:18-19)
 さりとてあなたは民の心から悪を消し去ろうとはせず、律法によってかれらの行動が善となるよう計らった。どうしてですか?
 アダムの時代からこちら、人は掟に背き、心に根ざした悪に打ち負かされてきた。いつの世になろうとも、弱さは人々のなかへ留まったのです。律法も悪の根を持つ心と一緒に、人々のなかへ留まりました。善は滅び、邪が残ったのです。
 ダビデの時代、あなたはご自分の御名のためにエルサレムの都を建てた。賜り物のなかから献げ物を供えさせ、奉献はながく行われた。が、都では罪を犯す人があとを絶たなかった。それゆえにあなたは敵の手に都を渡した。
 「わたしはそのとき、心の中で言いました。『バビロンに住む人たちは、わたしたちよりも善いことをしているのだろうか、それゆえ、彼らがシオンを支配するのだろうか』と。
 しかし、わたしはここに来たとき、数知れない神に背く業を見、この三十年間わたしの魂は、多くの罪人を見てきました。わたしの心はめいりました。罪を犯す彼らをどれほどあなたが耐え忍び、神に背く者たちを放任し、御民を滅ぼして御自分の敵を守っておられるかを見たからです。どのようにしてこの道を捨て去るべきかを、あなたはだれにも何も示されませんでした。いったいバビロンはシオンよりも善いことをしているのでしょうか。」(エズ・ラ3:28-31)
 わたしの疑問は尤もではありませんか? 試しにわたしたちと他の民族の悪を秤に掛けてみてください。どちらに傾くか、明らかでしょう。御前で悪を犯さぬ地上の者がありますか。われら程あなたの戒めを守る民があったでしょうか。個人単位ではいるかもしれませんが、民族全体で見た場合、われら以上にあなたの戒めを破ることなく暮らす民はないはずです。

 エズラの疑問(3:28-31)は尤もでありましょう。自分たちを滅ぼすぐらいなのだから、相手は自分たち以上に善い行いをしているはずだ、だからこそ神は自分たちを滅ぼす相手にかれらを選んだに相違あるまい。
 誰しも、何人に責任を帰すことのできないような理不尽な不幸に直面したとき、そんな風に考えるのが当然と思います。そうすることで自分の気持ちをなだめ、むりやりにも自分を納得させようとする。
 が、捕囚となって連れて来られたバビロンは、シオン以上に悪がはびこる地であった。少なくとも、エズラの目にはそう映った。どうして主なる神は御自分の民を此奴らの手に渡すようなことをしたのだろうか──?
 黙示文学としての「エズラ記(ラテン語)」が本章から始まる(第4エズラ記)ことを考え合わせれば、このエズラの疑問がすべての出発点となり、以後の天使を交えた問答と合間合間で挿入される幻視は皆ここで提示された疑問のヴァリエーション(変奏曲)というてよかろう、と思います。
 それが為、この第3章でエズラは、どうして自分たちがこんな目に遭ったのか、果たしてわれらが犯した罪/悪と他民族の犯すそれのどこに違いがあるのか、あるとすればそれはいったいどのような理由で差異が生じたのか、等々に関してイスラエルの歴史を踏まえて、表現を換え、言葉を尽くして、問い掛けるのでありましょう。
 どうせならあの大洪水のときに、自分が選んだ人たちの心から悪の根を絶ってくれれば良かったジャンか。そうすれば律法に縛られて生きることもなかったろうし、敵の手に渡されて異邦での生活を強いられることもなかったのに。──そんな愚痴さえ、向こうから聞こえてきそうです。
 本章以後も続くエズラの、愚痴とも非難とも思われる件りは「ヨブ記」を想起させませんでしょうか。ヨブが3人の友、或いは神らを相手に、答えなき問答を延々繰り広げる一連の場面を連想させるのです。
 と同時に「ヨブ記」と「エズラ記(ラテン語)」が、旧約聖書に収まる正典と続編を俯瞰したとき、神学論争を記録した数少ない書物であることに気附かされるのであります。論争、というのが大袈裟ならば、問答、が相応しいかもしれません。ユダヤ教の教典のみが神(とそれに従う者たち)と人の論争で成り立つ書物を持ち、キリスト教の教典(外典・偽典含む)になるとそうした構図を持つ書物が少なくなることはちょっと面白い現象だと思います。
 エズ・ラ3:1「都の陥落後三十年目」、同「わたしサラティエル、すなわちエズラ」については既に〈前夜〉でお話済みなので、割愛いたします。



 個人的なメモになりますが、第2章を書いて次の日に本章のノートを書く予定でした。ちょっと耳の調子が悪く本を読む気力も削がれたため休んで、翌日にこれを書いている。予定がさっそくズレてしまったわけだが、今後は1日1章の再読とノート、という予定を可能な限り狂わせることなく、スケジュールを消化してゆきたいと思うています。

 はっきりいう。続編を成す書物のうちでいちばん読み応えあり、頭悩ませつつも読書という行為によってもたらされる知的悦楽を堪能できることこの上ないのは、本書「エズラ記(ラテン語)」である、と。贔屓の引き倒しに非ず。冷静な目で全巻を眺め渡したときの偽らぬ感想だ。
 はっきりいう。続編を蔑ろにしたり、これを等閑視するものは呪われろ。この部分あってこその聖書だろう。むろんあなたがカトリックに於ける第二正典も、いわゆる外典も認めぬ立場、認めぬ教会の牧者であるならば話は別だ。蔑ろにするも結構、等閑視するのも結構。人皆それぞれに立場や信条がある。が、わたくしはそうは思わぬ、ゆえに斯く申すのだ、というだけ。
 「エチオピア語/スラブ語エノク書」や「第4バルク書」、「第3/第4マカバイ記」があれば更に嬉しさは倍増。だが、書誌にも都合があろう;分厚くなる(≒重くなる)=高価になる、だから。新共同訳が「エズ・ラ」や「マナセの祈り」を収録してくれているのは幸い事に属するのだろう。
 他の外典はどうなのか? とあなたは訊くか。では、はっきりいう。併せて読め、と。──がんばって。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3357日目 〈エズラ記(ラテン語)第2章;〈エズラへの主の言葉〉2/2、〈ホレブの山のエズラ〉&〈シオンの山のエズラ〉with言葉は災いも招くのだから。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第2章です。

 エズ・ラ2:1-32〈エズラへの主の言葉〉2/2
 斯様な次第でわたしはわたしの民を捨てる。かれらを生んだ母の嘆きを聞け。喜び持てかれらを育てたにもかかわらずかれらを悲痛と悲嘆のなかに失う母の嘆きを聞け。
 お前エズラは証言せよ。かれらが父の契約に背き、母を悲痛の極みへ追いこんだことを。かれらはそれゆえ異邦人のなかに散らされる。
 エズラよ、わたしの民に告げなさい。わたしはイスラエルに与えた栄光を、イスラエルに与えるはずだった王国を、用意しておいた永遠の幕屋を、わが民から取りあげ、わたしの言葉に聞き従う者たちに与える、と。
 わたしの言葉に聞き従って生きる者はそのとき、命の木が薫らせる香油の香りに包まれ、労苦から切り離されて生きる。かれらのなかにはわたしの名が刻まれている。それゆえかれらは死して後よみがえる。
  捨てると決めたわが民よ、「お前たちは行って王国を受けよ。わずかな日々が、更に短縮されるように願え、王国は既に、お前たちのために用意されている。目覚めていよ、お前は天を呼び、地を呼んで証人とせよ、わたしは悪を消し去り、善なるものを作った。」(エズ・ラ2:13-14)
 ──母なるエルサレムよ。お前の許へわが助け手として、2人の預言者を遣わす。その者の名は、イザヤとエレミヤという。わたしはかれらの預言を成就させる。
 母なるエルサレムよ。お前を聖別して、たわわに実をつける12の木々と乳と蜜の流れる12の泉、バラとユリが咲き誇る7つの大きな山を、お前のために用意してある。お前の子供たちを喜びで満たすために。お前にもやがて休息の時が来る。
 「動揺してはならない。圧迫と苦難の日が来て、人々が嘆き悲しむとしても、お前は喜々として、豊かでいられる。異邦人がねたみを起こしても、お前に対しては何もできないだろう。」(エズ・ラ2:27-28)
 「永眠したお前の子供たちを思い出せ。わたしは地の隠れ家から彼らを連れ出して、かれらに憐れみの業を行おう。わたしは憐れみ深い神」(エズ・ラ2:31)であるから、お前は「わたしが来るまで、お前の子供たちを抱き、彼らに憐れみを告げよ。わたしの泉は絶えずわきいで、恵みは尽きることがないから」(エズ・ラ2:32)だ。

 エズ・ラ2:33-41〈ホレブの山のエズラ〉
 私エズラは主から命じられてホレブの山へ行った。が、イスラエルの民は私を拒み、主の言葉、主の言いつけを軽んじた。
 私は溜め息した。そうして異邦の民に向けてこう語らざるを得なかった。曰く、あなたたちの牧者を待ち望みなさい、夜の終わりに現れるその牧者はあなたたちに永遠の休息を与える。その牧者はすぐそこまで来ている、と。続けて、──
 「わたしは救い主を公に証しする。主が指名された者を受け入れなさい。あなたたちを天の国に招いてくださった方に感謝して喜びなさい。」(エズ・ラ2:36-37)
──と。
 あなたがたよ、主の御国の到来を願え。
 私エズラはホレブの山で、そういった。

 エズ・ラ2:42-48〈シオンの山のエズラ〉
 私エズラはシオンの山に集うおびただしい数の群衆を見た。よく見るとかれらは皆、主を讃える歌をうたっている。かれらの真ん中には背の高い若者がいた。群衆の1人1人の頭に冠をかうえ、棕櫚の葉を手渡していた。
 私は天使に問うた。かれらは誰か、と。
 天使は私に答えた。かれらは死すべき衣を脱ぎ捨て不死の衣に着替え、主の御名を告白した者たちである、と。
 私は天使に問うた。真ん中にいる若者は誰か、と。
 天使は私に答えた。真ん中にいる若者はかれらがこの世で告白した神の御子である、と。
 かれらは主の御名のために迫害に耐え、信仰に留まった人たちであった。
 天使が私にいった。エズラよ、行って、あなたが見た主の御業の素晴らしさをわたしの民に告げなさい、と。

 主なる神はアブラハムの末裔であるイスラエルを見捨て、そのなかから自分の言葉に聞き従う敬虔なる者たちを生別する。それが即ち、キリスト者でありました。主が王国を与えよう、と宣言する相手は、もはやイスラエル──本書が執筆された時代から見れば、ユダヤ教を信奉するユダヤ人をいいます──ではなくキリスト者だったのであります。
 既に〈前夜〉でお話したように、本書の第1章と第2章は、西暦100年前後に加えられたキリスト教文書(「第5エズラ記」)です。為、キリスト者が重んじられるのは当然のことでありまして、ユダヤ教の教典ではない新約聖書の外典、第二正典、と呼ばれる書物ならではの信徒の扱い方と申せるでしょう。
 〈シオンの山のエズラ〉の描写は、それを露骨に表現した部分と思います。群衆はキリスト者であり、若者はキリストその人に他なりません。
 余談ですが、神や天使のような次元の違うところにいる存在の一人称は「わたし」、この世の者であるエズラについてはそれを「私」、と表記しております。混乱を避けるための処置であることをご承知置きください。



 捨てると決めたわが民よ、と神なる主は呼びかける。怖い言葉ですね。社会人は口が裂けてもいえません。いいたいけれど、いった先の未来を想像すると、いわずに呑みこむが吉。ほんま、口は災いの元やで。喉元まででかかったその言葉、口に出してしまって問題ありませんか?◆

共通テーマ:日記・雑感

第3356日目 〈エズラ記(ラテン語)第1章;〈エズラの略歴〉、〈エズラへの主の言葉〉1/2with吉川忠臣蔵、読書再開。〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 エズラ記(ラテン語)第1章です。

 「第5エズラ記」
 エズ・ラ1:1-3〈エズラの略歴〉
 預言者エズラはアロンの家系に列なる祭司である。ペルシア王アルタクセルクセス王の御代、エズラはメディア人の地で捕囚となっていた。

 エズ・ラ1:4-40
 わたしはイスラエルの民の主である。わたしはエズラを預言者に立てて、わたしの言葉を預ける。エズラよ、行って民に伝えよ。即ち、──
 お前たちは先祖よりも多くの罪を犯し、わたしを忘れた。異民族の神を崇め、献げ物をささげ、わたしの目に悪と映る行いにばかり耽ってわたしを顧みようとしなかった。エズラよ、行ってわが民に災いを投げつけよ。わたしに律法にかれらが従おうとしなかったからだ。
 わたしはお前たちに、エジプトを脱出する算段を授けた。割れた海を逃れて荒れ野に入り、飢えれば水と食べ物を与え、カナンへの途を示した。しかしお前たちはわたしの戒めを守らず、わたしの言葉に耳を傾けなくなった。
 「だから、わたしはほかの民のところへ移り、彼らがわたしの戒めを守るように、わたしの名を彼らに与えよう。お前たちがわたしを捨てたので、わたしもお前たちを捨てよう。」(エズ・ラ1:24-25)
 わたしはお前たちがわたしの民となり、わたしがお前たちの神となることを願った。それゆえにわたしはお前たちを集めた。しかしいまとなっては、もはやお前たちにわたしができることはない。献げ物からは目を背けよう。嘆願に耳を傾けるのを止めよう。祝祭日と新月と割礼を拒んだ民である、お前たちは。
 遣わした預言者たちをお前たちは殺めた。大地に血を流したわたしの預言者たちの血のゆえに、わたしはお前たちに復讐を果たそう。
 お前たちの家は荒れる。余所から来た民が、わたしに代わって復讐を果たす。かれらはわたしを知らずともわたしの意思を実現し、かれらは預言者を知らずとも預言者の言葉を心に留める。わたしは余所から来たかれらへの恵みを保障する。それゆえにかれらはわたしを知らず、見ずともわたしの語ったことを霊によって信じるであろう。
 エズラよ、誇りを持って目を挙げ、東から来る民を見るがよい。わたしはかれらに、歴代の預言者を指導者として与えよう。

 「東から来る民」とは、帰還する捕囚民を指す由。これによって神は新しく、自分の民を約束された地に集める、というのです。旧約「エズラ記」と絡めて読むと深い意味を持って迫ってくる、ふしぎな力のある一節といえるでしょう。
 むろん、「エズラ記(ラテン語)」のこのパートは、〈前夜〉でもお話したように「第4エズラ記」をキリスト教文書へ取りこむための後代の加筆でありますから(もっとも、最初から別文書として存在していたものを、加筆・修正のうえ合本化した可能性もあるわけですが)、絡めて読むというても若干なりとも引っ掛かりを感じてしまうのは事実でありますが。
 これまでイスラエル/ユダが繰り返し、飽きることなく犯してきた数々の罪、咎、不義に、神の怒りは爆発した。その頂点が北と南の王国の滅亡であり、ディアスポラであり、捕囚であった。それはおよそ民にとっては世界の終わりに等しかったに相違ありません。
 本章で神がエズラに託した怒りの言葉は、それを踏まえての言葉と思えます。つまり、過去形の怒り、であります。本稿では最後の2行がむしろ、希望というか、せめてもの慰み、といえるのでしょう。



 吉川英治『新編忠臣蔵』ですが、読書を再開できました。通勤時間が削られるのは喜ばしいことかもしれませんが、読書の面からいえばひとえに困りものでしかありません。加えてその通勤経路──利用駅にスタバがない、程良く空いた喫茶店の類もない、となれば尚更でしょう
 ともあれ、ずいぶんと離れていたはずなのに、すっ、と入りこんでゆける(戻ってゆける)のは、こちらがずっとその世界を意識に上していたせいか、或いは/もしくは物語の吸引力、語りの力なのか。判断に悩みます。
 先程、赤穂城明け渡しの朝を迎えた場面。ペースは上がってきた。一刻も早くこのまま下巻へ突入して、真山青果『元禄忠臣蔵』や旺文社文庫の忠臣蔵アンソロジーまで読み進たい。真山忠臣蔵を読むことで久しぶりに(シェイクスピア以外の)戯曲を読む愉しみを味わえそう。
 ……となると、今年前半は藤沢周平読書マラソンの再開は難しいか……。◆


新編忠臣蔵(一) (吉川英治歴史時代文庫)

新編忠臣蔵(一) (吉川英治歴史時代文庫)

  • 作者: 吉川 英治
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1990/10/04
  • メディア: 文庫



新編忠臣蔵(二) (吉川英治歴史時代文庫)

新編忠臣蔵(二) (吉川英治歴史時代文庫)

  • 作者: 吉川 英治
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1990/10/04
  • メディア: 文庫



元禄忠臣蔵 上 (岩波文庫)

元禄忠臣蔵 上 (岩波文庫)

  • 作者: 真山 青果
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1982/08/16
  • メディア: 文庫



元禄忠臣蔵 下 (岩波文庫 緑 101-2)

元禄忠臣蔵 下 (岩波文庫 緑 101-2)

  • 作者: 真山 青果
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1982/09/16
  • メディア: 文庫




共通テーマ:日記・雑感

第3355日目 〈「エズラ記(ラテン語)」前夜〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 旧約聖書外典とされながらカトリックでは第二正典と扱われず、プロテスタントでも退けられている「エズラ記(ラテン語)」(以下、「エズ・ラ」)でありますが、ギリシア語訳からラテン語に重訳された本書は長く中世のカトリック教会では読まれてきた書物でありました。「正典とは認めていないけれどそれに準ずる書物」という受け取られ方だったようです。
 今日では新共同訳と聖書協会共同訳に「続編」の1冊として読むことのできる「エズ・ラ」ですが、これを取りあげた研究書や概説書は数多あれど所謂註解書の類を持たぬことが、余り読まれていない最大の理由なのかな、と思います。依拠するに足るのが此度の再読テキストに採用した『旧約聖書続編 新共同訳 スタディ版』(以下、『スタディ版』)だけとあっては読者層の広がりは到底望み得ぬことではあるまいか、などと心配になってしまいます。
 前置きはこのぐらいにして、それでは「エズ・ラ」とはどのような書物なのか? 誰が、いつ、どこで書いたものなのか、簡単ながらお話しようと思います。
 まずお伝えしておかねばならぬのは、「エズ・ラ」が3つの書物で構成されていることであります。第1-2章は「第5エズラ記」、第3-14章は「第4エズラ記」、第15-16章が「第6エズラ記」とそれぞれ呼ばれている。中核を成す「第4エズラ記」が最も古く成立して、「第5エズラ記」と「第6エズラ記」は後代に執筆、補われた部分とされます。
 誰が、いつ、どこで、という問題について私見も交えながら書きますと、以下の通り。まずは「第4エズラ記」から、──
 「第4エズラ記」は別に「第二エスドラス書」とも呼ばれますが、これの執筆時期は、エズ・ラ3:1「都の陥落後三十年目のこと」を根拠に、66-70年のローマ帝国とユダヤの間に勃発した<第一次ユダヤ戦争>から30年後、即ち100年前後の執筆と考えられております。
 エズ・ラ10:21-23はローマ軍がエルサレムに侵攻して神殿を破壊したり、住民が虐待、殺人、暴行、連行、略奪されたことを、かなり直接的に綴っていることから、本書の著者は当時、エルサレムの陥落、第二神殿への放火・焼失を目撃した人物であったろう、と秦剛平は『旧約聖書続編講義』で指摘する(P296 リトン 1999/11)。
 ではその著者とはいったいどのような人物(どこの誰、ではなく)であったか、ですが、律法に精通していることや、本書が律法にまつわる諸問題(律法と信仰のせめぎ合い、など)がかなりの比重を占めていることからファリサイ派、しかもディアスポラではなくエルサレム在住のラビであったろう、と考えるのがいちばん自然な結論であるように思えます(ファリサイ派についてもずっと予告しております手前、早く書かなくてはなりませんね)。
 ラビはユダヤ教の聖職者のこと。聖書と口伝律法の註解者であることから特に「学僧」の側面が強い存在といえましょう。ハリイ・ケメルマンにラビを主人公にした推理小説のシリーズがありました。
 「第4エズラ記」はこのラビが諸国のユダヤ人社会──ディアスポラのユダヤ人たちの共同体──を行脚して回り、同胞の信仰が神から離れてゆくばかりなのを嘆いた(エズ・ラ3:33「わたしは諸国を経巡り、あなたの戒めを心に留めていないのに繁栄している人々を見ました。」)ことが、本書執筆の根っこになったでありましょう。
 実際に「エズ・ラ」、「第4エズラ記」を読んでおりますとこのあたりの根っこが転じて、どうして神は自分の民を敵の手に渡したのか、不敬虔な者がなぜこの世を謳歌しているのか、どのような罪を背負ったがゆえにイスラエルは救われぬ存在となっているのか、という、「第4エズラ記」で頻出する疑問とその導き──エズラ/サラティエルと天使ウリエルもしくは主なる神との問答──につながっているようであります。
 わたくしは前段で、「エズラ(サラティエル)」と書きました。これを出発点にして本書が孕む問題点を洗い出してみましょう。問題点とは、後述の「第5エズラ記」と「第6エズラ記」を前後に補完して「エズ・ラ」がキリスト教文書化された際の加筆、もしくは書き直しと思われる箇所で、2点あります。即ち、──
 ①エズ・ラ3:1「わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた」
 ②エズ・ラ7:28-29「すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、……その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ」
──であります。
 ①に関してはこのようなことがいえるのではないでしょうか。つまり、本来「第4エズラ記」はサラティエルなる人が書いた、もしくは執筆者に擬えた人の手に成る。そうして、キリスト教文書化の際その作業にあたった人──荒廃したエルサレム復興に尽力したエズラに憧憬を抱くか、或いはかれによって再度エルサレムが輝かしい都として壮麗な姿を取り戻すことを願った誰かの手によって、斯様な加筆(わたしエズラ)、が行われた、と。
 ②について作業を行ったのが「第5エズラ記」の著者なのか、「第6エズラ記」の著者なのか、或いはまったく別の人物なのか定かでありません。しかし、「イエス」も「キリスト」も皆さんご承知のようにキリスト教の重要単語であります。イエスは勿論キリストもユダヤ教の単語ではない。
 ユダヤ教に於いて「キリスト」に該当する単語は「メシア」であります。共に「救世主」、「救い主」の意味ですが、ユダヤ教では「キリスト」という単語ではなく「メシア」という単語がその役を担う。問題の箇所は本来2箇所とも、「メシア」と書かれていたのでありましょう。それがキリスト教文書化するにあたって件の箇所も斯く書き換えられた、それがそのまま今日に伝わっている──そう考えるのが最も可能性の高いところではないでしょうか。
 もう一点、「第4エズラ記」はその結末部分を欠くが同書のオリエント諸語訳にはそれがあることをお伝えしておきます(エズ・ラ14:48-50)。当該章の感想でそれを述べておきました。
 「第4エズラ記」については以上であります。次に「第5エズラ記」と「第6エズラ記」ですが、これはもうちょっと簡単にお話ができそうです。まず「第5エズラ記」(エズ・ラ1-2)から始めます。
 これの執筆時期ですが、(新約聖書に収まる)共観福音書や「ヨハネの黙示録」の引用が目立つので、それらが成立した時代から然程離れていない時期に書かれたのではないでしょうか。
 では共観福音書と「ヨハネの黙示録」の成立時期はいつなのか、ということですが、これはかつてわたくしがそれぞれの〈前夜〉にて述べたものがありますのでそれを踏まえて申しあげれば、「マルコ」は<第一次ユダヤ戦争>終結から数年後、「マタイ」は80年代初頭、「ルカ」は80年代から90年代に(「使徒言行録」よりも前に)、「黙示録」は90年代に、それぞれ執筆されたようであります。──ここから導き出される「第5エズラ記」の推定執筆時期は「第4エズラ記」と同じ時期(100年前後)、もしくはそれ以後、と考えるのが無難でありましょう。
 誰が書いたか、ですが、上記を踏まえれば2世紀キリスト教会の誰彼であったろか、ぐらいしか考えられないのが正直なところであります。
 といいますのも、「第5エズラ記」には共観福音書や「ヨハネの黙示録」を援用している部分が多いのですが、別々に存在していた「第4エズラ記」と「第6エズラ記」を合本してキリスト教文書へ仕立てあげるにあたり、その露払い的文書、序章のような役割を持って書かれたのが「第5エズラ記」かもしれないてふ疑いを、読み手としては拭えないからであります。
 ちなみに、共観福音書と「ヨハネの黙示録」の表現、論法を踏まえた箇所ですが、当該章の感想に反映させられなかったのでここで記しておきます。以下のようになります、──
 エズ・ラ1:30→マタ23:37
 エズ・ラ1:37→ヨハ20:29
 エズ・ラ2:35→黙21:23-25並びに同22:5、併せてイザ60:19-20
 エズ・ラ2:42→黙7:9
──と。他に「出エジプト記」や「申命記」、「詩篇」や上述の如く「イザヤ書」などを連想させる文章、表現もございます。
 最後に「第6エズラ記」。
 執筆時期を推定させる材料が本書には潜んでおります。ここから執筆時期が推測できましょう。つまりエズ・ラ15:29-33に「アラビアの竜の民」とカルモニア人の戦いの描写がある。「アラビアの竜の民」はパルティア国のオダエナトゥス率いるパルティア軍、カルモニア人は旧アッシリアの領民、アッシリア帝国を構成する一民族と考えられます。
 この戦いは3世紀中葉──既に「終わりの始まり」がゆるやかに進行していた〈危機の3世紀〉──、ローマ帝国の周縁領地が、東から北から、蛮族に攻めこまれて防御で明け暮れた時代の極地紛争の1つであります。ローマにとっては東の防衛戦を死守する意味で重要な戦いにもなりました。にもかかわらずローマ帝国は自国の主戦力を東方へ割くことが不可能だった。北から攻めこむゲルマン族との攻防に戦力を注入せねばならなかったためであります。
 この戦いを記録した「第6エズラ記」の成立はその紛争以後、即ち3世紀終盤から4世紀初頭と考えて良かろうと思います。
 これの執筆者ですが、上述の時代を生きたユダヤ教徒と考えるのが大勢のようであります。ん、ユダヤ教徒? キリスト教徒、ではなく? 然り、ユダヤ教徒、と考えるのが大勢の様子。というのも「第6エズラ記」は「第5エズラ記」程にはキリスト教、今日でいえばカトリック教会ですが、の教理が余り反映されていない点があげられる由(秦 P308)。
 従って「第6エズラ記」は「エズ・ラ」を構成する3つの文書のなかでいちばん遅く成立したことになりますので、必然的に「第4エズラ記」のキリスト教文書化も「第6エズラ記」成立と同時代かそれ以後となり、それは即ち「エズ・ラ」の成立は同じ時期か少し遅れての時代になる、ということでもあります。
 要するに、こういうことです。ユダヤ教の黙示文学として伝わった「第4エズラ記」とキリスト者による「第5エズラ記」が余り変わらぬ時期に書かれて別々に存在してきたが、3世紀後半から4世紀初頭に「第6エズラ記」が成立して先行する「第4エズラ記」をキリスト教文書として取りこむ際、「第5エズラ記」と「第6エズラ記」が前後に補完されて今日見る「エズ・ラ」になった、と。成立史を乱暴にまとめれば、こうなると思います。
 「エズ・ラ」を構成する3つの文書について書いていたら、例によって長くなってしまったことをお詫びいたします。最後に、本書が教会やキリスト者の間でどのように受け取られてきたか、述べておきます。
 キリスト教文書化された「エズ・ラ」はその後、カトリック教会では第二正典になれなかったけれど広く読まれました。その内容が終末の予告のみならず、原罪の在処とそれゆえの人間が背負う罪の重さや、救われる存在になるため信徒はどのように現世を生きれば良いか、など如何にも信徒を導くに格好の教えがそこに記されていたからでありましょう。ただ、当該章の感想でも触れますが、第7章の要となる「代願の不可能なこと」は教理を否定するせいか写本が作られる過程で削除され、長くその存在を知られることがありませんでした。
 個人的なことをお話すれば、わたくしは──かつて読書に難渋した経験があるから尚更なのかもしれませんが──この「エズ・ラ」が大好きです。2014年12月15日からクリスマスまでの間に読んだときは「一寸先は闇」の状態で読んでいたけれどその後、『スタディ版』が刊行された際真っ先に飛びついたのは他ならぬこの「エズ・ラ」通読のためでした。
 そうして此度の再読を終えて一言させていただくと、「エズ・ラ」はたしかに黙示文学というに相応しい書物ではあるけれど一方で、主なる神による裁きや終末の予告が倩並べ立てられたあとでもたらされる、ほのかに射す希望の曙光のあたたかさ、慈悲深さ、厳しさのなかの優しさ、を感じられる点にこそわたくしが本書を握玩する理由はある、ということであります。
 まだまだいい足りぬ部分もあるような気がいたしますが、このあたりで筆を擱きます。
 それでは明日から1日1章の原則で、「エズラ記(ラテン語)」を読んでゆきましょう。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3354日目 〈YouTubeで懐かしの洋楽を視聴しよう!(その5)〜ベリンダ・カーライル”輝きのままで(Leave A Light On)”〉 [日々の思い・独り言]

 毎週のようにTVKの洋楽番組を観ていた。お小遣いもアルバイト代もたかがしれている高校生にとって、EPもLPも吟味に吟味を重ねたうえで購入するものであったから、『SONY MUSIC TV』や『ミュージックトマト』、テレ朝『ベストヒットU.S.A』は海彼の未知のアーティストを知る限られた手段であった。勿論、FM放送は除いている。本稿はあくまで映像のお話なのだ。
 1989年である(らしい)。ボンヤリ観ていた『SONY MUSIC TV』で1人の女性アーティストの新曲MVが流れた。釘付けになった。耳が、ではない、目が、である。本稿は。ずっと活動していた人であったが未知未聴、未見の人であった。名前をベリンダ・カーライル、という。かつてGO-GO’Sでヴォーカルを務めた女性。
 そのとき流れたのは「Leave A Light On」。ソロに転進して3枚目のアルバム、《Runaway Horses》(1989)の劈頭を飾る曲であった。邦題は「輝きのままで」。それが同時にアルバムの邦題ともなった。
 綺麗だな、と思うた。カッコいいな、とも思うた。チャーミングな人だな、と思うた記憶もある。若手ハリウッド女優たちからは感じたことのない<大人の女>の色気があった。アンニュイさとスタイリッシュさが奇妙に混同した映像にも魅せられた。そうして当時の印象は、世紀が変わった今日でも実は大した変化を見せていない。
 とまれ、わたくしはその瞬間にベリンダ・カーライルのファンになり、FM誌をチェックして彼女の歌が流れる番組は軒並みエアチェックして、時に編集も厭わなかった。前述したアルバム《輝きのままで/Runaway Horses》が発売されて間もない時分のことだから当然、このアルバムからピックアップされた数曲──即ち、「Leave A Light On」同様MVが作られてテレヴィの洋楽番組で流れた曲──が専ら流れたけれど、次いで多かったのが前作、2枚目のアルバム《Heaven On Earth》の冒頭に収められた、ベリンダ・カーライルという歌手がGO-GO’Sの呪縛を断ち切って1人の女性シンガーとして地歩を固めた曲、「Heaven Is A Place On Earth」であった。こちらはいまでも1980年代の洋楽コンピレーションアルバムには収められる時代を代表する曲でもある。余談となった。先を急ごう。
 とはいえ、わたくしが《輝きのままで/Runaway Horses》を購入したのはこの年ではなく、翌る1990年であったように記憶する。しかも、ほぼ同じタイミングで輸入盤と国内盤を両方とも購うということを初めて行った洋楽アルバムでもあったのだ! 正直なところ、どうしてこのような行為に及んだのか不明である。まァ、春の陽気に浮かれたのだろう。そういうことにしておこう。
 彼女がGO-GO’Sというガールズ・バンドのヴォーカルだったことを知ったのは、《輝きのままで/Runaway Horses》国内盤に添付されたライナーノーツによってである。実際にGO-GO’Sのアルバムを聴くことになるのはそれから何年経ってのことか忘れたけれど、1991-1994年の間であったはず。初めて聴いたGO-GO’Sのアルバムが2枚目の《Vacation》であったことは確かである──序でにいえばそれは買ったのではなく、都内の区役所の視聴覚室から借りたあまり傷のないLPであった……なんだか懐かしいな。
 ──久しぶり、というか2年7カ月ぶりの「YouTubeで懐かしの洋楽を視聴しよう!」だが、今後も耳の調子がすこぶる調子の良い頃を見計らって書き溜めてゆければ、と思う。未定稿を補訂のうえここにお披露目することもあろう。実は本稿もその1編である。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3353日目 〈田中河内介は最強クラスの怪談ですね。〉 [日々の思い・独り言]

 言葉の由来が気になって、手持ちの辞書を総動員し、図書館へ籠もって調べる時期が、その昔あった。為、『氷菓』千反田える嬢の台詞でお気に入りの1つが「ところで『キナ臭い』の「きな」ってなんでしょうね?」なのだ、というても、ああ成る程、と納得してもらえるように思う。
 ……まこと、好奇心は知識を獲得する原動力だ。時に人の憎しみを誘い、怨恨の連鎖に巻きこまれることありと雖も、好奇心は人を駆り立てる。田中河内介から寺田屋騒動に興味を持ったらば、教科書や用語辞典を繙き概略を得、関心あらば根掘り葉掘り調べてもよろしかろう。
 が、その作業をしていてどうあっても、田中河内介に帰り着くならば、……これはもうやはり、河内介の祟りがまるで関係ない人にまで及んでいるンじゃぁないか、と不気味な想像が働く。
 語っても聞いても祟られる、とは『残穢』の一節と記憶するが、わたくしは田中河内介の話を読んでいるといつも『残穢』を想起してしまう。意外な偶然や祟りと呼ぶべきが意外な形で派生して連鎖する、それがいつどのような形であらわれるかは露しれず、その系譜もいつまで続くかいつ途絶えてくれるか皆目不明、とあればこの両者、『四谷怪談』の血を引く最強クラスの怪談の1つということができそうだ。◆


文藝怪談実話―文豪怪談傑作選・特別篇 (ちくま文庫)

文藝怪談実話―文豪怪談傑作選・特別篇 (ちくま文庫)

  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2008/07/09
  • メディア: 文庫




共通テーマ:日記・雑感

第3352日目 〈初代円朝『怪談乳房榎』が読める。〉 [日々の思い・独り言]

 怪談落語の雄といえば、六代目三遊亭圓生である。三遊亭、つまり三遊派は初代三遊亭圓生を祖として今日まで錚々たる実力者をいつの世代にも輩出した、文化年間から令和まで続く名派。此度ご紹介する初代三遊亭円朝は六代目圓生から遡ること60年以上前にお江戸は湯島で産声をあげた。
 三遊亭円朝は従来の人情噺のみならず、自身創作の筆を執って高座へ掛けた人。創作落語で最も有名かつ代名詞なのが怪談噺、つまり『真景累ヶ淵』、『怪談牡丹灯籠』と『怪談乳房榎』だ。
 名作ゆえにこの3作、これまで何回となく各出版社から活字本が出版されてきた。ちかごろも2018/平成30年06月と07月、角川ソフィア文庫で刊行された。これ以前には岩波文庫で『牡丹灯籠』を除く2作が読めた。筑摩叢書の『円朝怪談集』では『怪談牡丹灯籠』と『怪談乳房榎』が収められていた(筑摩叢書87 筑摩書房 1967/08)。
 学生時代に古本屋で購った『怪談累ヶ淵』は岩波文庫で、『怪談牡丹灯籠』と『怪談乳房榎』は筑摩叢書版で、ずっと大切に読んできたが、破損も目立ってきたので、角川ソフィア文庫版の登場には喝采をあげたものだ。これで円生の名作怪談を、同じ文庫で読むことができる。それになによりフォントの大きいことがうれしい。物語への没入度を考えた場合、活字の大きさは大切な問題だから──。
 でもこのたび、いま頃ではあるがようやっと角川ソフィア文庫を購入したので、改行されていることの安心感、それに伴う版面の余白の心地よさを噛みしめながら、殆ど15,6年ぶりの『乳房榎』読書を愉しんでいる次第。
 ──岩波文庫の怪談でもう1作、角川ソフィア文庫からの出版を期待したいのが、四世鶴屋南北の傑作、『東海道四谷怪談』である。
 先日、NHK教育「古典芸能への招待」にて放送された片岡仁左衛門・坂東玉三郎38年ぶりの共演となった歌舞伎座での舞台(2021/06)と、BS松竹東急にて放送された「コクーン歌舞伎」で上演された『東海道四谷怪談・北番』(2006/04)をそれぞれ観て読みたくなったのだが、河竹繁俊校訂の岩波文庫版もかなりくたびれてきた。そろそろ世代交代が行われても良いのではないか。そんな点も含めて角川ソフィア文庫はこちらも新しく出版してもらえまいか、と嘆願する。◆


真景累ケ淵 (角川ソフィア文庫)

真景累ケ淵 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 三遊亭 円朝
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/06/15
  • メディア: Kindle版



怪談牡丹燈籠・怪談乳房榎 (角川ソフィア文庫)

怪談牡丹燈籠・怪談乳房榎 (角川ソフィア文庫)

  • 作者: 三遊亭 円朝
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2018/07/24
  • メディア: 文庫



名作 日本の怪談 四谷怪談 牡丹灯籠 皿屋敷 乳房榎 (角川ソフィア文庫)

名作 日本の怪談 四谷怪談 牡丹灯籠 皿屋敷 乳房榎 (角川ソフィア文庫)

  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2013/07/11
  • メディア: Kindle版



新潮日本古典集成〈新装版〉 東海道四谷怪談

新潮日本古典集成〈新装版〉 東海道四谷怪談

  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/12/24
  • メディア: 単行本



東海道四谷怪談 (岩波文庫 黄 213-1)

東海道四谷怪談 (岩波文庫 黄 213-1)

  • 作者: 鶴屋 南北
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2022/04/07
  • メディア: 文庫




共通テーマ:日記・雑感

第3351日目 〈未来を模索しよう。〉 [日々の思い・独り言]

 旧約聖書「箴言」にある、「働くものの渇望が、自分のために働く」(16:26)と。渇きを癒やすために人は働く。
 好い言葉ではないか。企業側には願っても見ぬ人材あらわる、だ。目的はどうあれ、目の前に好物をぶら下げられたら、それを手に入れるため仕事に励むのは当然だろう。が、それは世情はどうあれ相応に安定した人生を送れる環境にある人ならば、てふ前提あってのこと。
 昨日04月05日、ウクライナ避難民が政府専用機で到着した。テレヴィに映るかれらの顔には、安堵と疲労と不安が混じりあった色が浮かんでいる。言葉も習慣も異なるかれらが、兎角この、その実排他的で保守的な国でどう生きてゆくのか。
 来日しても日々の糧は自分で得なくてはならないのだ。先の「箴言」はこう続く、「彼の口が、彼を駆り立てるからだ」と。食べるために働く、生きるために働く、という意味だ。
 IS、過激派組織”イスラミック・ステイト”の振る舞いが国際世論で非難された頃だ。日本でもイスラム教徒へ、無知に端を発した心ない言葉と暴力が浴びせられた。まるで無関係の人々が、イスラム教徒、というだけで差別され、石つぶてを投げつけられた。生活の基盤を失って母国へ帰った人もいる。わが日本語の教え子はそのひとり。
 かつて古代守はいった、「俺たちは異星人とだって理解し合える」と。その弟、進は、「それでもどちらかが始めなければ。引き金を引かないという道を選ぶことを」といった。
 アニメだからとて一笑に付すな。この2つの台詞に、ウクライナから逃れ来たった人々と侵略されることも国外避難する経験も持たないわれら日本人のあるべき未来、あらまほしき結びつきを見ることは出来ないか。無理か? 考えろ、行動しろ、覚悟を示せ。
 「箴言」の同じ章にはこんなビリリとした対句もある。「荒々しい人はその隣人をそそのかし、/よくない道へ導く。」(16:29)──どこかにいなかったか、侵略を正当化し、隣国を巻きこんで邪な竈の蓋を開いた奴が。
 しかし、こんな希望を感じさせる文章が、旧約聖書にはある。「歴代誌」下の、終わり近くの一文だ。曰く、「こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた」(代下36:21)と。国外への避難を余儀なくされたウクライナの人々がバビロン捕囚民のように晴れて父祖の地へ還ることのできる日が早く来ますように。祈ろう。◆

箴言16:26:旧約聖書翻訳委員会役
箴言16:29:フランシスコ会訳聖書
古代守:宇宙戦艦ヤマト2199 第7章〈そして艦は行く〉(00:39:52-56)
古代進:宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち第7章〈新星篇〉(00:14:29-37)
歴代誌・下36:21:新共同訳

共通テーマ:日記・雑感

第3350日目 〈好奇心を失わない。〉 [日々の思い・独り言]

 知らなかったことを知る、調べて己のなかに蓄える。それが喜びの一つだ。
 旧約聖書続編の読書に触発されたローマ帝国史ヘの関心。秋成の交友関係に名前を残す江戸文芸、学芸の才人たちの生涯と作品、その作風。
 専らこの点にいま学ぶこと、知ること、蓄えること、の愉悦を感じている。
 仕事の帰りに本屋で塩野七生の文庫を買った。帰宅して秋成交遊録の旧稿へ目を通した。わからぬこと、知らぬこと、納得ゆかぬ点、幾つもある。メモを取り、調べて知らなかったことを知り、蓄えて、一本の稿と成す。
 大田南畝と秋成の間にあった清冽な交流録(新稿)はそうやって成る一本。お披露目できるはずだ。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3349日目 〈「読了」ツイートを本ブログに転載してゆきます。〉 [日々の思い・独り言]

 Twitterでは能う限り報告している「読了」報告。ブログには殆ど反映されぬ報告でもある。わたくしの意識ではあくまでTwitterはブログの補助ツールだ。されどTwitterで報告してもブログに反映されること、極めて僅か。
 そんな不備解消を主目的に今後、本ブログでもTwitterで行った読了報告を転載してゆく。これまでドストエフスキーの短編でしか行ったことのない転載を、暫時実施してゆく。但し後日感想文となって昇華されたものはその限りでない。写真の転載も行わぬ。
 また予めお断りしておくと、これは手抜きではない。統合、である。──これまで自分が書いてきた一切合財を本ブログに集約、最終的に統合してゆく、という。
 明日以後、気儘に上記作業へ着手してゆくので、どうぞ宜しく。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3348日目 〈資料再蒐集の溜め息。(つうやき・なう)〉 [日々の思い・独り言]

 落ち着かぬ気持ちを宥めんと柏木如亭の詩集を読む。詩に詠われた地名から連想が働き、幕臣・国学者の詠歌へ至る。
 斯くして一編のエッセイ、プロット成るも地名辞典、人物辞典、書物総目録の架蔵せざるに気附いて手痛さを覚える。
 執筆のため好学のため神保町再訪予定。仕事の合間の資料再蒐集である。◆


柏木如亭詩集 1 (東洋文庫0882)

柏木如亭詩集 1 (東洋文庫0882)

  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2020/09/30
  • メディア: Kindle版



柏木如亭詩集 2 (東洋文庫0883)

柏木如亭詩集 2 (東洋文庫0883)

  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2020/09/30
  • メディア: Kindle版



江戸漢詩選 ((下)) (岩波文庫 黄 285-2)

江戸漢詩選 ((下)) (岩波文庫 黄 285-2)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2021/03/15
  • メディア: 文庫




共通テーマ:日記・雑感

第3347日目 〈連れ添ってくれる奥方様と、もうすぐ生まれてくる娘へ。〉 [日々の思い・独り言]

 いちねん前のブログ原稿を点検していて、ああもう1年が経ったのか、と感慨を深うせざるを得ませんでした。
 エイプリル・フールのジョーク記事のつもりがやはり土壌はあったせいで間もなく現実となり、いまは春の陽光のなかで過去を精算、切り棄てて得た代償──恩恵に身も心も浸してささやかな幸せを甘受できている。そうしていまは、お姫さまのお出ましを緊張しつつ待っています。

 正直なところ、彼女はわたくしには過ぎたる存在であります。日常を共に営む盟友として、わずらわしくも務めねばならぬ世事に対する戦友として、仕事の疎ましさや憂鬱の愚痴を聞いてくれる慈母として、書き物のインスピレーションを与えてくれる女神として、およそ奥方様に優る女性があろうとは思えない。
 とまれ、奥方様は最高位の御方なのであります、わたくしにとって。
 あらためて、20年超の長きにわたる奥方様との縁が途切れず続いて、今日へ至っていることに感謝します。

 あと数日に迫りました。お姫さまには、他人の痛みや苦しみや悲しみに寄り添い、思慮深く情緒豊かな人になってほしい。大切な人を守り、弱者の目を失わない人になってほしい。法と道徳を守ることができる人になってほしい。彼女が、健やかな人生を送ってくれることを祈る。
 お姫さま、あなたにたっぷりの愛情をそそぐことを約束する。やりたいこと、やってみたいことを経済的理由で以て諦めることのないような環境を保障する。うん、がんばる。
 ママとパパに久遠の希望をくれた人の名前を、あなたに授けます。
 とりあえずいまのパパは、あなたお姫さまの僕となり、そのわがままに振り回される日の訪れを楽しみにしています。もっとも、ママがこれを聞いたら刹那、可愛いふくれっ面としかめっ面をするのだろうけれど。
 あなたは愛されて、祝福されて生まれた子なのだ、ということを、いつまでも忘れないでください。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3346日目 〈日本語聖書・英訳聖書の各書物表記一覧。〉 [日々の思い・独り言]

 整理を兼ねて今日は聖書各巻の日本語書名に並べて、英語の表記を書き留めておきます。日本語書名は新共同訳に準じます。()内の表記は別称であります。

旧約聖書 Old Testament(Old Testament canon)
〈律法〉Torah、〈五書〉Pentateuch
創世記 Genesis
出エジプト記 Exodus
レビ記 Leviticus
民数記 Numbers
申命記 Deuteronomy

ヨシュア記 Joshua
士師記 Judges
ルツ記 Ruth
サムエル記・上 1 Samuel
サムエル記・下 2 Samuel
列王記・上 1 Kings
列王記・下 2 Kings
歴代誌・上 1 Chronicles
歴代誌・下 2 Chronicles
エズラ記 Ezra(1 Ezra)
ネヘミヤ記 Nehemiah(2 Ezra)

エステル記 Esther
ヨブ記 Book of Job
詩篇 Psalms
箴言 Proverbs
コヘレトの言葉 Ecclesiastes
雅歌 Song of Songs

〈預言書〉
○4預言書 Major prophets
イザヤ書 Isaiah
エレミヤ書 Jeremiah
哀歌 Lamentations
エゼキエル書 Ezekiel
ダニエル書 Daniel

○12小預言書 Twelve Minor Prophets
ホセア書 Hosea
ヨエル書 Joel
アモス書 Amos
オバデヤ書 Obadiah
ヨナ書 Jonah
ミカ書 Micah
ナホム書 Nahum
ハバクク書 Habakkuk
ゼファニヤ書 Zephaniah
ハガイ書 Haggai
ゼカリヤ書 Zechariah
マラキ書 Malachi

——


旧約聖書続編
トビト記 Tobit (Tobias)
ユディト記 Judith
エステル記(ギリシア語) Greek Esther 
マカバイ記・一 1 Maccabees[
マカバイ記・二 2 Maccabees[
知恵の書 Wisdom of Solomon(Book of Wisdom)
シラ書(伝道の書) Wisdom of Sirach(Sirach)
バルク書 Baruch
エレミヤの手紙 Letter of Jeremiah
ダニエル書・補遺 Additions to Daniel
 アゼルヤの祈りと3人の若者の賛歌 The Prayer of Azariah and Song of the Three Holy Children
 スザンナ Susanna and the Elders or Susanna
 ベルと竜 Bel and the Dragon
エズラ記(ギリシア語) 1 Esdras(3 Ezra)
エズラ記(ラテン語) 2 Esdras(chap,3–14;4 Ezra, 1–2;5 Ezra, 15-16;6 Ezra)
マナセの祈り Prayer of Manasseh

——


新約聖書 New Testament(New Testament Canon)
〈福音書〉 Canonical gospels
マタイによる福音書 Matthew
マルコによる福音書 Mark
ルカによる福音書 Luke
ヨハネによる福音書 John

使徒言行録 Acts of apostles

〈パウロ書簡〉Pauline epistles(Epistles of Paul or Letters of Paul)
ローマの信徒への手紙 Romans
コリントの信徒への手紙・一 1 Corinthians
コリントの信徒への手紙・二 2 Corinthians
ガラテヤの信徒への手紙 Galatians

エフェソの信徒への手紙 Ephesians
フィリピの信徒への手紙 Philippians
コロサイの信徒への手紙 Colossians
テサロニケの信徒への手紙・一 1 Thessalonians
テサロニケの信徒への手紙・二 2 Thessalonians
テモテへの手紙・一 1 Timothy
テモテへの手紙・二 2 Timothy
テトスへの手紙 Titus
フィレモンへの手紙 Philemon

ヘブライ人への手紙 Hebrews

〈公同書簡〉 Catholic epistles (General epistles)
ヤコブの手紙 James
ペトロの手紙・一 1 Peter
ペトロの手紙・二 2 Peter
ヨハネの手紙・一 1 John
ヨハネの手紙・二 2 John
ヨハネの手紙・三 3 John
ユダの手紙 Jude

〈黙示録〉 Apocalypse
ヨハネによる福音書 Revelation

——


○主要な旧約・新約外典(Apocrypha) ※上記旧約聖書続編に含まれるものを除く。
ヨベル書 Jubilees
エチオピア語エノク書 1 Enoch
スラヴ語エノク書 2 Enoch
第4バルク書 4 Baruch
詩篇151編 Psalm 151
クレメンスの手紙・一 1 Clement
クレメンスの手紙・二 2 Clement
ヘルメスの牧者 Shepherd of Hermas

 こうして英訳書名を一瞥すると、われらにも日頃から馴染みの名前が聖書由来であることがよくわかります。サムエル(サミュエル)然り、ダニエル然り。このあたりは先日見た大好きな映画の1本である『刑事ジョン・ブック 目撃者』に登場するアーミッシュの祖父と孫の名前になっていましたし、ハリソン・フォード演じる主人公ジョン・ブックも名前の由来はヨハネである。穿った見方をすれば、ブック、も大文字表記だと聖書を指す、といいますから、かなり練られた姓名になっております。
 マタイはマシューになって、たとえばアン・シャーリーを引き取った家庭の好人物ですし、マルコがマークとなればマーク・ハミルを筆頭に(個人の見方です)、フランスまで広げれば『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王もその名を引いていることがわかります。エステルのエスター、テモテのティモシー、ペトロ(ペテロ)のペーター、どれもお馴染みの名前でありましょう。
 マルケ王でフランスまで広げましたが、ラテン語系、ゲルマン語系でどれだけの聖書の登場人物や書名の名前に由来を持つものがあり、それがかの国々ではどう表記、発音、日本語になった場合の表記になるか、など調べてみるとなかなか面白い時間の過ごし方になると思います。
 ちょっとこうして書いてみて、ふとふしぎに感じたのが、ダニエルを除いて預言者の名前でピン、と来るものがない、ということであります。畏れなど敬虔的感情、或いは配慮等あるのでしょうか……。これも考えてみると、案外と根っこの深い話になりそうですね。
 聖書を横に置きながら英語の、ひいては諸外国語の勉強になるばかりでなく、こうした人名のルーツなどまで考えられる点で、やはり聖書を対訳であったり原書と並べて読むことは非常に有意義で、いちど味わったら忘れられない知的興奮に彩られた経験になるのかもしれません。試してみると良いと思います。
 今回のような日本語書名と各国語書名を並べて表記することは今後も、その国の言葉に訳された聖書を入手したら順次行ってゆきたいと考えています。いま出来るのは他にロシア語とフランス語だけですが、奥方様の出産が終わって子育てのルーティンが確立するまでは難しそうです。◆

共通テーマ:日記・雑感

第3345日目 〈コールセンター業界へどっぷり浸かった10年間で体得したこと。〉 [日々の思い・独り言]

 役者さんと営業マン、コールセンターのオペレーターは似ている、という話をしたことがあります。また、コールセンターのオペレーターは探偵でもある、と。誰に? 馴染みのクラブのお嬢さんに。
 こういうわけなのです。
 与えられた役を演じる、素の自分ではない<誰か>を演じる。これが役者さんのお仕事です。営業マンも然り。自社製品を、自社取扱いサービスを売りこむためにかれらは仮面をかぶる。表情と声に磨きをかけ、相手の心理をたくみに操って成果へ結びつける。
 これは、コールセンターのオペレーターにも当てはまることなのです。ただ、こちらの場合は顔の表情や身振り手振り、その場の空気というか相手との距離感に頼ることが難しい職種です。そのためにコールセンターの研修では必ずというてよいぐらい、「声の表情」と「受電中/待機中の姿勢」について口ウルサク指導されるわけです。
 「受電中/待機中の姿勢」についてはいわずもがな。姿勢は案外と声の表情にあらわれるものなのです。椅子に浅く腰掛けていたり、うつむき加減であったり頬杖を突いていたり、なんていうのは以ての外。声が間延びになったり、くぐもったり、だらしなく聞こえるだけだ。生きているのか死んでいるのかわからぬような調子の声で対応する人、生気のない声で対応する輩は、根本的にこの業界には向かない人です。感情をコントロールできない、感情がそのまま声のトーンや応対品質に反映して余計なクレームを生む、なんていうのは最悪です。待機中の時間を寝て過ごす、なんて遊びに来てるのか、と罵倒したい。
 この件に関してわたくしは実例を挙げて(なんなら名指し──実名暴露で)一々指摘してゆくことだってできます。やりませんけれどね、そんな徒労でしかない作業。思えば過去1年の期間で上記を立証する格好のサンプルがごろごろした現場を見ることができたのは、或る意味で僥倖だったかもしれません。数10名いたなかでマトモに使い物になり、仕事を安心して任せられたのは、Mさん、Bちゃん、A氏、Tさん、Y氏、の5人であった。同僚の管理者も使い物にならない1人でありましたな。
 とまぁ、姿勢は、コールセンターに於いては特に大事だよ、という話でした。
 もう1つ、「声の表情」ですが、これについては初めてCC運営会社で就業した際、SVの女性が仰っていたことを紹介してお茶を濁します。なんとなればそれは、いまのわたくしが新人オペレーターたちへ研修するときの柱の1つとしているからであります。
 かの人曰く、ご入電者様に寄り添った対応を、クライアント様から安心して業務を継続してお任せ頂けるような対応をするため、電話の向こうの方にこちらの笑顔を感じさせる声を出すように心掛けましょう、と。それが<笑声(えごえ)>である。
 要するに、ぶっきら棒だったり無表情、無感情な声で対応するのではなく、実際に、自席に鏡を置いて対応中の自分の顔がちゃんと口角の上がった、極端なことをいえば目尻に笑いジワができるぐらいの表情で対応しましょう、という教え。われらは──国の事業のオープニングメンバーとして縁あって集まったわれらはそれを、かのSV女史から徹底的に仕込まれた。
 そうしてなんの抵抗も疑問もなく(少なくともわたくしは)それを受け入れ、実践してゆきました。その結果としてなにが起こったか。ご入電者様から担当したオペレーター宛にお礼のお葉書を頂戴したり、センターの事業所紹介ポスターにはインカムを付けたみんなの笑顔の写真をあしらってなんという名称か忘れたが、ともかく最高の結果を残した。笑顔がその場で作られたものではなく普段からの笑顔であったので、そうした結果を出せたのだ。横道に逸れたが、対応が終わる折は感謝の言葉を頂くなんてことは日常茶飯事でありましたな。そうした細やかな喜びでもなければ、繁忙期の1日平均入電件数2,000件超なんて電話業務、やってられませんよ。
 このときの経験はそこから異動したり辞めたり戻ったり、を繰り返してオペレーターをやったり管理者をやったりしていてもキチンと活かされているようで、正直なところ、応対スキルは姿勢や笑声など含めて誰より優っていた、という自負はありますよ。いや、マジで。
 気附けばコールセンター業界へどっぷり身を浸して、もう10年になろうとしています。もう定年まで、否、再雇用のときでもここから抜け出すことは到底できない。でもこれとて最初にキチンとオペレーターとしての心構えとか基本マインドを叩きこまれて、褒めて伸ばして頂いた成果だ。もういっしょに仕事をする機会は恵って来るまいが、いまのわたくしを育ててくださったのは間違いなく件のSV女史、Yさんである……あなたの下で働けたこと、いろいろ懇切にして頂いたこと、親身になってくださったことに、なによりもあなたの存在に感謝しています。
 その後派遣社員としてSVをやったこともあったけれど、範として思い描いていたのは常にあなたでした。もっとも、派遣SVでの就業先には「?」なSVがおりまして、その雲泥の差に嘆かわしくなりましたけれど。あの会社でオペレーター、管理者を経験したらどの会社でも問題なく就業して中核になることができますね。あなたの仰った通りだった。
 「演じる」という見方では役者も営業マンもコールセンターのオペレーターもなんら変わりない、但しコールセンターのオペレーターはそこにプラスして、対応中であろうと待機中であろうと「姿勢」が大事なのですよ、ご入電者様と自分をつなぐのは声だけなのだから表情を想像させる声、笑顔を想起させる声、を作ることを心掛けましょうね、ということなのであります。
 これらを一笑に付したりなんにも響かない、という人は、およそコールセンターには絶対不向きの人であります。この世界(業界)での就業は諦めましょう。
 また、こうした経験をしっかりと積んだ人が管理者になるべきなのであり、2〜3カ月しかオペレーターを経験していないで、上司が、波長が合うから、好みだから、というだけで管理者に指名されてしまった方こそ哀れであります。その事業所でこそ極めて有能な働きを見せることができても、他の事業所へ移ったら途端に使い物にならない、「ポンコツ」にも劣る人材にしかならぬだろう──過去の事例をつらつら思い返してそう考えるのであります。
 ……嗚呼、コールセンターのオペレーターは探偵である、ということに言及できなくなってしまいました(忘れていました)。つまり、ご入電者様が断片的にもたらすわずかな、本当の手掛かりだけを拾い集めて「なにをいわんとしているのか」を推理して、解決のための1本の道筋を示さなくてはならぬ、そうした意味でオペレーターの仕事は探偵に似た部分がある、というのであります。もっとも、探偵、というたのは単に当方の推理小説好きが発症しただけでのことでありますが、しかし、探偵脳である必要はある、と思うております。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。