第3589日目 〈片柳弘史『何を信じて生きるのか』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 キリスト者には勿論であるが、非キリスト者にこそ手にしてほしい、読んでほしい1冊。「キリスト教がどうのというのではなく、もっと普遍的な所で、「生きる」事の意義を見出せる導きの1冊。そうわたくしは読んだ」、Twitterの読了ツイートのほぼ全文である。
 著者は山口県宇部市にあるカトリック教会の神父。幼稚園の先生や刑務所の教誨師も務める。大学在学中に家族の不幸に遭ったことがきっかけで洗礼を受け、インドのコルカタでボランティア活動中にマザー・テレサから神父になるよう助言された人である。
 全4章から成る本書は、神父と、Twitterをきっかけに教会へ通い始めた学生の対話で構成される。それぞれに核となる部分を、敢えてわたくしが摘出すれば以下のようになる。つまり、──
 「一、自分を信じる」の核は、秀でた能力を持ったり、良いものをたくさん持っている人間だから愛される価値があるのではなく、かりにそのようなものを自分が持っていなくても、あなたはあなたであるだけで愛される価値がある、という点にあろう(P33)。
 これは万人への福音ではあるまいか。非キリスト者であってもこのことは信じて良いと思う。
 「二、人を信じる」の核となる点は2つ。1つは、神が作り給うた命には等しく価値があり、意義がある、ということ(P60)。もう1つは、なにかを変えたいと思うならば相手のなかにある愛に働きかけ、愛を以て相手に接する以外にない、なんとなればどんな人のなかにも愛は存在するから、ということ(P76)。──これらはまさしく、イエスが弟子たちに繰り返し、事ある毎に伝えた「あなたの隣人を愛しなさい」につながる点といえるだろう。
 他にも本章には、神父がマザー・テレサと接して印象に残った4つのことも紹介されている。これは是非、神父の言葉で読んでいただき、考えていただきたいと思う(「3 愛することは大切にすること」)。
 「三、明日を信じる」の核とは、この2つの点に尽きるのではないか。即ち、「神に身をゆだねる」とは、不条理な時代、明日もいまと同じ世界が存在しているとは限らない時代だからこそ、見通すことの不可能な未来のこと(これからの頃)は神に任せて、いまの自分に与えられた使命を悔いなく果たすのが「神に身をゆだねる」ことである、という点(P96)。もう1つは、神は試練を与えるけれども同時に、試練を乗り越えるための力も与えてくれる、ということ(P108)だ。これについてはあとで述べることとし、いまは先を急ぐ。
 「四、信じる心を育てる」はすこぶる深い内容となり、信仰生活の根幹となる〈祈り〉についての対話が展開される。──祈りとは、自分自身の心に向き合い、自分自身の心の声に耳を傾けること(P130)であり、感じ取ることが心の世界へ入りこんでゆく第一歩であると同時に心の深い領域へ踏みこむ取っ掛かりである、そうやって心と向かい合っているうちに「心の深い部分が姿を現し始める」(P136)。またそのようにして祈り、心を静かにしてゆくなかで自分の声が聞こえるようになり、神の声に耳を傾ける準備も整う(P138)。
──と。
 ただ、どうしても素直に首肯しかねる部分も、ある。第2章6節「愛するとは信じること」の、相手を信じるきっかけについての対話だ。

 学生:どんなに迷っても、(相手を)最後は信じなければならないのでしょうね。
 神父:「信じなければならない」というか、「この人を信じずにはいられない」ということです。この人の笑顔、この人のまなざし、この人のやさしさに触れたなら、もうこの人を信じずにはいられない、この人を愛さずにはいられない。それが、本当の意味で信じるということであり、愛するということなのです。(P89 ()内引用者)

──と。
 書かれた内容について、分かる部分はある。が、それに首肯しかねている自分がいる。著者の生きる社会(それは教会を中心とした社会だろう)と、読者たるわたくしの生きる社会とでは、「相手を信じる」の実質が異なっているように感じるからだ。この点については時間をかけて再考してゆく必要がありそうだ。
 そうして最後に、わたくしが最も感銘を受けた箇所、前に「あとで述べる」というた2つ目の核、108ページである。第3章3節「過去と未来」から神父の言葉だ。曰く、──

 世間でよく「神は、乗り越えられない試練を与えない」といいますが、わたしはあの言葉は、「神は、試練を与えるときには、必ずそれを乗り越えるための力も与えてくださる」といった方がより正確ではないかと思っています。自分の力で乗り越えるというよりも、思いがけない出会いや、家族、友だち、みんなの助けなどによって乗り越えられることが多いからです。

──と。
 この本で唯一、文句なしに素直に首肯できた一節であった。頭で納得したのではなく、心で納得できたのである。
 「試練を与えるばかりでなく、それを乗り越える(克服する)力も与えてくれる」とは、なんと希望にあふれた教えではないか。これこそがキリスト教が──カトリックが、非キリスト者にもたらした普遍的な力を持つ真の〈福音〉だと、わたくしは確信して止まぬ。
 この一節、この教えに出会えただけでも充分に報われた……とは流石に言い過ぎか?
 最後に、本書からもう一節、引いて擱筆したい。こちらも、神父の言葉である。

 このような愛(無条件の愛)に出会ったとき、わたしたちの心は初めて本当の安らぎを得られる。わたしは、そう確信しています。家族や友だちのうちに宿った真実の愛に気づくとき、あるがままのわたしたちを無条件に受け入れてくれる本物の愛と出会うとき、わたしたちは初めて本当の幸せと出会うのです。(P34 ()内引用者)◆

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